1 修辞学的分析

 

修辞学的分析それ自体は、実際には、新しい方法ではない。その新しさは、それを聖書解釈のために組織的に使用したこと、および「新たな修辞法」の開始と発展とにある。

修辞学は、説得を目指した論述を作成する技法である。すべての聖書本文がその性格上ある程度説得的であるという事実は、修辞学の何らかの知識が、すべての解釈者の標準的な学術的装備の一部であるべきことを意味している。修辞学的分析は、批判的な仕方で行われなければならない。なぜなら科学的解釈は、批判的精神の諸要求に必然的に服さざるを得ない一つの取り組みだからである。

聖書の領域における最近の相当数の研究は、聖書に修辞手学的な特徴があることに大きな注意を向けてきた。三つの接近法を識別することができる。第一は、古典的なギリシア・ローマの修辞学に基づいている;第二は、作文の記号論的手続きに向かっている;第三は、その着想をもっと最近の研究――すなわち「新修辞学」と呼ばれるものから得ている。

論述のあらゆる状況は、三つの要素の存在を伴う:話者(あるいは著者)、論述(あるいは本文)、聴き手(あるいは受信人)。したがって古典的修辞学は、説得の道具としての論述の性質に貢献している三つの要因を区別した:話者の権威、議論の力、聴き手のなかに引き起こされる感情。状況の多様性と聴き手の多様性は、話術の採用を大いに左右する。アリストテレス以来の古典的修辞学は、公的な演説に三つの様式を区別している:(法廷で採用される)裁判的様式;(政治集会のための)審議的様式、(祝賀の機会のための)演示的様式。

ヘレニズム文化における修辞学の計り知れないほど大きな影響を認めて、ますます多くの解釈者たちが、聖書本文の幾つかの側面、特に新約聖書の諸側面を分析するための一助として、古典的修辞学のかずかずの論文を利用している。

他の解釈者たちは、聖書の文学的伝承の諸特徴に集中している。セム文化に根を張るこの文学的伝承は、対称的な作品構成を特に好んでいる。この対称的な作品構成によって、人は、本文のなかのさまざまな要素の相互関係を見分けることができる。作品構成のセム語的様式に特徴的な多様な形式の並立やその他の技法についての研究は、本文の文学的構造のよりよい識別を念頭に入れている。このことは、それらの本文の使信のより十分な理解に貢献することができる。

「新修辞学」は、もっと一般的な観点を採用している。文体論的特徴や雄弁的策略そしてさまざまな種類の論述についての単なる便覧以上のものであることを目指している。それは、確信の伝達において、言語の特異な使用を効果的たらしめているものは何か調べる。それは、純粋に形式的な分析に限定されることを望まないという意味で、「現実的」であろうとする。それは、討論や論争の実際の状況を当然考慮に入れる。それは、聴衆に働きかける手段としての文体と構成を研究する。この目的のために、それは、たとえば言語学や記号論、人間学、社会学などの知識の他の領域で最近なされた貢献を利用している。

「新修辞学」は、聖書に適応されるとき、まさに説得力のある宗教的論述としての啓示の言語に核心に浸透することを目指し、そのような論述の衝撃を、こうして始められた情報伝達の社会的文脈のなかで測定することを目指している。

それが本文の批判的研究にもたらした豊かさのゆえに、そのような修辞学的分析は、何よりも最近の作業のなかで達成された深さに鑑みて高い評価を受けるに値する。それは、長い間省みられなかったことを埋め合わせており、さらに見失われたきたあるいは曖昧にされた本来的な視野を再発見したり明瞭化することに貢献することができる。

「新修辞学」は、言語が持つ説得し確信させる能力に注意を向けた点で、確かに正しい。聖書は、単に諸真理の声明ではない。それは、特定の文脈を背景にした情報伝達の機能をそれ自身の内部に有する使信であり、ある種の論争能力と修辞学的策略を備えた使信なのである。

しかしながら修辞学的分析には、かずかずの限界がある。それが単に記述の次元にのみ留まると、その成果はしばしば、文体に関する関心のみを反映する。基本的にいえば、本性上共時的であるこの修辞学的分析は、それ自身で充足する独立した方法であると主張することはできない。それを聖書の本文に適応することは、幾つかの問題を提起きした。これらの本文の著者たちは、社会のより教養ある地位に属していたのか。かれらはどの程度、作品の構成に際して修辞学の規則に従ったのか。どの種類の修辞学が与えられた本文の分析に適切なのか;ギリシア・ローマの修辞学か、それともセム的修辞学か。時には、何らかの聖書本文に、実際には余りにも凝り過ぎた修辞学的構造を与える危険もあるのではないか。これらの諸問題は――その他にも問題はあるが――この種の分析の使用に決して疑問を投げかけるべきではない;それらの諸問題は、この種の分析が、何の識別もなし依拠されるような代物ではないということを暗示しているに過ぎない。