文字通りの意味

 

本文の正確な意味をその著者によって生み出されたままに定義すること――このような意味が「文字どおりの意味」と呼ばれる――は、適法なばかりでなく絶対に必要でもある。聖トマス・アキナスは、このような意味の根本的な重要性を既に主張している(S.Th. I, q. 1, a. 10, ad 1)。

文字通りの意味は、原理主義者が拘泥する「逐語的な」意味と混同されてはならない。本文の文字どおりの意味を獲得するために本文を逐語的に翻訳するのでは充分ではない。人は本文を当時の文学習慣に従って理解しなければならない。本文が隠喩的である場合、その文字どおりの意味は、逐語的な翻訳から直接導き出されるものではない(たとえば、「あなたの腰を締めなさい」:ルカ12:35)。むしろその文字どおりの意味は、これらの言葉の隠喩的使用に対応してものである(「行動に備えなさい」)。物語が問題になっているときには、文字どおりの意味は、報告された事柄が実際に起こったのだという信仰を必ずしも含むものではない。というのは、物語は歴史の類型に属する必要はなく、かえって想像上の虚構の作業に属する必要があるからである。

聖書の文字どおりの意味は、霊感を受けた人間の著書によって直接表明されたものである。それは霊感の実りであるから、それはまた、原著者としての神によって意図された意味で意味でもある。人は、本文をその文学的歴史的文脈のなかで注意深く分析することによって、この意味に到達する。解釈の第一の任務は、聖書本文の文字どおりの意味をできるだけ正確に定義するために、文学的歴史的研究のあらゆる手段を使って、この分析を実行することである(cf Divino Afflante Spiritu: EB 550)。この目的のためには、古代の文学類型の研究が特に必要である(ibid. 560)。

本文には、たった一つの文字どおりの意味しかないのだろうか。一般にそうである;しかし厳重で硬性な規則が問題になっているのではない;そしてこれは、二つの理由による。第一に、人間の著者は、実在の一つ以上の水準に同時に言及することを意図することができる。実際このことは通例、詩歌に関して当てはまる。聖書の霊感は、人間の心理学と言語とのこの能力を斥けない;第四福音書は、その多数の例を提供している。第二に、人間の発話がたった一つの意味しか持たないように見えるときでさえ、神の霊感は、一つ以上の意味を造り出すような仕方でその表現を導くことができる。このことは、ヨハネ11:50のカヤファの発言に当てはまる;かれの発言は、不道徳な政治的策略と神の啓示とを同時に表明している。この二つの側面はともに、文字どおりの意味に属している。というのは、それらは、文脈によって明らかにされているからである。この例は極端ではあるが、それでもそれが、霊感を受けた本文の文字どおりの意味の余りにも偏狭な考え方を採用することに警告を与えている点で、意味深い。

人は、多くの本文の力動的な側面に特に注意すべきである。たとえば、王詩編の意味は、これらを産み出した歴史的状況に厳密に限られるべきではない。詩編作者は、王について語るとき、実際に存在した制度と、神がそうあるべきと意図された王権の理想化されたヴィジョンとを同時に呼び起こしているのである;こうしてその本文は、読者をして実際の歴史的表明のなかに置かれた王権制度の域を超えさせる。 歴史的批判的解釈は、本文の意味をあまりにも厳格に正確な歴史的状況に結び付けることによって、あまりにも頻繁に限定しようとしてきた。歴史的批判的方法はむしろ、本文によって表明された思想の方向を決定しようとすべきである;この方向は、意味の限定に向かう作業であるどころか、かえって多かれ少なかれ予見可能な意味の広がりを解釈者に気づかせるようにする。

現代解釈学のある部門は、人間の発話が書物に書き記されたとき、まったく新鮮な状態を獲ることを強調した。書き記された本文は、新しい状況のなかに置かれる能力を有し、この環境がその本文を別の仕方で照らし、新しい意味を本来の意味に付加する。書き記された本文のこの能力は、神のみ言葉として認められた聖書本文の場合、特によく働く。それらの本文を維持するように信仰共同体を励ましたものは、これらが来るべき信者たちの世代にとって光と生命の担い手であり続けるという確信であった。文字どおりの意味は始めから、新しい文脈のなかで本文を「再読すること」("relectures")によってもたらされる一層の発展に開かれているのである。

このことから、われわれが聖書本文をまったく主観的な仕方で解釈し、われわれの好きなような意味を何でも聖書本文に帰すことができるということは帰結しない。それどころか人は、書き記された本文のなかで人間の著者によって表明された意味とは異質のあらゆる解釈を非本来的なものとして斥けねばならない。そのような異質の意味の可能性を認めることは、歴史的に伝達された神のみ言葉という根から聖書の使信を切り離すことに等しいだろう;それはまた、でたらめな主観的解釈に門戸と開くことを意味するであろう。