正典の形成

 

教会は、聖霊に導かれ、そして教会が受け取った生ける伝統の光のなかで、以下の意味で聖書と見なされるべき文書を識別した。すなわち、「それらの文書が聖霊の霊感のもとに書かれ、神をその著者とし、そういうものとして教会に伝えられたもの」(Dei Verbum, 11)、そしてそれらが「われわれの救いのために聖書のなかに置き入れようと望まれた真理」を含んでいるものという意味で(ibid.)。

聖書の「正典」の識別は、長い過程の結果であった。 (預言者の団体や祭司職に結びついた特定の集団から民全体に至るまでの) 古い契約の諸共同体は、一定数の文書のなかに、自分たちの信仰を喚起し、日々の生活に導きを与えてくれることのできる神のみ言葉を認めた;かれらは、それらの文書を、保存され伝えられるべき遺産として受け取った。このようにしてそれらの文書は、単に特定の著者の霊感の表現であることをやめた;それらは、神の民全体の共通の財産となった。新約聖書は、これらの聖なる文書を、ユダヤ民族から伝えられた貴重な遺産として受け取り、敬意を表している。新約聖書は、これらの文書を「聖なる書物」(Rom 1:2)、神の霊に「鼓吹されたもの」(2 Tim 3:16;cf 2 Pet 1:20-21)、「決して取り消すことのできないもの」(John 10:35)と見なしている。

「旧約聖書」(2 Cor 3:14)を形成するこれらの文書に、教会は、他の諸著作を緊密に結び合わせた:先ず、「イエスが行い教え始められたすべてのこと」(Acts 1:1)に関する、使徒たちに由来し(cf Luke 1:2; John 1:1-3)、聖霊によって保証された(cf 1 Pet 1:12)真正な証言があると、教会が認める諸著作。次に、信仰共同体の建設のために使徒たち自身および他の弟子たちによって与えられた教え。これら二つの系列の諸著作は、後に、「新約聖書」として知られるようになった。

多くの要因がこの過程で作用した:イエス――と、かれとともにいた弟子たち――は、旧約聖書を霊感を受けた書と認めたこと、そして過越秘義が真の成就であるという確信;新約聖書の諸著作は、使徒の教えの純正な反映であったという確信(このことは、それらの作品がすべて使徒たち自身によって作成されたということを意味しない);それらの著作が、信仰規則に一致しており、教会の典礼のなかで使用されているという認識;最後に、それらの著作が教会生活と親密な関係にあり、この生活を支えるだけの潜在能力を持っているという体験。

教会は、聖書の正典を識別するとき、自分自身の同一性も識別し定義していた。それゆえ聖書は、教会が絶えず自分自身の同一性を発見することのできる鏡、教会が福音に絶えずどのように応えているか、および教会が福音の適切な伝達者としてどのようにみずからを備えるかを、何世紀にも渡って評定することのできる鏡として機能した(cf Dei Verbum, 7)。このことは、正典文書に、他の古代の諸文書に付随しているのとは完全に異なる救済的神学的価値を与えている。他の古代文書は、信仰の起源に多くの光を与えることができよう。しかしそれらは、正典であると見なされ、したがって教会の信仰の理解に根本的であると見なされた著作の権威に代わることは決してできないのです。