より充全な意味

比較的最近の用語である「より充全な意味」(sensus plenior)という言葉は、論議を し出した。より充全な意味とは、神によって意図されてはいるが、人間の著者によって明瞭に表現されていない本文のより深い意味として定義される。聖書本文におけるその存在は、人がその本文を他の聖書本文の光の下で、あるいはその本文と啓示の内的発展との連関のなかで研究するとき、知られるようになる。

問題になっているのは、後続の聖書記者が、初期の聖書本文に新しい文字どおりの意味を与える文脈のなかでその本文を取り上げたときに、それに帰した意味である。あるいは真正の教義的伝統ないしは公会議の定義が聖書本文に与えた意味である。たとえば、マタイ1:23の文脈は、やがて身ごもる almah に関するイザヤ7:14の預言に、七十人訳聖書の翻訳(parqe,noj)を使いながら、より充全な意味を与えている:「乙女が身ごもるであろう」と。三位一体についての教父と公会議の教えは、父と子と聖霊なる神についての新約聖書の教えのより充全な意味を表明している。トレント公会議による原罪の定義は、アダムの罪の人類に対する結果についてのローマ5:12-21にあるパウロの教えの充全な意味を提供した。しかしこの種の制御――明示的な聖書本文による制御あるいは真正な教義的発展による制御――がなければ、いわゆるより充全な意味への訴えは、妥当性を欠いた主観的解釈に行き着くだろう。

要するに、「より充全な意味」とは、霊的な意味が文字どおりの意味とは異なる場合の、聖書本文のその霊的な意味のまた別の表示の仕方であると考えてもよかろう。より充全な意味は、聖書の第一の著者である聖霊が、人間の著者を導いて表現の選択をさせ、人間の著者自身の気づかない奥深い真理を表明させることができるという事実に根拠を置いている。より奥深い真理は、時の流れのなかで――一方で、本文の意味を明らかにする神のさらに進んだ介入をとおして、他方で、聖書正典への本文の編入をとおして――より充全に開示されるであろう。このようにして、元々の文脈のなかでは隠されていた意味の新しい可能性を明らかにする新しい文脈が創造されるのである。