2 教父の解釈

 

最初期の時代から、次のことが理解されてきた。すなわち、新約聖書の著者たちを動かして、救いの使信を書き記させた同じ聖霊(Dei Verbum, 7; 8)は、同様に、霊感を受けた諸著作の解釈のために教会に不断の援助を与えてきたと(Irenaeus, Adv.Haer.,3.24.1; cf 3.1.1; 4.33.8; Origen, De Princ., 2. 7. 2; Tertullian, De Praescr.,22)。

教会の教父たちは、正典の形成過程に際して独特な役割を果たしてきたばかりでなく、教会が聖書を読み解釈する際に絶えず教会に伴い教会を導く生きた伝統との関係においても根本的な役割を持っている(cf Providen-tissimus:EB 110-111; Divino Afflante Spiritu,28-30: EB 554; Dei Verbum,23; PCB, Instr, de Evang.histor.,1)。偉大な伝統のより広い流れのなかでの教父の解釈の独特な貢献は次のことに成り立っている:聖書の全体から、教会の教義的伝統を形作る基本的方向を引き出したこと、そして信者の教育と霊的養いのために豊かな神学的教説を提供したこと。

教会の教父たちは、聖書の読みとその解釈高い価値を置いた。このことは、先ず何よりも、教話や注解といった聖書理解に直接結び付けられた作品のなかに見ることができる。そればかりか、論争書や神学書のなかにも、主要な議論を支持するために聖書に論拠を求めていることは明らかである。

教父たちにとって聖書を読む主要な機会は、教会のなか、典礼の進行のなかである。したがってかれらの提供する解釈は、いつも、神との関係に関わる神学的司牧的な性質を持っており、共同体および個々の信者に有益なものになることを目指している。

教父たちは、聖書を何よりも神の書、唯一の著者の唯一の書と見なしている。このことはしかし、かれらが、人間の著者たちを受動的な道具にまで引き下げてしまったということを意味しない;かれらは、何らかの特定の著作に従って、その著作それ自体の特殊な目的を受け入れることもできる。しかしかれらの取る接近法は、啓示の歴史的発展にわずかの注意しか向けない。教会の多くの教父たちは、神のみ言葉であるロゴスを旧約聖書の著者であるとして提示し、こうすることで聖書全体がキリスト論的な意味を持っていると主張する。

アンティオキア学派の幾人かの解釈者たち(特にモプスエスチアのテオドロス)を除いて、教父たちは、聖書の文のなかに何らかの啓示しされた真理が表現されているのを見出すと、それを明らかにするために、その文をその文脈から離れて自由に取り出してよいと思っていた。ユダヤ人の立場に向けられた護教論や、他の神学者たちとの神学的論争において、かれらは、この種の解釈に依拠するのを躊躇わなかった。

教父たちの主な関心は、自分たちの兄弟姉妹との交わりのなかで聖書から生活することであったから、かれらはたいてい、自分たち自身の文脈のなかで通用する聖書本文を使うことで満足していた。オリゲネスをしてヘブライ語聖書への体系的な関心を抱かせたものは、ユダヤ人たちが許容可能と判断した文書から、かれらと議論を行なうという関心であった。かくして、ヘブライ人の真理(hebraica veritas)を賛美する聖ヒエロニムスは、この点で幾分例外的な人物のように見える。

聖書の特定の章句が幾人かのキリスト者に与える醜聞を取り除く一つの方法として、キリスト教敵対する異教徒たちは言うまでもなく、教父たちも、かなり頻繁に比喩的解釈に訴えた。しかしかれらが本文の文字どおりの意味と歴史性とを捨て去るのはまれであった。比喩法への教父たちの訴えは、大抵の場合、異教の著作家たちの間で使われたいた比喩的解釈への単純な順応を超えている。

比喩法への訴えはまた、神の書物としての聖書は、神によってその民、すなわち教会に与えられたものであるという確信から来ている。原則的に聖書には、時代外れのものあるいは完全に意味を書いているものとして除外されるべきものは何もない。神は、ご自分のキリストの民に、かれらのどの時代にも永久に当てはまる使信を絶えず語られている。教父たちは聖書の説明に際して、予型論的解釈と比喩的解釈とを実質的に解きほぐし難い仕方で混ぜ合わせ織り合わせている。しかしかれらがそうするのも、いつも司牧的教育学的な目的のためであり、書き記されたものはすべて、われわれの教育のために書き記されたのだと確信していたからである(cf 1 Cor 10:11)。

教父たちは、自分たちが扱っているものは神の書であり、従って無尽蔵の意味を含んだものであると確信していたので、どの章句も比喩的解釈に基づいた何らかの特定の解釈を受け入れるものだと考えていた。しかしかれらはまた、他の人たちも信仰の類比(analogy of faith)を尊重する限りで、他のものを自由に提供できると考えていた。

教父の解釈にこれほどまでに特徴的な聖書の比喩的解釈は、今日の人々を何かしら当惑させるものになる危険を冒している。しかしこのような解釈のなかに表明された教会の経験は、常に有益な貢献をなしている(cf Divino Afflante Spiritu, 31-32; Dei Verbum, 23)。教会の教父たちは、聖書を生きた伝統のただなかで、真正のキリスト教的精神をもって、神学的に読むことを教えている。