3 司牧的奉仕職のなかで

司牧的奉仕職のなかでの聖書への頻繁な依拠は、『神の啓示に関する教義憲章』(n.24)によって奨励されたものだが、司牧者に有益で信者の理解の助けになる解釈の種類に応じてさまざまな形態を取る。三つの状況が区別される:要理教育、説教、そして聖書使徒職である。キリスト教生活の一般的水準に関係するさまざまな要因が絡んでいる。

要理教育における神のみ言葉の説明は(Sacros.Conc.,35; Gen.Tatech. Direct.,1971,16)、聖書を第一の源に置いている。聖書は、伝統の文脈のなかで説明されるとき、要理教育の出発点と基礎そして規範を提供してくれる。要理教育の目標の一つは、聖書の正しい理解と実り豊かな読書へと人を手引きすることである。これによって、聖書が含む神的真理の発見がなされ、神がご自分のみ言葉を通して全人類にお送りになった使信に対して可能な限り寛大な応答が喚起されよう。

要理教育は、神的啓示の歴史的文脈から出発して、新旧約の人物と出来事とを神の包括的なご計画の光のなかで提示すべきである。

聖書本文から、現代にとっての救済的意味へと移行するには、さまざまの解釈学的手続きが使われる。これらの手続きは、さまざまな種類の注解書を生み出すであろう。要理教育の有効性は、使用される解釈学の価値に依存している。表面的な注解書に依拠し満足する危険が存在する。それは、聖書のなかの人物や出来事の系列を単に年代順に提示するだけの注解書である。

明らかに要理教育は、聖書本文の全範囲のごく一部を利用できるだけである。一般的に言って要理教育は、新約や旧約の物語を特に使用しなければならない。要理教育は十戒を選び出さなければならない。また要理教育は、預言的託宣や知恵の教え、そして山上の垂訓のような福音における偉大な言説を使用するように心がけるべきである。

福音の提示は、聖書の啓示全体を解く鍵を提供してくれるキリストとの出会い、ひとり一人に応答するように呼びかける神の招きを伝えるキリストとの出会いを引き出すような仕方で、行われるべきである。預言者の言葉と「み言葉の奉仕者たち」の言葉とが、今のキリスト者たちに向けられたものであるかのようにすべきである。

同様の見解は、説教の奉仕職にも当てはまる。説教の奉仕職は、古代の本文から、キリスト教共同体の現在の必要に合った霊的支えを引き出すべきである。

今日、この奉仕職は、特に感謝の祭儀の第一部の終わりに、神のみ言葉の宣言に続く教話を通して行われている。

教話の過程で与えられた聖書本文の解説は、細部に渡ることはできない。したがって、本文の中心的な寄与、すなわち信仰にとってもっとも啓発的な、そして共同体と個人の水準との両面におけるキリスト教生活の進展にとってもっとも刺激的なものを解説するのが適切である。このような中心的な寄与を提示することは、その現在化と文化内在化とを、上に述べられたことに従って達成しようとする努力を意味する。この目的に到達するには、よい解釈学的諸原理が必要である。この分野での準備の欠如は、聖書の読書の深みの探索を回避する誘惑を引き起こし、単に道徳的に説明することに満足してしまうか、あるいは同時代の諸問題を語りはするがそれらに神のみ言葉の光を注ぐのに失敗してしまうであろう。

幾つかの国で解釈者たちは、司牧者が典礼の聖書本文を正しく解釈しそれに適切な今日的意味を持たせるのを助けるために、出版物の刊行を促した。そのような努力がもっと広範囲に繰り返されるのが望ましい。

説教者たちは、信者に課せられたもろもろの義務を一方的に強調するのを確実に避けるべきである。聖書の使信は、神によって自由に与えられた救済の善い報せであるという第一の特徴を保持しなければならない。説教は、信者の人たちが何よりも聖書に啓示された通りの「神の賜物を知る」(John 4:10)のを助けるとき、より有益でより聖書にかなった任務を遂行するであろう;信者の人たちはそのとき、聖書から流れ出るもろもろの義務をより積極的な光の下に理解するであろう。

聖書使徒職は、聖書を神のみ言葉であり生命の源として知らせることを目標としている。何よりも聖書使徒職は、あらゆる種類の言語への聖書の翻訳を促進し、それらの翻訳をできるだけ広く普及させるように努める。それは、数多くの率先的企てを造り出し、そして支える:聖書研究に専念するグループの結成、聖書協議会、聖書週間、雑誌や書籍の刊行、等々。

重要な貢献が教会の諸団体や運動によってなされている。それらは、信仰とキリスト教的行動の視野のなかで聖書を読むことに高い評価を与えている。多くの「基礎的キリスト教共同体」が、自分たちの集会の焦点を聖書に合わせ、三重の目標をみずからに掲げている:聖書を知ること、共同体を創設すること、人々を助けること。ここでも解釈者たちは、本文によく基づかない聖書の使信の現在化を回避する上で有益な助けを与えることができる。しかし聖書を、低い状態に置かれた人々や貧しい人々の手のなかに見るのは喜ばしい;かれらは、聖書の解釈と現在化とに、一人よがりの学識から来るもの以上に洞察力のある光を、霊的かつ実存的な観点から与えることができる(cf Matt 11:25)。

大量情報伝達(「マス・メディア」)の諸手段――出版、ラジオ、テレビ――のますます増大する重要性は、神のみ言葉の宣言と聖書の知識がこれらの手段によって伝達されることを求めている。それらの非常に判然とした諸特徴と、他方で巨大な大衆とに影響を及ぼすことのできる能力とは、それらの諸手段の使用に当たって特別な訓練を求める。実際にはつまらない衝撃的効果と並んで、取るに足らない即興をも回避するのを促すだろう。

文脈――要理教育、説教、聖書使徒職――がどのようなものであれ、聖書の本文は、常に、それにふさわしい敬意をもって提示されるべきである。