2 解釈の有益さ

 

本文の解釈に関するこれらの同時代の諸理論について何を言うべきであろうか。聖書は、すべての後続する時代に向けられた神のみ言葉である。それゆえ、文学的歴史的批評の諸方法を解釈のより広い一つのモデルのなかに包括する何らかの解釈学的理論が絶対に必要である。問題は、聖書本文の著者と最初の受信人の時代とわれわれ自身の時代との距離を克服することであり、そうすることによって、キリスト教の信仰生活が糧を見出せるための聖書の使信の正しい現実化を可能にすることである。このように本文のすべての解釈は、こうした現代的な意味で理解された「解釈学」によって充分に完全になるように求められている。

聖書それ自体とその解釈の理論とは、解釈学の必要性――すなわち、今日のわれわれの世界から出発し今日のわれわれの世界へと向けられた解釈の必要性を示している。旧約聖書と新約聖書の諸文書の複合体全体は、創設的な出来事が信仰共同体の生活との連関のうちに絶えず再解釈されている長い過程の産物として現れている。キリスト教の伝統のなかでは、聖書の最初の解釈者としての教父たちは、本文に関する自分たちの解釈は、それがかれら自身の時代のキリスト者たちの状況に関連した意味を持つとき初めて完全になると考えていた。解釈が本当の意味で聖書本文の本来の意図に忠実になるのは、それが聖書本文の表記の核心に迫り、そこに述べられた信仰の現実を見出すだけではなく、この現実を現在のわれわれの世界における信仰体験に関連づけようと努めるときである。

現代の解釈学は、歴史的実証主義と、聖書研究に自然科学で使われている純粋に客観的な基準を適用しようとする誘惑に対する健全な反応である。一方で、聖書のなかで報告されているすべての出来事は、解釈された出来事である。他方で、これらの出来事の報告に関するすべての解釈は、解釈者自身の主観性を必然的に含んでいる。聖書本文の適切な理解への接近は、本文が生活体験を基にして語っていることに親近感を抱く人にのみ与えられる。あらゆる解釈者が直面する問題はこれである:どのような解釈理論が、聖書の語る深遠な現実とその今日の人々にとっての有意味な表現とを適切に把握するのをもっともよく可能にさせるのか。

われわれは、幾つかの解釈学理論が聖書解釈に不適切であることを率直に認めねばならない。たとえば、ブルトマンの実存主義的解釈は、キリスト教の使信を特定の哲学の桎梏のなかに閉じ込める傾向がある。さらにこの解釈学のなかで主張されている諸前提のせいで、聖書の宗教的使信の大部分が、(過度の「非神話化」によって)その客観的現実を奪われ、単なる人間学的使信に切り詰められる傾向がある。哲学が、すべての解釈の中心的対象――イエス・キリストのペルソナと人類史のなかで成し遂げられた救いをもたらす出来事――を理解するための道具であるよりも、解釈の規範となっているのである。したがって聖書の純正な解釈は、先ず第一にこれらの出来事のなかで、そして特に卓越した仕方でイエス・キリストのペルソナのなかで与えられた意味を受け入れることを必然的に含んでいる。

この意味は本文のなかに述べられている。したがって現代に有効な解釈は、純粋に主観的な読みを避けるために、本文の研究に基づけられていなければならない。そしてその解釈の諸前提は、本文による正当化を絶えず受けなければならない。

聖書解釈学は、それがあらゆる文学的歴史的文書に適応される解釈学の一部分であるとともに、一般的な解釈学の類のない例を成している。救済の出来事と、イエス・キリストのペルソナにおけるその実現とは、人類史全体に意味を与えている。時の流れのなかに現れた新しい解釈だけが、このような豊かな意味を開示し紐解くことができる。理性だけでは、聖書のなかに与えられたこれらの出来事の記述を充分に把握することはできない。教会共同体のなかで生きられた信仰とか(聖)霊の光などの特殊な前提が、聖書解釈を統御している。読者が(聖)霊の生命のなかに成熟するにつれて、聖書の語る現実を理解する読者の能力も成長するのである。