女性解放論的接近法

女性解放論的聖書解釈は、19世紀末の合衆国にその起源を持っている。女性たちの権利獲得闘争という社会的文化的文脈のなかで、聖書改定委員会の編集部は、二巻本の婦人用聖書 (New York,1885,1898)を刊行した。この運動は、1970年代に新たな活力を得て、以来、特に北アメリカの女性解放運動の文脈のなかで著しい発展を遂げた。正確を期すなら、女性解放論的聖書解釈のなかに、さまざまな形態を区別しなければならない。と言うのは、接近法が非常に異なっているからである。しかしすべては、女性という共通の主題で一致しており、共通の目標を持っている:女性たちの解放と、男性たちによって享受されているのと同等な権利の女性の側での獲得である。

われわれはここで、婦人解放論的聖書解釈の三つの主要な形態に言及することができる:急進的な形態、新正統派的な形態そして批判的な形態。

急進的な形態は、聖書の一切の権威を否定して、聖書は、単に男性による大昔からの女性支配(男性中心主義)を固めるために、男性たちによって生み出されたものであると主張する。

新正統派的な形態は、少なくとも聖書が抑圧された人々、従ってまた女性たちの見方をする限りで、聖書を預言的なものそして潜在的に有益なものとして受け入れる;このような方針は、聖書のなかに女性たちの解放とかのじょたちの権利の獲得とを裏付けるものなら何にでも光を当てるために、「正典のなかの正典」として採用されている。

批判的な形態は、微妙な方法論を駆使しながら、イエスの生涯とパウロ的諸教会の内部での女性の弟子たちの地位と役割を再発見しようとする。その当時はある種の平等性が行き渡っていたと、それは主張する。しかしこの平等性の大部分は、新約聖書の諸文書のなかで隠されてしまった。このことは、父権制と男性中心主義への傾向がますます支配的になるにつれて、一層そうである。

女性解放論的解釈は、新しい方法論を発展させなかった。それは、現行の解釈法、特に歴史的批判的方法を使用している。しかしそれは、探求の二つの基準を付け加えている。

第一の基準は、解放の神学の一般的指針に沿って、女性の解放運動から借用された婦人解放論的基準である。この基準は、懐疑の解釈学を伴っている:歴史は通常、勝利者によって書かれたものであるから、全き真理のを確立するには、本文をそのあるがままに単純に信頼するのではなく、何か全く異なったものを開示するしるしを探すべきである。

第二の基準は社会学的なものである;それは、聖書時代の社会、その社会的階層化、および社会が女性たちに与えている地位の研究に基づいている。

新約聖書の諸文書に関しては、研究の目標は要するに、新約聖書のなかに表現されているような女性の観念ではなくて、一世紀における女性の二つの異なる状況の歴史的再構築である:ユダヤ社会とギリシア・ローマ社会とにおいて規範となっていたもの、そしてイエスの公生活と、イエスの弟子たちが「対等な人たちからなる共同体」を形成していたところのパウロ的教会とのなかに具体化していた革新を描写したもの。ガラテヤ書3:28は、この見解の弁護のためにしばしば引用される本文である。その目的は、今日のために、教会の最初期の段階における女性たちの役割の忘れられた歴史を再発見することである。

女性解放論的解釈は、多くの利益をもたらした。女性たちは、解釈的研究においてより積極的な役割を演じるようになった。かのじょたちは、しばしば男性以上に、聖書と教会の起こりそして教会における女性たちの現存と意味そして役割を探るのに成功した。今日の世界観は、女性の尊厳と、社会と教会とにおけるかのじょらの役割への一層大きな注目のゆえに、新たな問題が聖書本文に提起されるのを確実にし、今度はこの聖書本文が新しい発見の機会をもたらしている。女性の感受性は、偏向に富み男性による女性支配を正当化しようとしたこれまで一般に受け入れられてきた幾つかの解釈の仮面を剥ぎ、訂正するのに貢献している。

旧約聖書に関しては、幾つかの研究が、神のイメージのよいよい理解に到達しようと励んできた。聖書の神は、家父長的な精神性の投影ではない。聖書の神は父である。しかし聖書の神は、優しさと母性愛とを兼ね備えた神でもある。

女性解放論的解釈は、それが予料的な判断から出発する限りで、聖書本文を偏向に満ちて論議の余地のある仕方で解釈する危険を冒す。それはみずからの立場を確立しようとして、善き物を欠いているため、しばしば沈黙からの議論に訴えなければならない。よく知られているように、この種の議論は、一般に、大きな留保をもって見られなければならない:それは、堅固な基礎に基づいた結論を確立するのに決して十分ではあり得ない。他方で、本文のなかにある僅かな指標に基づいて、この本文が隠蔽を図ったと考えられる歴史的状況を再構築する試み――これは厳密な意味での解釈作業に少しも対応しない。それは、本性的にまったく異なる仮説的解釈のために、霊感を受けた本文の内容を却下することを伴っている。

女性解放論的解釈はしばしば、教会内の権力の問題を提起する。それは明らかに、討論と、場合によっては対決とを要する問題である。この領域においては、女性解放論的解釈は、みずからの告発する他ならぬ同じ罠に陥らず、イエスが男女のすべての弟子たちに与えられた教えである奉仕としての権力に関する福音的教えを見失わない限りでのみ、教会に役立つことができる。