明治〜昭和初めのレトロの建物がいっぱい
 
今、日本でも明治から昭和初期に建てられたレトロビルに関心が集まり大阪でもそのツアーが人気だとか。日本にはこのような建物は殆ど見られなくなったが、今回旅した、ハルピン、長春、瀋陽、大連には当時最先端の技術、設計、建材などを駆使したと思われるすばらしい建物が数多く残されている。今回見学したものを挙げると、ハルピンの松浦洋行ビル、旧桃山小学校、旧赤十字病院 長春の旧満州国時代の数々の建物、旧ヤマトホテル、瀋陽では瀋陽駅(旧満鉄奉天駅)、旧奉天郵便局、東洋拓殖瀋陽支店、大連では中心地にある中山広場のロータリーの周辺はすべて日本統治時代の建物、旧満鉄の本社ビル他その関係の数々のビル、大連港のビル、埠頭、日本人が住んでいた数々の住宅等などこの時代のすばらしい建物を見ることができた。これらの建物群を見るだけでも大きな値打ちのある旅であった。中国は土地も広いけど、このような建物を大切に保存する中国人の心も広い。
この家のように煙突のある家はほとんど元日本人の家、ここ1〜2年で殆ど建て替えられそう。
大連    元日本人の住宅
 敗戦まで日本人約20万人が大連に住んでいた
 上にも書いたが大連は日本人にとってとてもなじみ深い。それに、現在我が家の近所に住む大連人の牟さん夫婦と仲良しで、牟さんから大連の話をいろいろ聞いていた。牟さんの話では大連駅をはじめとして、日本統治時代の建物がたくさんあり、今も大切に使用されている、という話を聞いていたので、是非その建物を見てみたいと常々思っていた。実際に行ってみると、想像していたよりはるかに多く残っていて、今も使用されている。上記したもののほか日本人が敗戦で日本に引き揚げるまで実際に住んでいた家も現在多く残っていて中国人が生活している。大連のガイドさんの話によると、ガイドさんのおばあちゃんの家も、元日本人の家だったそうだ。当時国営企業に勤めている人以外はみんな元日本人の家に住んでいたという。ガイドさんも懐かしかったのか、わざわざ写真左下の家に住んでいる人に交渉してくれて中を見せてもらうことができた。その家の女性は結婚以来60年住んでいて、とても住みやすいと話していた。しかし60〜70年以上経ているため老朽化が進み、暖房も単独でしなければならない(現在の住居は全て集中暖房となっている)ためどんどん建て替えられている。
旅順 の激戦地 東鶏冠山北堡塁
その他感じたこと
 
 車優先社会
 
  歩行者が手を挙げても空車のタクシー以外絶対に停まらない。 道路を横切る時は命がけ。車の警笛も遠慮なく鳴らす。

 車椅子の旅行は? 
 今回同じツアーの仲間が足を怪我して歩けなくなった。現地の人々はみんな親切であるが、車椅子での旅行は大変だ。各地で借りた車椅子の性能はあまりよくなく使いにくい。そしてすべて使用料がいる。駅等も車椅子用にはまだ整備されていないので、ポーターをたのむことになり、代金を払う必要がある。道路は歩道はなく、車も停まってくれないので横断することは不可能、ゆえに近くに行くのもタクシーを利用しなければならない。旅行中もしこのような情況になった時、これらの費用は旅行者保険でカバーできるのだろうか。
 
