教授

 

また公会議の宣言は、神学部や神学校そして修道会神学院における解釈の教授に付属する根本的な役割も明らかにした。これらの研究施設の水準はあらゆる場合に同じでないことは明らかである。解釈の教授は、男性と女性の両者によって行われることが望ましい。この教授は、大学の学部では専門的なものであるとしても、神学校ではより直接的に司牧的な方針を持っていなければならない。しかしこの教授は、本当に真剣な知的次元を欠いてはならない。これ以外の仕方での進行は、神のみ言葉への軽視を示すことになろう。

解釈の教師は、生徒たちに聖書に関する深遠な理解を伝え、聖書の文学的歴史的社会的神学的価値をよりよく理解するには、聖書がどれほど注意深く客観的な研究に値するかを示すべきである。教師たちは、単に受動的に吸収されるべき一連の事実を伝えることに満足することはできない。むしろ、生徒たちがみずからで主体的な判断を下せるように、解釈の方法の純正な手引きを行い、主要な諸段階を説明すべきである。

教師の自由になる時間は限られているので、二つの択一的な教授方法を利用することは適切である:一方で、聖書のすべての書の研究へと生徒たちを案内する総合的な解説である。ただし、新旧約のいかなる重要な領域も省いてはならない;他方で、慎重に選ばれた特定の本文の深い分析である。これは同時に、解釈の実践への手引きを提供するであろう。いずれの場合でも、一面的な接近法を避けるように配慮しなければならない。つまり、一方では、歴史的批判的な根拠を欠いた霊的な解釈にだけみずからを限定した接近法と、教義的ないしは歴史的内容を欠いた歴史的批判的解釈にみずからを限定した接近法である(cf Divino Afflante Spiritu: EB 551-552; PCB, De Sacra Scriptura recte docenda: EB 598)。教授は、聖書の各書の歴史的起源、そしてどのようにしてその各書が天のおん父が愛をもってご自分の子らに語られた位格的なみ言葉を構成しているのか、また司牧的奉仕職におけるそれら各書の不可欠の役割を余すところなく明らかにすべきである(cf 2 Tim 3:16)。