解釈と倫理神学

 

同様の観察は、解釈と倫理神学との間の関係に対してもなすことができる。聖書は適切な行為についての多くの教示――命令、禁止、法的規制、預言的勧告、非難、知恵による助言など――を、救済史に関する物語に密接に結びつけている。解釈の任務の一つは、このように豊かな題材の意味を評定することによって、倫理学者たちの作業に道を用意することにある。

この作業は単純ではない。というのは、聖書本文は、普遍的な道徳原理を、祭儀上の純潔さと法令とが持つ特殊な規定から区別する関心を持っていないからである。すべてが混ぜ合わされている。他方で聖書は、新約聖書のなかでその完成を見る著しい道徳的発展を映し出している。したがって旧約聖書が、何らかの道徳的立場(たとえば奴隷制と離婚の慣行、あるいは戦時の虐殺)を指示し、これに永続的な妥当性を持たせようとしていると見るのでは不充分である。識別の過程を開始する必要がある。このことは、道徳的理解の進歩と年月の流れのなかに生起する感受性との光のなかでこの問題を再検討することになる。旧約聖書の諸書は、幾つかの「不完全で暫定的な」諸要素を含んでおり(Dei Verbum, 15)、神的摂理はこれらの諸要素をすぐには除去し得なかった。新約聖書それ自体も、道徳性の分野になると、容易には解釈され得ない。というのは新約聖書は、しばしば逆説的で挑発的でもある仕方で、比喩的表現を頻繁に使用しているからである;さらに新約聖書の分野では、キリスト者たちとユダヤ律法との間の関係が、激しい論争の主題になっているのである。

したがって倫理神学者たちは、解釈研究を促す多くの諸問題を解釈者たちに提出する権利を持っている。多くの場合、その回答は、いかなる聖書本文も提出された問題に明示的に応えていないということになろう。しかしそのような場合でも、聖書の証言は、それが聖書全体を支配する力強い力動感の枠組みのなかで捉えられたとき、進むべき実り豊かな方向を確実に指し示すであろう。もっとも重要な諸点では、十戒の道徳的諸原理が基本的なものとして残る。旧約聖書は既に、「神の似姿に即して」(Gen 1:27)造られた人間の尊厳に完全に一致する振る舞いを求める諸原理と諸価値とを含んでいるのである。新約聖書は、キリストにおいて訪れた神の愛の啓示を通して、これらの原理と価値とに最高に充全な光を注いだのである。