4 見解の相違点と必要な意見交換

国際神学委員会は、神学的真理の解釈についての1988年の文書で、近年、解釈と教義神学との間に、闘争が発生したことを思い起こさせた;そしてその文書は、現代の解釈が組織神学に果たした積極的な貢献を述べた(The Interpretation of Theological Truth, 1988, C.I, 2)。もっと正確に言うと、その論争は自由主義的解釈によって惹起されたと言うべきである。カトリックの解釈と教義神学との間には、一般的な意味では、いかなる闘争もなかった。むしろ強い緊張の例が幾つかあっただけである。しかしながら、一方あるいは他方の見解の相違が、それ自体はまったく適法なのであるが、事実上調停不可能までに硬化して、闘争に変質し得ることも真実である。

両学科の見解の相違は、実際、異なっており、正しくそうである。解釈者の第一の任務は、聖書本文の意味を、それ自身に固有な文脈のなかで、すなわち先ず第一にその本文に特有の文学的歴史的文脈のなかで、次いでより広い聖書正典の文脈のなかで、できるだけ正確に決定することである。この任務を遂行する過程で、解釈者は、本文の神学的意味を説明する、もしもそのようなものがあれば。このことが、解釈ともっと立ち入った神学的省察との連続的な関係へと向かう道を敷くのである。しかしその観点は同じではない。なぜなら解釈の作業は、根本的に歴史的で記述的であり、聖書の解釈にみずからを限っているからである。

神学者たちは、かれらなりに、本性的により思弁的でより体系的な役割を担っている。それゆえ、かれらは、聖書の幾つかの文書と側面にしか本当に興味を示さない。さらにかれらは、の聖書的ではない他のもっとたくさんの資料――教父の諸著作、公会議の諸定義、教導職の他の諸文書、典礼――ならびに哲学の諸体系、同時代の世界の文化的社会的政治的状況を取り扱う。かれらの任務は単に聖書を解釈することではない;かれらの目的は、キリスト教信仰のすべての側面、取り分けキリスト教信仰と人間存在との決定的な関係についての側面に向けられた充全な省察のしるし持つそのキリスト教信仰の理解を提示することなのである。

神学は、その思弁的で体系的な方向性のゆえに、しばしば聖書を、教義的テーゼを確証するのに役立つ証明論拠(dicta probantia)の宝庫と見なす誘惑に負けてしまった。神学者たちは近年、古代文書の正しい解釈にとって文学的歴史的文脈が重要であることを一層鋭く意識するようになった。そしてかれらは、解釈者たちと進んで協働作業をするようになった。

聖書は、それが書き下ろされた神のみ言葉である限り、いかなる単一の組織神学も決して完全には捉え切れないあるいは限定できない豊かな意味を備えている。聖書の主要な機能の一つは、神学的諸体系に重大な挑戦を与え、体系的省察の努力のなかで時として忘れ去れあるいは無視された神的啓示と人間的現実との重要な諸側面の存在に絶えず注意を向けさせることである。解釈学的方法論のなかで行なわれた刷新は、これらの領域の自覚に独自の貢献をすることができる。

これに対応して、解釈は、神学的研究によって情報を与えられるようにみずからを開くべきである。こうすることによって解釈は、本文に重要な問い掛けを行ない、その充全な意味と豊かさとを発見するように促されるだろう。聖書の批判的研究は、神学的研究からも、教会の霊的体験と識別とからもみずからを分離することはできない。解釈は、全世界の救済へと方向づけられた教会共同体の生ける信仰の文脈のなかで実行されるとき、最善の成果を生み出すのである。