 対日感情 
 大連は終戦まで人口の3分の1の日本人が住んでいて、現地の人々と平和に共存していた。したがって、大連人の対日感情は悪くないという。しかし、他の地域、特に東北部では、日本が満州国を作って支配した時代の残虐な行為が語り継がれ、それを聞いた若い世代の対日感情は非常に悪いという。日本製品をボイコットしたり、日本から送られた公園の桜の花さえ見ないようにしよう、という話さえ出てくるという。国を挙げて「あの恥辱をわすれるな」と、あらゆる場所、あらゆる機会に呼びかけている。上記しているように、長春の元満州国の皇宮の中庭には前国家主席江沢民の「九.一八を忘れるな」とかかれた大きな大理石の碑がたっている。九.一八というのは、日本で言う柳条湖事件のことであるが、我々は九. 一八事変といわれても分からない。現地ガイドにこの事変に対する中国人の思いを話してください、とたのんだら、これは中国人の問題、中国人へのよびかけであるから、日本人に説明する必要ない、といわれた。30歳台以上になると、これらの歴史的事実について冷静に考えていると現地ガイドは話していた。ただ、日露戦争にせよ、満州国にせよ、現地住民に大変な被害を与えていることは事実である。日本人はそのことを、ありのまま知り、認めてほしい、中国人の願いはただそれだけなんだ、とガイドさんは力を込めて話していた。

 各地で建設ラッシュ
 ハルピンをはじめ各地で高層マンションの建設が進められている。他人事ながら、こんなにどんどん作って大丈夫かな。
社会主義の国であるから、当然土地も住居も私有ではない。住居を買うということは、使用権を買うということで、50年間の使用権を買う。その期間が過ぎると原則として返さねばならない。マンションの相場は1平方メートルあたり瀋陽で15万円、すべて集中暖房。この建設ラッシュ、日本のバブル前の様子ににているような気がする。

 歴史的建物、遺跡を大切に利用、保存
 ロシアや日本の統治時代の建物や遺跡は、各市の人民政府によって大切に保存され、建物は現在も使用してされている。実質使用しながら、統治された恥辱を忘れるなという啓発と観光に力をいれている。恥辱だと考えるに留まらず、それらをすべて含めて乗り越え、より強力な中国を建設していこうとしている中国人のたくましさとプライドを見せつけられているように思う。
                           
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写真左上   昭陵(清の太祖ホンタイジの陵墓)の門 
   中央   ホンタイジと皇后が埋葬されている宝城
   右上   宝城に向かう広い道路(神道)の両脇にいろいろな石獣がある。その         一つ華表(天に向って吼える石獣を上部に有する石柱)
写真左 世界遺産瀋陽故宮 鳳凰楼 皇帝の軍政の大事を協議したり宴を行った 
   下 
大政殿  1636年ホンタイジにより大清国建国の式典が行われた。1644年には順治帝の即位式もここで行われた
ロシア軍の陣地
金網の向こうはロシア軍の大要塞
敵将、コントラテンコ少将戦死の地  
 敬意を表して日本軍が建てた碑
画面左上の葉の無い高い木が有名ななつめの木
水師営の会見所の右側の部屋には、日露戦争で旅順人が大変な被害を受けたことを知らしめる展示が多くある。
水師営旅順陥落後乃木将軍とロシア軍総司令官ステッセルの会見所
第3軍 乃木大将の長男保典 戦死場所と慰霊碑 これは中国政府が立てたものとか。近くには説明板があったが、今は説明は消されている。
203高地の頂上に展示してある日本軍の28センチ砲。 最大の威力を発揮したという。
203高地
この説明板には日本軍1万人以上の死傷者と書いてあるが、日本の歴史書では3回の総攻撃前後あわせて5万9千人の死傷者が出たと書いてある。
旅順港を見下ろす風光明媚な頂にある爾霊山(203)と書かれた記念碑
右の写真はこの碑の近くにある説明板
東鶏冠山北堡塁 記念碑の近くに建てられている中国語、英語、
日本語による案内板
東鶏冠山北堡塁記念碑

各戦争の遺跡は大切に保存され、中国人の観光客も多数訪れている。各遺跡は2度と他国に侵略されないよう、これらの恥辱を忘れるな、と書いてある。
日露戦争の激戦地
東鶏冠山北堡塁の日本軍攻撃の弾丸跡
日本軍に爆撃された跡が残るロシア軍の要塞。日本軍の死傷者900人を超え、ロシア側守備兵は全滅した。
大連世界貿易センタービル57階展望台から見る夜景 中山広場周辺
大連駅 
 大連港  日本統治時代 大連埠頭事務所 (現大連港務局) この建物の屋上から、大連港の全貌が見渡せる。
旧満鉄本社 (現大連鉄道有限責任公司)右は、上の写真にある大理石の裏にこの建物の歴史が詳細にかかれている。
旧ヤマトホテルの玄関脇にある説明用ステッカー
日本統治時代に建てられた旧ヤマトホテル(現大連賓館)

