2 霊的な意味

 

しかしながら、「異質な」という言葉を、より高次の成就のすべての可能性を排除するほどに厳密な意味で取らなくてもいい理由が存在する。イエズスの死と復活という過越の出来事は、古代の本文に光を当て、それらの本文の意味を変革させるような根本的に新しい歴史的文脈を打ち立てたのである。特に、古代において誇張と考えられた幾つかの本文(たとえば、神がダビデの子について語りながら、その玉座を「永遠に」立てることを約束した託宣: 2 Sam 7:12-13; 1 Chr 17:11-14)は、いまや文字どおりの意味で取られなければならない。なぜなら「キリストは、死者のうちから復活させられたキリストは、もはや死なない」(Rom 6:9)からである。文字どおりの意味について狭い「歴史主義的な」観念を抱いている解釈者たちは、ここに本来のものとは異質の解釈の例があると判断するだろう。本文の力動的な側面に開かれた解釈者たちは、ここに、連続性の深遠な要素と、異なる水準への推移とを認めるだろう:キリストは永遠に支配する。しかしそれは、ダビデの地上的玉座の上でではない(cf also Ps 2:7-8; 110:1-4)。

そのような場合に人は、「霊的な意味」について語っている。原則としてわれわれは、キリスト教信仰によって理解される霊的な意味を、聖霊の働きかけの下、キリストの過越秘義とそれから流れ出る新しい生命との文脈のなかで読まれた場合の聖書本文によって表明されて意味として定義することができる。このような文脈は本当に存在する。その文脈のなかで新約聖書は聖書の成就を認識するのである。したがって聖書をこの新しい文脈の光のもとに――これは、(聖)霊における生命の文脈である――再読することは、まったく許容可能なことである。

上述の定義によってわれわれは、霊的な意味と文字どおりの意味との関係に関する一層正確な幾つかの有益な結論を引き出すことができる:

現今の広く行き渡った見解に反して、これらの二つの意味の間の区別は必ずしも存在しない。聖書本文がキリストの過越秘義あるいは新しい生命に直接関係しているときは、その文字どおりの意味は既に霊的な意味である。新約聖書の場合には必ずそうである。したがってキリスト教の解釈がきわめて頻繁に霊的な意味について語るのは、旧約聖書を扱う場合である。しかし旧約聖書のなかには本文が既に、文字どおりの意味として宗教的な意味ないしは霊的な意味を持っている例はたくさんある。キリスト教信仰はそのような場合のなかに、キリストによってもたらされた新しい生命への予示的な関係を認めるのである。

二つの意味の区別がある一方で、霊的な意味から、文字どおりの意味との結びつきを決して奪うことはできない。文字どおりの意味は前者に不可欠の土台として残るのである。さもなければ人は、聖書の「成就」について語ることはできないだろう。実際、成就が存在するためには、連続性の関係と一致の関係が必須なのである。しかしまた現実のより高次の水準への移行もなくてはならない。

霊的な意味は、想像や知性的思弁に由来する主観的解釈と混同されてはならない。霊的な意味は、それと無縁ではない本当の事実に本文を関係づけることから生じてくる:その本当の事実とは、イルラエルの歴史への神の介入の頂点をなし、全人類の益になる、まったく無尽蔵の豊かさを持った過越の出来事である。

共同体で行われるものであれ個人で行われるものであれ、霊的な解釈は、それがこれらの観点のなかに保たれている限りでのみ、真正の霊的な意味を発見することができる。したがって人は、実在の三つの水準をまとめることができる:聖書本文、過越秘義、そして(聖)霊における生命の現在の状況。

キリストの神秘が聖書全体の解釈の鍵を提供してくれると確信して、古代の解釈は、ラビの諸方法を使いながら、あるいはヘレニズムの比喩的解釈から着想を得ながら、聖書本文の霊的な意味を――たとえば祭儀法典のあらゆる規定のなかに――微に入って細を穿つように見出すことに精を出した。その司牧的有益さが過去においてどのようなものであったにせよ、現代の解釈はこの種のやり方に真の解釈上の価値を帰すことはできない(cf Divino Afflante Spiritu: EB 553)。

霊的な意味の可能な側面の一つは、予型論的な側面である。これは通常、聖書それ自体に属するのではなく、聖書によって表明された諸現実に属すると言われている:キリストの予型としてのアダム(cf Rom 5:14)、洗礼の予型としての洪水(1 Pet 3:20-21)、等々。たしかに、予型論に含まれている関連付けは、通常、聖書が古代の現実(アベルの声を参照せよ:Gen 4:10; Heb 11:4; 12:24)を記述する仕方に基づいているのであって、単に現実それ自体に基づいているのではない。したがってそのような場合には、人は本当に聖書的な意味を語ることができるのである。