限界

 

聖書のなかに表現された救いをもたらす真理との一致を保つために、現在化の過程は、幾つかの限界内に留まり、間違った方向を取らないように注意すべきである。

聖書のいかなる読みも必然的に選択的であるから、偏向した解釈、すなわち、本文に対して従順である代わりに、自分自身の狭い目的だけに合わせて本文を利用しようとする読みを避けるように配慮すべきである(幾つかの分派、たとえばエホバの証人によって行われている現在化がこれに当たる)。

現在化は、もしもそれが聖書本文の基本的方向と食い違う理論的諸原理に基づくなら、すべての妥当性を失う。たとえば、信仰に対立する合理主義や無神論的物質主義。

福音的正義と愛に逆行するあらゆる現実化の試みもまた、明らかに斥けられねばならない。たとえば、人種差別や反ユダヤ主義、あるいは男性による、あるいは女性による性差別などを正当化するために聖書を使用すること。第二バチカン公会議の精神に従って(Nostra Aetate, 4)、ユダヤ人への好ましくない態度を喚起し得るあるいは補強し得る幾つかの新約聖書本文のいかなる現実化も絶対に避ける特別の配慮が必要である。それどころか、過去のもろもろの悲劇的な出来事は、すべての人々が絶えず次のことを心するように駆り立てるものでなければならない。すなわち、新約聖書によると、ユダヤ人は、やはり神の「最愛の民」である。「なぜなら神の賜物と招きは撤回不可能だからである」(Rom 11:28-29)。

聖書の使信の現在化が本文の正確な解釈から開始し、教会教導職の指導の下に生ける伝統の流れのなかに留まり続けるなら、誤った道は回避されよう。

いずれにしても誤謬の危険は、不可避の任務すなわち、聖書の使信をわれわれ自身の時代の人々の耳と心とに届けるという任務の遂行に反対する有効な意見を構成しない。