再読(Relectures)

聖書に独特の内的統一を与えているのは、後の聖書作品が初期の聖書作品にしばしば依存しているということである。これらのより最近の作品は、より古い作品をほのめかし、時として本来の意味とはまったく異なる意味の新しい諸側面を発展させる「再読」(relectures)を創出する。また本文は、より古い章節に明示的に言及することによって、それらの章節の意味を深めたり、それらの成就を知らせたりすることもあろう。

このようにして、神がアブラハムの子らに約束した土地の嗣業は(Gen 15:7,18)、神の聖所への入場(Exod 15:17)、忠実に信仰を保った人たちに取って置かれた(Ps 95:8-11; Heb 3:7; 4:11)神の「安息」への参与(Ps 132:7-8)となり、最後に、天の聖所(Heb 6:12; 8-20)、「永遠の嗣業地」(Heb 9:15)への入場となったのである。

ダビデに「家」すなわち王朝の継続を約束する、「とこしえに堅く据える」(2 Sam 7:12-16)というナタンの預言は、数多くの言い換えで呼び起こされており(2 Sam 23:5; 1 Kings 2:4; 3:6; 1 Chr 17:11-14)、特に艱難の時代に現れているが(Ps 89:20-38)、重大な変更はなされていない。この預言は、他の預言によっても引き継がれており(Ps 2:7-8; 110:1,4; Amos 9:11; Isa 7:13-14; Jer 23:5-6; etc.)、その預言の幾つかは、ダビデの王国それ自体の環帰を告げている(Hos 3:5; Jer 30:9; Ezek 34:24; 37:24-25; cf Mark 11:10)。約束された王国は、普遍的なものとなった(Ps 2:8; Dan 2:35,4; 7:14; cf Matt 28:18)。この王国は、人類の召命を完全なものにする(Gen 1:28; Ps 8:6-9; Wis 9:2-3; 10:2)。

エルサレムとユダが被った70年の懲らしめに関するエレミアの預言は(Jer 25:11-12; 29:10)、歴代誌下25:20-23で思い起こされ、そこではこの懲らしめが実際に起こったことが断言されている。それにもかかわらず、もっと後になると、ダニエルの著者は、もう一度この預言の省察に戻り、神のこのみ言葉は、その著者自身の時代の状況に光を与えることのできる隠された意味を内蔵していると確信した(Dan 9:24-27)。

善に報い悪を罰するという神の配分的正義の基本的な主張は(Ps 1:1-6; 112:1-10; Lev 26:3-33; etc.)、多くの直接的経験の前面を飛び交っているが、これらの経験はしばしばこの配分的正義を支持しない。この事態を前にして聖書は、抗議と論争の強い声を聞かせることを許す(Ps 44; Job 10:1-7; 13:3-28; 23-24)。というのは、この事態は、神秘の全き深みを少しずつより深遠に探測しているからである(Ps 37; Job 38-42; Isa 53; Wis 3-5)。