評価

 

われわれは、歴史的批判的方法に、特にその発展の現在の段階において、どのような評価を与えるべきであろうか。

それは、客観的な様式で用いられるとき、おのずから無前提(no a priori)を伴う方法である。その利用がある先験的な(a priori)諸原理に伴われると、その利用は、この方法そのものに属さないものとなり、解釈を制御し、また偏向に満ちたものであり得るある種の解釈学的選択に属するものとなる。

その起源において資料批評と諸宗教の歴史とに方向づけられていたこの方法は、聖書への新鮮な通路を提供するに至った。それは、聖書が諸作品の集成であることを証明した。それらの諸著作は、ほとんどの場合、特に旧約聖書の場合には、単一の著者の創造物ではなく、イスラエルの歴史や初代教会の歴史と分かちがたく結びついた長い歴史を背景にしている。かつて、聖書のユダヤ教的あるいはキリスト教的解釈は、神のみ言葉が民のなかに根を張った具体的で多様な歴史的諸条件についての明瞭な認識を持たなかった;この解釈は、それらすべてについての一般的で遠隔的な認識を持っただけである。当初は意識的に信仰からみずからを引き離し、そして時として信仰と対立するものとなった科学的な接近法と伝統的解釈との突き合わせは、たしかに悲惨なものであった;しかしながら後に、その突き合わせは、有益なものとなった:その方法は、一度外的な先入観から解き放たれると、聖書の真理の一層正確な理解をもたらしたのである(Dei Verbum,12)。『神の霊の息吹』によれば、聖書の文字通りの意味の探求は解釈の本質的な任務であり、その任務を遂行するには、本文の文学類型を決定する必要がある(cf Ench.Bibl.,560)。それは、歴史的批判的方法がその達成を助けたものである。

たしかに、歴史的批判的方法の古典的な使用は、その限界を明らかに示した。それは、聖書本文を生み出した歴史的状況のなかで聖書本文の意味を探求することにそれ自身を限定し、聖書の啓示と教会の歴史との後の諸段階で明らかにされた他の意味の可能性に関心を持たなかった。それにもかかわらずこの方法は、大きな価値を持つ解釈の諸作業と聖書神学の諸作業とを生み出すのに貢献してきたのである。

さて、長い間、学者たちは、この方法を哲学的な体系的学説に結び付けることをやめていた。もっと最近になると、本文の形式を強調し、その内容にあまり注意を向けない方向に、この方法を動かす傾向が、解釈者たちのなかに存在した。しかしこの傾向は、一層多様化された意味論(単語、語句、本文の意味論)の適応、および行動と生活の観点(実用主義的な側面)の研究によって修正された。

本文の共時的分析がこの方法に導入されたことに関して、われわれは、ここで適法な操作を取り扱っていることを認めねばならない。なぜなら初期の編集段階における本文よりも、最終段階における本文こそ、神のみ言葉の表現だからである。通時的研究は、依然として、聖書を活気づける歴史的躍動感を知らしめ、その豊かな複雑さに光を当てるのに不可欠なものであり続けている:たとえば、契約法典(Exodus 21-23)は、申命記 (chapters. 12-26)とレビ記 (神聖法典, chapters 17-26)とに保存されている律法法典のなかに反映する状況とは異なるイスラエル社会の政治的社会的宗教的状況を反映している。われわれは極端に走って、以前の歴史的批判的解釈が非難にさらされたところの歴史化的傾向を、ひたすら共時的であろうとする解釈のために歴史をなおざりにする傾向と取り替えないように注意しなければならない。

まとめると、歴史的批判的方法の目標は、特に通時的な仕方で、聖書の著者たちと編集者たちとによって表現された意味を決定することである。他の方法や接近方法と並んで、歴史的批判的方法は、われわれが今日手にしている聖書本文の意味への小道を現代の読者に切り開くのである。