II. カトリックの解釈と受肉の神秘との間の調和

6. 霊感を受けた聖書本文と受肉の神秘とを結び付ける厳かな関係が、『神の霊の息吹』の次のような言葉で表明されました:「神の実体的なみ言葉が、罪を除いてあらゆる点で人間のようになったのと同じように、神の語られるさまざまな言葉も、人間の言語のなかで表明されるとき、誤謬を除いてあらゆる点で人間の言葉のようになった」(EB, n.559)。公会議の『神の啓示に関する教義憲章』(Dei Verbum, n.13)によってほとんど文字どおり繰返されておりますこの声明は、(聖書本文と受肉の神秘のの間にある)意味深い平行関係に光を当てております。

たしかに、聖書的霊感のカリスマを通して神の語られるみ言葉を書物に表すことが、神のみ言葉の受肉に向けた歩みの第一歩でした。実際これらの書き記されたみ言葉は、選ばれた民とかれらの唯一の主との間で交わされる意思疎通と交わりの一つの不変の手段でした。他方、これらのみ言葉の預言的側面のおかげで、「み言葉が肉となり、わたしたちの間に住まわれた」(Jn 1:14)とき、神のご計画の実現を認識することができました。肉となったみ言葉の人性が天の栄光へと挙げられた後でも、書き記されたみ言葉のおかげで、わたしたちのなかみ言葉が住まわれていることが不変の仕方で証拠立てられております。霊感を受けた最初の契約の諸著作と結びついて、霊感を受けた新しい契約の諸著作は、信じる民と父と子と聖霊なる神との間で交わされる意志の疎通と交わりの確かな手段となっているのです。もちろんこうした手段は、十字架に付けられたキリストのみ心から流れ出て教会の諸秘跡を通じて広がっている霊的生活の流れと切り離すことができません。しかしそれでもこの手段は、まさにそれ自身を立証する文書として、独自の一貫性を持っているのであります。

 

7. したがって二つの回勅は、カトリックの解釈者たちが受肉の神秘、限定された歴史的生活のなかでの神的なものと人間的なものとの結合の神秘との十全な調和のなかに留まるように求めています。イエスの地上でのご生涯は、一世紀の始めのユダヤとガリラヤの場所と日付とによって定められるだけではありません。古代近東の小さな民族の長い歴史のなかに下ろされたイエスの深い根によっても定められるのです。この小さな民族は、弱さと偉大さ、神の民と罪人、緩慢な文化的発展と政治的不運、平和と神の国の憧れを抱えていました。キリストの教会は、受肉の現実性を真剣に考えています。そしてこのことが、教会が聖書の「歴史的批判的」研究に大きな重要性を与えていることの理由なのです。わたくしの前任者たちは、「神秘的」解釈を支持する人たちが望むように「歴史的批判的」研究を断罪するどころか、それを力強く是認しております。レオ十三世は、「たしかに批判的方法を取る学科が、聖書の文章を完全に理解するのにとても有益であることをわたしたちは力強く是認し、(解釈者たち、すなわちカトリックの解釈者たち)がこれを尊重するように勧める」(聖書委員会を設立する1902年10月30日付使徒的書簡 Vigilantiae:EB, n.142)と書きました。是認における同じ「力強さ」と同じ副詞(「力強く」)は、本文批評の探求に関する『神の霊の息吹』のなかにも見出されます(cf EB, n.548)。

 

