現代の展望

一世紀の世界と二十世紀の世界の文化的距離を意識して、ブルトマンは、聖書が取り扱う現実を自分の同時代の人たちに語らせることに特に腐心した。かれは、すべての理解に必要な「前理解」を強調し、新約聖書の諸文書の実存主義的解釈の理論を練り上げた。ハイデッガーの思想に依拠しながら、ブルトマンは、了解を導く前提なしに聖書本文を解釈することは不可能であると主張した。「前理解」("Vorverständnis")は、解釈者が聖書の語る現実と結ぶ生活連関 ("Lebensverhältnis")に基づいている。しかしながら主観主義を避けるために、人は前理解が本文の現実によって深められ豊かにされる――ひいては修正され訂正される――ことを許さなければならない。

ブルトマンは、聖書本文を今日の人々に理解可能なものとさせる諸問題を定義するのに、何がもっとも適切な思想の枠組みかを問うた。かれは、ハイデッガーの実存主義的分析のなかにその答えを見出した土主張し、ハイデッガーの実存主義的諸原理は普遍的妥当性を有していることし、そして新約聖書の使信のなかに開示された人間の実存を理解するのにもっとも適した諸構造と諸概念を提供していると主張する。

ガーダマーもまた、本文とその解釈者との歴史的距離を強調する。かれは、解釈学的循環の理論を取り上げ、それを発展させる。われわれの理解に影響を及ぼす予量と予断は、われわれを支える伝統に由来している。根伝統は、われわれの生活の文脈とわれわれの理解の地平とを構成する多数の歴史的文化的諸与件の内に成り立っている。解釈者は、本文のなかで問題になっている現実との対話に入るように余儀なくされている。理解は、相異なる本文の地平と読者の地平との融合("Horizontverschmelzung")のなかで達せられる。このことは、「帰属性」("Zugehörigkeit")、すなわち解釈者とその対象との間の根本的親近性が存在する限りで可能となる。解釈学は、問答法的な過程である:本文の理解は常に、高められた自己理解を含んでいる。

リクールの解釈学的思想に関して特記すべき主要な事柄は、遠隔化(distantiation)の機能に光を当てたことである。これは、本文のあらゆる正しい会得に先行する必然的な序章である。最初の遠隔化は、本文とその著者との間で起こる。というのは、本文は一度作成されると、その著者に対してある程度の自律性を帯びるからである;本文は、それ自身の意味の経歴を開始する。もう一つ遠隔化は、本文とその読者たちとの間に存在する;読者たちは、本文の世界をその他者性において尊重しなければならない。こうして逐語的歴史的分析の諸方法が解釈にとって不可欠のものとなる。しかし本文の意味は、それを会得する読者の生活のなかで実現化されるとき、初めて充全に把握されることができる。読者たちは、自分たちの状況から出発し、本文によって指示された意味の根本的な線に即しながら、新しい意味を明らかにするように求められている。聖書の知識は、言語の次元に留まるべきではない;それは、言語が語る現実に到達するように努めなければならない。聖書の宗教的言語は、象徴的言語である。それは、「考えさせる」("donne à penser")言語であり、無尽蔵の豊かさを備えた言語、超越的な現実を指し示す言語であると同時に、人間存在に、人格的存在の最深奥の諸次元を気づかせる言語なのである。