3 幾つかの決論

 

以上述べられてきたことから、聖書は解釈の技法に関して多数の指示と示唆を含んでいると結論することができる。実際、聖書は、まさにその始めから、解釈の産物であった。その本文は、以前の契約の諸共同体と使徒時代の諸共同体とによって共通の信仰の純正な表現として認められた。これらの共同体の解釈作業に従って、そしてそれとともに、本文は聖書として認められた(たとえば、雅歌は、それが神とイスラエルとの関係に適応されたとき、聖書として認められた)。聖書の形成の過程で、聖書を構成する諸文書は、多くの場合、以前には知られていなかった新しい諸状況に応えることができるようにするために手直しされ再解釈された。

聖書がそれ自身による本文解釈を示すやり方は、以下の諸点を示唆している:

聖書は、啓示された信仰の表現をその本文のなかに認める信仰共同体の合意を基礎にして存在するようになった。このことは、教会共同体の生ける信仰にとて、聖書解釈それ自体が、本質的な事柄についての合意の源でなければならないということを意味している。

万人によって承認された聖書のなかに見出される信仰の表現が、新たな諸状況に対応するために絶えずそれ自身を刷新しなければならないとすると――このことが多くの聖書本文の「再読」を説明する――、聖書の解釈も同じく、創造性の側面を伴っていなければならない。

聖書のさまざまの本文の間に緊張が存在し得るとすると、解釈は必然的にある種の多元主義を示さなければならない。いかなる単一の解釈も、多くの声が共鳴する全体の意味を汲み尽くすことはできない。したがってある特定の本文の解釈は、他の解釈を犠牲にして支配的になるように望むことを避けねばならない。

聖書は、信者のかずかずの共同体との対話のうちにある:聖書は、それらの共同体の信仰の諸伝統から生まれた。その本文は、これらの伝統との関係のなかで発展し、諸伝統の発展に互恵的に貢献してきた。したがって聖書の解釈は教会の懐のなかで行われる:教会の多数性と一性なかで、そして教会の信仰の伝統の内部で。

信仰の諸伝統は、聖書の著者たちの文学的活動に対して生き生きとした文脈を形成した。こうした文脈へのかれらの参入は、諸共同体の典礼的外的生活、これらの共同体の知的世界、それらの文化、そしてそれらの共有された歴史の浮沈を分かち合うことも伴っている。同様に聖書解釈は、解釈者たちが自分たち自身時代の信仰共同体の生活と信仰とに充全に参与することを求めている。

聖書全体との対話――それは、以前の諸時代に流布していた信仰理解との対話を意味する――は、今日の世代の人たちとの対話に通じるものでなければならない。そのような対話は、連続性の関係を結ぶことを意味しよう。そうした対話はまた、相違を認めることを伴っていよう。それゆえ、聖書解釈は、篩にかけ脇に置く作業を伴っている;聖書解釈は、以前の解釈上の諸伝統と連続的な関係にあり、その諸伝統の多くの要素を保ち我が物とする;しかし聖書解釈は、他の事柄においては、独自の道を進み一層の発展を模索することだろう。