8. 『神の霊の息吹』は、わたくしたちが知っているように、解釈者たちが聖書のなかで使われている文学類型を研究し、カトリックの解釈が次のことを確信しなければならないと言うところまでその研究を進めるように奨励しています。すなわち、カトリックの解釈が、「その任務のこの部分を無視することはカトリックの解釈に重大な害を及ぼさずにはいないと確信し」なければならない、と(EB, n.560)。この奨励は、(聖書)本文の意味を可能なかぎり精密かつ厳格に、しかもそれらの本文の歴史的文化的な文脈の中で理解しようとする関心から始まっています。神と受肉に関するある誤った観念が、幾人かのキリスト者に、反対の接近法を取るように迫りました。神は絶対的な存在なのだから、神のみ言葉はいずれも絶対的な価値を持ち、人間の言語のあらゆる条件から独立していると、かれらは思う傾向にあります。したがってかれらによりますと、み言葉の意義を相対化しかねない(文学類型の)区別を行うためにこれらの条件を研究する余地はまったくないのです。これこそ、絶対者の誤った観念に固執することによって、錯覚が生まれ、聖書的霊感の神秘と受肉の神秘とを本当に斥けることなのです。聖書の神は、ご自分が触れるあらゆるものを押しつぶし、すべての相違とすべてのニュアンスとを抑圧するような絶対者なのではありません。それどころか聖書の神は、創世記の記事が繰り返し述べておりますように(Gn 1)、「それぞれをその種に応じて」驚くばかりに多様な存在をお造りになったのです。神は、相違を破壊するどころか、相違を尊重し、相違を利用しているのであります(cf. 1 Cor 12:18,24,28)。神は、ご自分の意思を人間の言語のなかで表していますが、それそれの表現に一様な価値を与えてはおりません。かえって神は、人間の言語にあり得るニュアンスを極めて柔軟に利用し、さらに人間の言語の限界までも受け入れているのです。これが、解釈者たちの仕事をこれほどまでに複雑にし、しかもこれほど必要でこれほど魅力的なものにしているものなのです 言語のいかなる人間的側面も無視することはできません。言語学的文学的解釈学適研究の最近の進歩は、(聖書)の文学類型の研究に、他の(修辞学的物語的構造主義的)観点を付け加えるように聖書解釈を促しました;他の人間科学、たとえば心理学や社会学などもやはり使われるようになりました。これらのすべてに、レオ十三世が聖書委員会の会員たちに与えた任務が適応できます:「会員たちは、現代の学者たちの熱心な探求が新たに見出すものを、自分たちの領域とは関係ないと思ってはなりません。それどころか、それぞれの時代が聖書解釈にもたらす有益なものを遅延なく採用するように心がけねばなりません」(Vigilantiae: EB n.140)。神のみ言葉の人間的条件の研究は、常に新たな関心をもって追求されるべきであります。

 

9. それにもかかわらず、これだけでは充分ではありません。教会の信仰と聖書の霊感との一致を尊重するには、カトリックの解釈は、聖書本文の人間的側面にだけに限らないように注意しなければなりません。何よりも先ずカトリックの解釈は、キリスト者の人々を助けて神のみ言葉を一層親愛に知覚するように促し、かれらが神のみ言葉を受け入れ、神との充全な交わりのうちに生きることができるようにしなければなりません。こうするには、解釈者みずからが(聖書)本文のなかに神のみ言葉を知覚することが明らかに必要です。解釈者は、自分の知的作業が、活気ある霊的生活によって支えられている場合にのみ、これをすることができるのです。

この支えがなければ、解釈上の探求は不完全なままでしょう;解釈上の探求は、その主要な目的を見失い、二次的な仕事に始終してしまうでしょう。それは、一種の逃避にもなり得ます。(聖書)本文の人間的側面だけを科学的に研究することは、神のみ言葉が一人ひとりに、自分自身から出て信仰と愛のうちに生きるように招いているという事実を、解釈者に忘れさせるかもしれないのです。

この点で、回勅『すべてを見とおされる神』は、聖書の特別な本性とその解釈の一貫した必要性とを呼び起こしています:「聖書は普通の書き物になぞらえることができません。聖書は、聖霊ご自身によって書き取られたもので、多くの点で神秘的で難解なものですが極度に重大な内容を備えています。したがってわたしたちは、聖書を理解し説明するために、同じ聖霊の訪れ、すなわち疑いなく謙虚な祈りのなかで求められ、聖性の生活によって維持されねばならない聖霊の光と恵みとを常に必要としています」(EB, n.89)と、レオ十三世は述べています。『神の霊の息吹』も、少し短い言葉ですが、聖アウグスティヌスから借りた定式のなかで、同じ必要を表明しています:「かれらは、理解するために祈らなければなりません」(Orent ut intelligant!; EB, n.569)。