大連の女性警察官。168cm以上容姿端麗が条件とか。馬にも騎乗し、それぞれの季節に応じて制服もかっこいいという
牟さんの両親とホテルで

長春 伊通河 の河岸
両岸とも美しい公園になっている
長春の町
1932年日本の傀儡国家満州国が建設され、その国都がこの長春(当時新京) 市街には当時の建物が未だ各機関として使用されており、大切に保存されている。当時は新京神社や日露戦争の英雄児玉源太郎の騎馬の銅像が児玉公園にあったそうであるが、今は取り壊されている。 町の中には伊通河が流れその両岸はよく整備された美しい公園となっている(写真右)
旧満州国司法部
現吉林大学新民校区
旧関東軍司令部 現在中国共産党吉林省委員会
偽満州国の最高機関国務院
現在は大学医学部が使用している。
偽満州国務院 偽満州国八大部
宮殿内には溥儀、皇后、后妃たちの数々の写真が展示されている。左は幼い溥儀を中心とした一族、右は満州族の正装をした媛容皇后
英語も話せる国際感覚を身に付けた才媛、媛容皇后も失意のあまりアヘン中毒となる。自室でアヘンを吸う皇后、戦後収容所の中でくるったまま誰にも見取られず寂しい生涯をおえる。
溥儀皇帝と関東軍帝室御用係吉岡安直。この様子から皇帝の地位がよく分かる。
上、右 実際の様子を分かりやすく人形で展示している。
謹民楼
皇帝溥儀の王座
中庭の石碑
「勿忘九.一八江沢民」
正門
中国のラストエンペラー溥儀が満州国皇帝に即位して住んだ宮殿 謹民楼 絹熙楼 が今は博物館として公開され中国各地から観光客でいっぱい。日本の傀儡であった皇帝と皇后の苦しみをまざまざ見せ付けられる各展示であった。
偽満皇宮博物館
今年も9月18日に各地で日本の侵略や満州事変の風化を防ぐため啓発活動が繰り広げられた9・18読売新聞朝刊
宿泊した昆侖ホテルからの景色
目の前はハルピン駅、後方にはビル群が並ぶ。
 それにしても朝早くから車の警笛がうるさいことこの上なし。
ルピンはなぜ「東方のモスクワ」「東方のパリ」と呼ばれるか
正直言って実際ここに立つまではこの呼び方がピンとこなかった。しかし実際見学してみると、想像以上に西欧風のすばらしい建物が並んでいる。この様な地域に何故?
ガイドが説明したその理由は?
 @ 日清戦争で清は日本に負け、その日本がこの地域に進出するのを防ぐため、当時の帝政ロシアと手を結び(1896年ロマノフ条約)、そのころ小さな漁村にすぎなかったこの地域を清とロシアが東清鉄道を敷設し、町の建設が始まった。
 A ロシア革命によりロシアの貴族が本国を離れ、この地域に多く移り住んだ
 B 1920年代になると、欧米企業の支店は1000を超え、欧風建築が数多く建てられた。C 当時はシベリア鉄道はまだ完成されてなく、この東清鉄道でモスクワ、パリなど西欧と東アジアが結ばれており、最も重要な地点であった。
 D 有名なハルピンビールは1900年に生産が始まった。
 E 中国政府 ハルピン市によって、重要建築物として大切に保存され、今も使用されている

