III. 聖書委員会の新しい文書

12. このような展望のなかで『すべてを見とおされる神』は、「研究の広大な領野が、解釈者各人の個人的作業に開かれている」(EB, n.109)と述べました。五十年後に『神の霊の息吹』は、再び同じ激励の言葉を与えております:「カトリックの解釈者の知的洞察力と才能とを、その議論と説明とに当たって自由に行使できまた行使すべき多くの、そして時にとても重要な問題があります」(EB, n.565)と。

1943年に真実であったことは、わたしたちの時代においても依然として真実であります。と申しますのは、研究の進展が、幾つかの諸問題に回答を与えると同時に、研究すべき新たな問を生み出してきたからです。他の諸科学におけるのと同様に、解釈においても、未知の領野の限界を後退させればさせるほど、探求すべき領域を拡大させることになるからです。『神の霊の息吹』の公表後五年も経たずに、クムラン写本の発見が聖書の多くの諸問題に新しい日の光を与え、別の研究の領野を開きました。それ以来、たくさんの発見がなされ、調査と分析の新しい方法が完成されました。

 

13. 諸問題を新たに検討する必要を生み出したのは、このような状況の変化でした。教皇庁聖書委員会はこの任務に取り組み続け、今日、『教会における聖書解釈』と題するその取り組みの成果を提出いたしました。

この文書を最初に読んで見て目立つものは、この文書が生み出された開放の精神でした。今日解釈の領域で実践されているかずかずの方法と接近法と解釈が検討されており、言及すべき重大な留保が時折あるものの、聖書本文の完全な解釈に有効な諸要素が、ほとんどあらゆる場合に存在することを認めることができます。

カトリックの解釈は、それに独自の排他的な解釈方法を持っているわけではなく、哲学的な前提や信仰の真理に反する前提から解放された歴史的批判的な基礎を出発点にしているのですから、カトリックの解釈は、現行のすべての諸方法の一つひとつのなかに「み言葉の種」を探しながら、それらの諸方法を最大限に活用するのです。

 

14. こうした総合のもう一つの特徴は、その均衡と節度です。この総合は、通時的なものと共時的なものと(the diachronic and the synchronic)が、聖書本文に含まれるすべての真理を明らかにし、現代の読者の適法な要求を満足させるために不可欠であり相補的に働くことを認めることによって、その通時的なものと共時的なものとを調和させる術を知っているのです。

一層重要なことなのですが、カトリックの解釈は、時として歴史的批判的方法が間違えるように、聖書の啓示の人間的側面にだけに注意を集中させるようなことは致しません。またカトリックの解釈は、神的側面にだけ注意を向けるようなことも致しません。これは根本主義ならおそらくすることでしょう;カトリックの解釈は、聖書全体の基礎である神の「へりくだり」(Dei Verbum,n.13)のなかで統一されたものとしてこの両者に光を当てるように努力しているのです。

 

15. 最後に、人は、この(教皇庁聖書委員会の)文書が、次の事実を強調しているの気づくでしょう。聖書の言葉は、時と空間のなかで、あらゆる人々に普遍的に語り掛け、働いているという事実です。もしも「神のみ言葉が・・・人間の言語のようなものである」(Dei Verbum, n.13)ならば、それは、神のみ言葉がすべての人に理解されるためなのです。神のみ言葉は遠くかけ離れたものであってはなりませんし、「あなたにとってあまりにも神秘的で遠く及ばぬものではありません。・・・ なぜならみ言葉はあなたのすぐ近くにあって、既にあなたの口と心のなかにあるのです;あなたはそれを行いさえすればよいのです」(Dt 30:11,14)。

これが聖書解釈の目標です。解釈の第一の任務が聖書本文の真正な意味や、あるいはその異なった意味にまでも到達することであるとすれば、解釈は次にこの意味を、聖書の受け取り手に伝えなければなりません。聖書の受け取り手は全人類の一人ひとりです、できますならば。

聖書は、幾世紀にもわたって影響を及ぼしてきました。現在化の不断の過程は、解釈を同時代の精神性と言語とに適応させます。聖書の言語の具体的で直接的な本性は、この適応を大いに容易にしております。しかし聖書が古代文化に起源を持っていることが少なからざる困難を引き起こしています。ですから、聖書の思想がその聴き手に適した仕方で表明されるには、それをいつも同時代の言語に改めて訳す必要し直す必要があります。しかしながらこの翻訳は、原典に忠実でなければなりませんし、与えられた時代に流行している解釈や接近法に迎合するために本文を曲解することもできません。神のみ言葉は、たといそれが「人間の言葉のなかで表現される」(Verbum Dei,n.13)としても、そのあらゆる輝きのなかで現われねばならないのです。

今日、聖書は、あらゆる大陸とあらゆる国に普及しております。しかし、聖書が深い影響を及ぼすには、それぞれの民族に固有の天分に従った文化内在化がなければなりません。おそらく、現代西欧文明の逸脱にあまり傷つけられていない諸国の民は、世俗化と過度の非神話化によって神のみ言葉の働きにいわば無感覚になってしまった人々よりも、容易に聖書の使信を理解することでしょう。

今日、学者や説教者の側ばかりでなく、聖書の思想を普及するする人々にとっても、大きな努力が必要です:かれらは、可能なあらゆる手段を使って――そしてそれは今日たくさんあります――聖書の使信の普遍的意味が大いに認められ、その救いをもたらす効果が到る所で見られるようにすべきです。

この文書のおかげで、教会における聖書解釈は、世界全体の善益のための新たな活力を得て、第三の千年紀の戸口を前にして真理が輝き渡り、真理が愛を掻き立てるようにすることができるでありましょう。