教会のさまざまな成員たちの解釈上の役割

 

教会に与えられたものとしての聖書は、信者たちの団体全体の共同の遺産である:「聖伝と聖書とは、教会に委託された神のみ言葉の一つの神聖な委託物を形成する。この委託物に堅く依りすがることによって、聖なる民全体は、その司牧者たちと一つに結ばれて、使徒たちの教えに堅く忠実の留まるのである・・・」(Dei Verbum, 10; cf also 21)。確かに聖書の本文との親しさは、教会史のある時期に、他の時期以上に信者たちの間で顕著になったことがある。しかし聖書は、最初の数世紀の修道院運動から第二バチカン公会議の最近の時代まで、教会生活における刷新の重要なすべての要素の中心にあった。

この同じ公会議は、次のことを教えている。すなわち、洗礼を受けたすべての人は、キリストへの自分たちの信仰を感謝の祭儀の挙行にもたらし、キリストの現存がそのみ言葉のなかにもあることを認める。「なぜなら聖書が教会のなかで読まれるとき、語るのはキリストだからである(Sacro-sanctum Concilium, 7)。このみ言葉の傾聴を通して、聖書は、(神の)民全体を特徴づける「信仰の感覚」(sensus fidei)をもたらす・・・。「真理の霊によって引き起こされ支えられる」この信仰の感覚によって、「神の民は、かれらが忠実に従う聖なる教導職に導かれつつ、人間の言葉ではなくて、他ならぬ神のみ言葉を受け入れる(cf 1 Thes 2:13)。神の民は、聖なる人たちにかつて伝えられた信仰に堅く過たずに依りすがり、正確な洞察をもってそのみ言葉に一層深く沈潜し、それをキリスト教生活に一層完全に適応するのである(Lumen Gentium, 12)。

こうして教会のすべての成員は、聖書の解釈において何らかの役割を持っている。司教たちは、使徒たちの後継者として、その司牧的な奉仕職の行使において、聖書があらゆる時代に解釈されるところの生きた伝統の第一の証人であり保証人である。「司教たちは、真理の霊の光を受け、神のみ言葉を忠実に守り、これを説明し、これを自分たちの説教を通して一層広く知られるようにする任務を帯びている」(Dei Verbum, 9; cf Lumen Gen-tium, 25)。司祭たちは、司教たちの協働者として、み言葉の宣言を自分たちの第一の義務として持っている(Presbyterorum Ordinis, 4)。かれらは、自分たち自身の考えではなく、神のみ言葉を伝えることによって、福音の永遠の真理を日々の生活の具体的な諸状況に適用するとき、聖書解釈のための独特の賜物を与えられている(ibid.)。司祭たちと助祭たちは、特に諸秘跡の執行に際して、教会の奉仕職においてみ言葉と秘跡とによって構成される一致を明確にする義務を有している。

感謝の祭儀に集まった共同体の主催者としての、また信仰における教育者としてのみ言葉の奉仕者の主要な任務は、単に知識を分け与えるだけではなく、信者の人たちが聖書を聞きそれを省察する際に、神のみ言葉がかれらの心に何を語り掛けているかをかれらが理解し識別するように助けることである。こうして地方教会全体は、すなわちイスラエルの雛形に倣う神の民(Exod 19:5-6)は、神によって語り掛けられていることを知る共同体(cf John 6:45)、信仰と愛と従順とをもってみ言葉を熱心に聞く共同体(Deut 6:4-6)となる。かれらが信仰と愛において教会のより大きな体と常に一つに結ばれているとは言え、そのように(神のみ言葉を)真に傾聴する諸共同体は、それぞれの文脈のなかで、福音化と対話の強力な源、社会的変革の行為者となる(Evangelii nuntiandi, 57-58; CDF, Instruction Concerning Christian Freedom and Liberation, 69-70)。

また(聖)霊は、たしかに個々のキリスト者たちにも与えられる。かれらが各自の個人的な生活の文脈のなかで祈り、そして祈りのなかで聖書を研究するとき、かれらの心は「内で燃える」ことができるのである。このようなわけで第二バチカン公会議は、聖書への接近はありとあらゆる可能な仕方で容易にされると主張した(Dei Verbum, 22; 25)。この種の読みは、まったく個人的なものというわけではないということは、特筆すべきである。というのは、信者は常に教会の信仰のなかで聖書を読みそして解釈し、共通の信仰を豊かにするためにその読みの成果を共同体に持ち寄ってくるからである。