実際、聖霊によって鼓吹されたみ言葉の完全に妥当な解釈に到達するには、まず、聖霊によって導かれなければならないのです。そしてそのために祈り、おおいに祈り、祈りのなかで聖霊の内的な光を求め、その光をすなおに受け入れ、愛を求めねばなりません。愛だけが、「愛である」神のみ言葉の理解を可能にしてくれるのです(1 Jn 4:8,16)。人は、解釈の作業に従事する一方で、できるかぎり神の現存のうちに留まらなければならないのです。

 

10. 聖霊へのすなおな従順は、解釈の具体的な方針に必要なもう一つの態度を生み出しそれを強化します:それは教会への忠実さです。カトリックの解釈者は、信者の共同体の外側で聖書本文を一層よく理解できるという信念に導く個人主義的錯覚を受け入れません。その反対が真実なのです。と申しますのも、これらの聖書本文は、「個々の研究者の好奇心を満足させるために、あるいはかれらに研究や探求の題目を提供するために」(『神の霊の息吹』:EB, n.566)与えられたものではないからです;それらは、信仰を養い愛の生活を導くために、信者の共同体、キリストの教会に委ねられたものなのです。このような目的への敬意が、解釈の妥当性を条件づけています。『すべてを見とおされる神』は、この基本的真理を思い起こし、このことに対する敬意は、聖書の探求を妨げるどころか、その真正な進歩を促進すると述べております(cf.EB, nn.108-109)。解釈学的哲学における最近の研究がこの観点を確証したことや、さまざまな信仰告白を有する解釈者たちが、たとえば個々の聖書本文を教会によって承認された聖書正典の一部と見なして解釈する必要性を強調することによって、あるいは教父たちの解釈による貢献に一層多くの注意を払うことによって、類似した展望のもとに作業を進めてきたことに言及するのは、心慰められます。

実際、教会に忠実であることは、教導職の導きのもと、聖霊の特別な加護を確信しながら正典文書を神がご自分の民に向けて語られた言葉だと認める偉大な伝統の本流のなかにみずからの場をしっかりと見出すことを意味しています。この偉大な伝統は、正典文書を黙想することを決してやめず、絶えずその無尽蔵の富を発見してきました。第二バチカン公会議はこのことをもう一度主張しております:「聖書の解釈の方法に関してこれまで述べられてきたすべてのことは、究極的には教会の判断に従属している。教会は、神のみ言葉を護りそれを解釈するための任務と使命とを神から授与され行使するのである」(Verbum Dei,n.12)と。

とはいえ――『すべてを見とおされる神』の主張を繰り返しながら、公会議も述べていることですが――「これらの規則に従って聖書の意味のよりよい理解と説明とに向けて作業をし、自分たちの研究によって教会が一層堅固な判断を形成できるように助けることが、解釈たちの任務である」(Verbum Dei,n.12; cf.『すべてを見とおされる神』:EB,n.109:「言うなれば研究があらかじめ備えられることによって、教会の判断が成熟するために」)というのも真実であります。

 

11. 教会のこのようにとても重要な任務をよりよく遂行するために、解釈者たちは、(教会の)この使命に自分たちの時間の一部を捧げるとともに、この使命を行使する人たちとの関係を維持し、かれらの司牧的解釈の公表事業を助けることによって、神のみ言葉の宣教活動に緊密であり続けることに熱心でなければなりません(『神の霊の息吹』:EB, n.551)。ここのようにすれば解釈者たちは、かれらを聖書の真の意味から遠ざける抽象的な科学的探求の複雑さのなかで道を見失うこともなくなるでしょう。実際、聖書の真の意味は解釈者たちの目標と切り離すことができないのです。なぜなら解釈者たちの目標は、信者の人たちを神との対面的な関係に導くことにあるからです。