解釈のユダヤ教の伝統に訴えた接近法

 

旧約聖書は、キリスト教の時代を四・五世紀溯るユダヤ世界でその最終的な形態に到達した。この時代のユダヤ教はまた、新約聖書と幼児期の教会とが成立する母体を提供した。古代ユダヤ教の歴史の多数の研究と、特にクムランの諸発見によって刺激させられた多様な研究は、この時代を通じたイスラエル本国とディアスポラとにおけるユダヤ世界の複雑さに光を当てた。

聖書の解釈が始まったのはこの世界においてである。聖書のユダヤ的解釈の最古の証言の一つは、セプテュアギンタ(七十人訳聖書)として知られるギリシア語訳である。アラム語のタルグムは、同じ活動のもっと立ち入った証言を示している。この活動は現在まで続けられ、その過程のなかで、旧約聖書の本文の保存と聖書本文の意味の説明とのための膨大な量の学術的手順を生み出した。あらゆる段階で、オリゲネスとヒエロニムス以来の鋭敏なキリスト教解釈者たちが、聖書のよりよき理解を獲得するために、ユダヤ教の聖書的知識から利益を引き出そうと努めた。現代の多くの解釈者たちは、この先例に従っている。

古代ユダヤ教の諸伝承は、特にセプテュアギンタのよりよき理解に資している。セプテュアギンタはユダヤ教の聖書で、少なくともキリスト教の最初の四百年間、キリスト教の聖書の第一部となり、東方では現在でもそのままである。ユダヤ教正典外文学は、そのありあまるほどの豊かさと多様性において、新約聖書の解釈の重要な源泉をなしている。ユダヤ教のさまざまな流派によって行われた解釈手続きの多様性は、旧約聖書それ自体のなかに実際に見出すことができる。たとえば、サムエル記と列王記とに関わる歴代誌のなかに。また、新約聖書のなかにも見出すことができる。たとえばパウロは、何らかの特定の仕方で、聖書からの議論に取り掛かっている。非常に多様な形態――比喩、寓意、選集、詞華(florilegia)、再読(relectures)、ペシェルの技法(pesher technique)、無関係の本文を別のやり方で結び付ける方法、一連の詩編、讃歌、幻視、啓示、夢そして知恵文学――のすべてが、旧新約聖書ならびにイエスの時代に前後するユダヤ教のサークルにおいて共通している。タルグムとミドラシュ文学は、最初の数世紀にユダヤ教の諸派によって行われた聖書解釈の教話的伝統と様式とを例証している。

さらに、旧約聖書の多くのキリスト教解釈者は、希であるか唯一の難解な表現や文句を理解する手段として、中世およびそれ以後の時代のユダヤ教の注釈者や文法学者および辞書編集者に注目する。そのようなユダヤ教の作品への参照は、かつてそうであった以上に、現行の解釈学的な議論のなかでより頻繁に現れている。

ユダヤ教の聖書に関する学識は、その古代における起こりから現代に至るまで、そのすべての豊かさにおいて、新旧約聖書の解釈にとって最高度の価値を有する遺産である。ただしそれは慎重に使われる必要がある。古代ユダヤ教は、多くの多様な形態を取った。パリサイ派の形態は、最終的にラビ=ユダヤ教(rabbinic Judaism)の形でもっとも優勢なものとなったが、決してそれが唯一のものであったのではない。古代ユダヤ教の文書の範囲は、数世紀にわたっている;それらの文書の比較に進む前に、それらを年代順に配列することが大切である。何よりも、ユダヤ教共同体とキリスト教共同体の全般的な定型的様式が非常に異なっている:ユダヤ教の側では、書き記された啓示と口承伝統とに基づく生活様式と民とを規定する宗教が、非常に多様な仕方で問題になっている;ところがキリスト教の側では、死してよみがえりそしていまも生きているメシアであり神の子・主イエスへの信仰が問題となっている;キリスト教共同体は、イエスのペルソナへの信仰をめぐって集められているのである。これらの相異なる二つの出発点は、聖書解釈に関して、二つの別個の文脈を作り出している。これらの文脈は、その接点と類似点にもかかわらず、たしかに根本的に異なっている。