聖書の伝統全体は、そして特に福音書のなかのイエズスの教えは、世が低い地位にある民と見なしている人々を、神のみ言葉の特権的な聞き手として指し示している。イエズスは、賢く学識のある人たちから隠されたものが単純な人々に啓示されたことを認め(Matt 11:25; Luke 10:21)、神の国は、自分自身を小さな子供たちのようにする人々に属していることを認めた(Matt 10:14とその平行個所)。

同様にイエズスは次のように宣言した:「貧しいあなたがたは幸いである、神の国はあなたがたのものである」(Luke 6:20; cf Matt 5:3)と。メシアの時代のしるしの一つは、貧しい人々への善い報せの宣言である(Luke 4:18; 7:22; Matt 11:5; cf CDF, Instruction Concerning Christian Freedom and Liberation, 47-48)。無力さと人的資源の欠如のなかで自分たちの信頼を神だけにそして神の正義に置くように余儀なくされた人たちには、全教会によって考慮に入られるべき神のみ言葉を聞きそして解釈する能力がある;神のみ言葉はまた、社会的水準での応答を求めている。

教会は、(聖)霊が共同体の奉仕のために置いた賜物と職務の多様性、特に教える賜物を認めつつ(1 Cor 12:28-30; Rom 12:6-7; Eph 4:11-16)、聖書についての専門的知識を通してキリストの体の建設に貢献する特殊な能力を示す人々に敬意を表明している(Divino Afflante Spiritu, 46-48: EB 564-565; Dei Verbum, 23; PCB, Instruction Concerning the Historical Truth of the Gospels, Introd.)。解釈者たちは、自分たちの労作に対して過去において今日与えられているほどの激励を必ずしも受けなかったとしても、自分たちの学識を教会への奉仕として提供することによって、自分たちがオリゲネスとヒエロニムスの最初の数世紀からラグランジュ神父その他の近年に及び、そしてわれわれの時代にまで続く豊かな伝統の一部をなしていることに気づくのである。とくに、今日非常に強調されている聖書の文字どおりの意味の発見は、古代言語、歴史、文化、本文批評、文学形態の分析の分野における専門的知識を持った人たちと、科学的批判の諸方法を正しく使う術を知っている人たちの複合的な努力を要求している。本来の歴史的文脈のなかでの本文へのこのような配慮をこえて、教会は、「神の民に聖書の糧を効果的に提供できる能力を持ったできるだけ多くの言葉の奉仕者」を確保するために(Divino Afflante Spiritu, 24; 53-55: EB 551, 567; Dei Verbum, 23; Paul VI, Sedula Cura [1971])、聖書を鼓吹した霊と同じ霊によって活気付けられた解釈者たちを当てにしている。われわれの時代において特に満足を与えるものは、女性の解釈者たちの数が増していることである;かのじょたちは、鋭敏で新しい洞察をもってしばしば聖書の解釈に貢献し、これまで忘れらてきた諸特徴を再発見している。

上で述べたように、聖書が教会全体に属しており、司牧者と信徒のすべての人たちが「守り、告白し、共同の努力のうちに実践に移す」「信仰の遺産」の一部をなすとしても、「聖書と聖伝に追って伝えられた神のみ言葉を真正に解釈する責任は、イエズス・キリストの名において権威を行使する生ける教会教導職にのみ委ねられている」(Dei Verbum, 10)。こうして最終的に教導職には、解釈の真正さを保証し、必要ながあらば、何らかの解釈が真正な福音と両立しない場合を指摘する責任があるのである。教導職は、体の交わり(koinwni,a)のなかでこの職務を果たし、教会への奉仕として、教会の信仰を公式に表明する;この目的のために教導職は、神学者者たちと解釈者たちおよびその他の専門家の意見を諮る。教導職は、かれらの適法な自由を認めており、かれらと、「かれらを自由にする真理において神の民を守る」共通の目標のうちに互恵関係によって一つに結ばれている(CDF, Instruction Concerning the Ecclesial Vocation of the Theologian,21)。