3 心理学的接近法と精神分析学的接近法

 

心理学と神学は、相互の対話を続けている。現代の心理学的研究が下部意識の力動的な諸構造に研究を伸ばしたことは、聖書を含む古代文書への新たな解釈の試みを生み出した。作品全体が、聖書本文の精神分析学的解釈に当てられ、激しい議論を引き起こした:どの程度、そしてどのような条件で、心理学的精神分析学的研究は、聖書のより深い理解に貢献し得るのか。

心理学的精神分析学的研究は、それらの研究によって聖書本文を生活体験と行動規範の見地からよりよく理解できるという点で、聖書解釈をある程度豊かにする。よく知られているように、宗教は常に、無意識との闘争ないしは論争のなかにある。無意識は、人間の衝動に固有の方向づけに際して意味深い役割を演じている。歴史的批評が本文の方法的研究に際して通過する諸段階は、それが提示する実在のさまざまな水準についての研究によって補われる必要がある。心理学と精神分析学は、この点において道を示そうとする。それらの学問は、聖書の多次元的な理解をもたらし、啓示の人間的言語の解読を助けるのである。

心理学、そして幾分異なった仕方で精神分析は、特に、象徴の新しい理解をもたらしてくれた。象徴言語は、純粋に概念的な推理では近づけずないにもかかわらず信仰表現にとって純正な価値を有する宗教体験の領域のために表現を用意する。それゆえ、解釈者たちと心理学者たちあるいは精神分析家たちによって共同で行われる学際的研究は、特にそれが客観的な根拠を持ち、司牧的経験によって確証された場合には、独特な貢献をする。

解釈者たちと心理学者たちとの側の共同の努力の必要性を示す数多くの例を示すことができよう:カルト的祭儀や生け贄、禁制などの意味を確定すること、聖書における心象の使用、奇跡物語の隠喩的意味、黙示の源泉、視覚体験と聴覚体験を説明すること。単に聖書の象徴言語を記述することが問題なのではなく、神の「不可思議な」現実が人間との接触に入る場である神秘の啓示と挑戦の発生とに対して、聖書の象徴的言語がどのように機能するかを把握することが問題なのである。

解釈と心理学あるいは精神分析との対話は、聖書のよりよい理解のために始められたものであるが、各々の学科の境界を尊重した上で、批判的な仕方で明瞭に行われなければならない。無神論的本性を持つ心理学や精神分析には、状況がどうであれ、信仰の与件に対して適切な考察を与える資格はない。心理学や精神分析は、人間の責任の範囲をより厳密に規定するのに役立つとしても、罪と救済の現実の抹消を助長するものであってはならない。さらに、自発的宗教心と聖書の啓示とを混同したり、聖書に独一的な出来事としての価値を付与する聖書の使信の歴史的性格に疑問を投げかけないように配慮すべきである。

さらにわれわれは、「精神分析学的解釈」について、あたかもそれが単一の形式で存在するかのように語ることができないことに注意しておこう。実際、聖書の人間的神学的解釈に有益な光を注ぐことができる一連の接近法のすべてが、心理学のさまざまな領域とさまざまな思想的学派とから由来しているのである。心理学および精神分析学のさまざまの学派によって採用された接近法のいずれか一つを絶対化することは、この領域における協働的努力を実り豊かなもにするどころか、それを有害なものにすることに資するだけだろう。

人間科学は、社会学と文化人類学そして心理学に限られるものではない。他の諸学科も、聖書の解釈にとても役立つことができるのである。これらの土の領域においても、特定の分野における能力をよく勘案し、同一人物が人間科学の一つと解釈との両方において適任者となるのは非常にまれであるということを認める必要がある。