2 神的読書

 

神的読書(Lectio Divina)とは、個人の水準であるいは共同体の水準で行われる――神のみ言葉として受け取られ、(聖)霊の促しの下に沈思と祈りと観想へと導く――聖書の多かれ少なかれ長い章句の読書である。

聖書の規則的で毎日の読書への関心は、初代教会の習慣を反映している。集団の慣行としての聖書朗読は、三世紀、オリゲネスの時代に証拠立てられている;オリゲネスは、一周間に渡って連続的に読まれる聖書の本文に基づいて数々の教話を行なったものである。その当時、聖書の朗読と解説に当てられる日毎の集会があった。しかしこの慣行は必ずしも、キリスト者たちの間で大きな成功を収めたわけではなく(Origen, Hom. Gen., X.1)、結果的に廃れてしまった。

神的読書は、特に個人としてのそれは、修道院生活の黄金時代に証拠立てられている。現代では、教皇によって承認された聖書委員会の訓令が、在俗者も修道者も含めてすべての聖職者に、この読書を奨励している(De Scriptura Sacra, 1950: EB 592)。したがって個人としての形式であれ共同体としての形式であれ、両形式の神的読書の強調は、今一度一つの現実となった。視野に入れられている目標は、内的生活と使徒的な実り豊かさとの源である聖書への「効果的で不断の愛」を造り出し養うこと(EB, 591と567)、また典礼のよりよい理解を促進し、聖書のために、神学的研究と祈りとにおいてより重要な位置を確保することである。

同じく公会議の憲章『神の啓示に関する教義憲章』(n.25)は、司祭と修道者とに、聖書の粘り強い読書を要求している。さらにこの憲章は――そしてこれは幾分新しいことであるが――「キリストのすべての信者」にも、「神的書物の頻繁な読書を通じて、キリスト・イエスの圧倒的な知識」(Phil 3:8)を獲るように招いている。さまざまな方法が提案されている。私的な読書と並んで、グループでの読書も提案されている。公会議の文書は、祈りが聖書の朗読に伴うべきであることを力説した。というのは、祈りは、(聖)霊からの霊感の下に聖書のなかで出会った神のみ言葉への応答だからである。共同読書のたくさんの率先的企てがキリスト者の間で開始された。後は、神とイエス・キリストにおける神の救済計画とについてのよりよい知識を聖書から引き出したいと願うこの願望を促進するだけである。