旧約聖書と新約聖書の関係

 

本文間の関係は新約聖書の諸作品のなかで極端に濃厚になる。新約聖書には、多様な暗示と明示的な引用とによって旧約聖書が浸透しているからである。新約聖書の著者たちは、旧約聖書に神の啓示という価値を与えた。かれらは、この神の啓示が、イエスの生活と教え、そして何よりも赦しと永遠の生命の源であるイエスの死と復活のなかで成就したと宣言した。「キリストは、聖書に書き記されているとおり、わたしたちの罪のために死に、そして葬られました;そしてかれは、聖書に書き記されているとおり三日目によみがえり、出現された・・・」(1 Cor 15:3-5):使徒の説教の中心と核心はそのようなものである(1 Cor 15:11)。

常のことだが、聖書と聖書を成就する出来事との関係は、単なる題材上の一致ではない。それどころか、そこには相互の照らし合いと、弁証法的な進展があるのである:ここで明らかになることは、聖書は出来事の意味を開示し、出来事は聖書の意味を開示するということ、すなわち出来事は許容された解釈のある側面を破棄し、新しい解釈を採用するように要求するということである。

その公的宣教のすぐ始めから、イエスは、ご自分の時代の公認の解釈すなわち「律法学者たちとパリサイ派の人たちの」(Matt 5:20)解釈とは異なる独創的な主体的立場を採用していた。このことの証拠はたくさんある:かれの山上の説教の二律背反(Matt 5:21-48);安息日の遵守からの絶対的自由(Mark 2:27-28とその平行個所);祭儀上の純潔規定のかれなりの相対化(Mark 7:1-23とその平行個所);他方で、他の領域におけるのかれの要求の徹底性 (Mark 2:15-17とその平行個所; 10:17-27とその平行個所)、そして何よりも「収税人たちと罪人たち」(Mark 2:15-17とその平行個所)への歓迎の態度。これらすべては、決して既成の秩序に挑戦しようとする個人的な出来心の結果ではなかった。それどころかそれは、聖書に表現された神の意志へのもっとも深遠な忠実さを表していたのである(cf Matt 5:17; 9:13; Mark 7:8-13とその平行個所;10:5-9とその平行個所)。

イエスの死と復活は、かれが開始した解釈上の発展をその極限にまで推し進め、思いがけない新しい窓口を開くとともに、ある点で過去との完全な断絶を引き起こした。「ユダヤ人たちの王」(Mark 15:26とその平行個所)であるメシアの死は、王詩編とメシア的預言の純粋に地上的な解釈の変質を促した。神の子であるイエスの復活と天への栄光に包まれた上昇は、これらの本文に、以前には想像もできなかった意味の充満を添えた。その結果は、それまで誇張と見られていた幾つかの表現が、いまや文字どおりの意味で取られなければならないということであった。それらの表現は、キリスト・イエスの栄光を表現するための神的な準備と見られるようになった。なぜならイエスは本当に「主」だからである(Ps 110:1)、その言葉のもっとも充全な意味において(Acts 2:3-6; Phil 2:10-11; Heb 1:10-12);かれは神の子であり(Ps 2:7; Mark 14:62; Rom 1:3-4)、神とともにある神(Ps 45:7; Heb 1:8; John 1:1; 20:28);「かれの支配は終わりがない」(Luke 1:32-33; cf 1 Chr 17:11-14; Ps 45:7; Heb 1:8)と同時に、かれは「永遠の祭司」である(Ps 110: 4; Heb 5:6-10; 7:23-24)。

新約聖書の著者たちは、復活の出来事の光のなかで、旧約聖書の記事を新たに読み返した。栄光化されたキリストによって遣わされた聖霊は(cf John 15:26; 16:7)、霊的な意味を発見させるようにかれらを導いた。このことは、かれらが旧約聖書の預言的価値をそれまで以上に強調するようになったことを意味するとともに、旧約聖書の救済体系としての価値を相当程度に相対化するという結果を持っていた。この第二の観点は、既に福音書のなかに現れているが(cf Matt 11:11-13とその平行個所; 12:41-42とその平行個所; John 4:12-14; 5:37; 6:32)、幾つかのパウロ書簡およびヘブライ人への手紙のなかに強く現れている。パウロとヘブライ人への手紙の著者は、トーラーそれ自体は、それが啓示であるかぎり、法体系としての固有の終わりを告げたことを示している(cf Gal 2:15-5:1; Rom 3:20-21; 6:14; Heb 7:11-19; 10:8-9)。したがってキリストへの信仰を信奉する異邦人たちは聖書の律法のすべての規定を遵守するように義務づけられる必要はない。聖書の律法の規定はその全体において、いまや特定の人々の法典の地位に単純に押しやられたからである。しかしかれらは、神のみ言葉としての旧約聖書のなかに、いまや自分たちの生活を支配している過越秘義の充全な諸次元を発見するのを助けてくれる霊的な糧を見出さなければならない(cf Luke 24:25-27, 44-45; Rom 1:1-2)。

これらすべてのことは、一つのキリスト教聖書の内部にある新約聖書と旧約聖書の関係がかなり複雑なものであることを十分に証明している。(旧約聖書の)特定の本文の使用が問題になる場合、新約聖書の著者は、解釈のために自分たちの時代に通用する観念と手続きに当然訴える。現代の科学的諸方法に従うようにかれらに要求するのは時代錯誤であろう。むしろ(現代の)解釈者は、聖書記者がそれらの本文を使った仕方を正しく解釈することができるようになるために、古代の解釈の技法を知る必要がある。他方で解釈者が、人間の限られた理解力を単に反映しているに過ぎないものに絶対的価値を置く必要のないことは、真実であり続ける。

最後に、新約聖書のなかには、旧約聖書におけるのと同様に、時として互いに緊張するさまざまな視野の併置が見られることを付言しておこう:たとえばイエスの立場について(John 8:29; 16:32とMark 15:34)、モーゼの律法の価値について(Matt 5:17-19とRom 6:14)、義化ための業の必要性について(James 2:24とRom 3:28; Eph 2:8-9)。聖書の特徴の一つは、まさしく、体系化の感覚の不在と、力動的な緊張関係の下に置かれた物事の存在である。聖書は、同じ出来事を解釈し、同じ問題を熟考するためのさまざまな仕方の保管庫である。聖書それ自体が、われわれに、過度の単純化と狭量な精神を避けるように強く促している。