  
1931年満州事変の後、敗戦の1945年まで実質日本が支配下に置く。当時の桃山小学校、赤十字病院など、そのまま名前をかえて使われている。(桃山小学校は、なかにし礼の小説「赤い月」で牡丹江から避難してきた一家がここで避難生活をしていたところ)
この町の郊外には、日本軍の731部隊があり、中国人に対して非人道的な人体実験が行われた。 
中央大街の突き当たり、スターリン広場より松花江を望む。後方にこの町の繁栄を築いた東清鉄道の鉄橋が見える
 松花江(アムール川の支流)を船で遊覧 ここから見るビル群も建築中のものがいっぱい
  孔子廟 1926年創建29年完成
何故新しい町に孔子廟?
 ガイドさんの説明では、このあたりを支配していた軍閥、張作霖がこの町が外国の文化思想にに犯されて、中国特有の文化思想を忘れぬようにと創建したとのこと。

旧松浦洋行 現新華書店
  この建物の入り口にハルピン市の保存建築物に指定されているプレート(英語、中国語)がある。
 ハルピン 中央大街  東方のパリ、東方のモスクワといわれるように、西欧やロシア、日本の建築物が現在も保存建築物として大切に残されている。 この建物はバロック建築の旧松浦洋行(現新華書店)
 ハルピン聖ソフィア教会
1907年帝政ロシア兵士の従軍用教会として創建された。ハルピンを代表する欧風建築物教会内に展示されているハルピンの町が建設され始めた当時の写真。 左は東清鉄道の建設、右は町を建設するための労働者
 ハルピンは1900年まではなんにもない湿地帯で松花江のほとりの小さな漁村にすぎなかった。
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   9月13日(水)  大連
 大連は日本を始め多くの企業が投資を行い発展を続ける「北方の香港」と呼ばれており、常駐3,000人と言われるほど日本人駐在員が多く我々にとっても大変親しみのある街である。
気候も他の地方に比べ温暖で過ごし易く中国要人の御用達の避暑地もある。街は美しく治安もよく「世界の最もすごし易い街」にランクされたこともあるとのことであるが納得がいく。
大連港は100年の歴史を誇る中国有数の良港で、新鮮な魚介類が取れることでも有名であり、当然海鮮料理も大変おいしかった。
中山広場は街の中心に位置しこの広場を中心として放射線状に延びており、日本統治時代に建てられた特徴ある欧風建築物が今もなお各機関に利用されている。主なものでは旧ヤマトホテル(大連賓舘)、旧横浜正金銀行(中国銀行遼寧省分行)、旧大連警察署(遼寧省対外貿易経済合作庁)など多数の近代建築物の代表の建物がある。
 大連港を見学した後旅順へと行った。


























旅順
は軍事施設が点在しているため外国人が散策することが禁止されているとのこと。我々にとっては日露戦争での印象が最も強く是非見学したい街である。
最初は東鶏冠山北保塁へ行った、ここは203高地と並ぶ激戦地で日露戦争当時のロシア側防御要塞跡となっており爆破された要塞跡は激戦のあとを物語っていた。
次に203高地(高度が203mありここからは旅順港が眼下に見渡せ、この地が激しい攻防の地になったことが理解できるところだ)に行った、日露戦争の最大の激戦地で乃木希典将軍率いる軍が多大な被害をこうむったところだ。日露戦争後乃木将軍は山頂に爾霊山と記した記念碑を立て戦死者を弔った。
水師営会見所は203高地の陥落を受け、1905年1月5日に乃木希典将軍とロシア旅順総司令官ステッセル中将が会見を行ったところだ。
大連に戻り大連自然博物館を見学し、海に面した大連市民の憩いの場である星海広場と老虎灘海洋公園で散歩をした。
また日本統治時代の高級住宅街がある日本人街を見、たまたまその玄関のおられた婦人に依頼して中に庭を拝見させてもらった。
最後の夕食は大変おいしい海鮮料理だった。食後世界貿易センタービルの展望台より中山広場を望む美しい夜景を見た。
 翌14日(木)は6時50分にホテルを出発し9時の飛行機にて12時20分無事関空着だ。
毎日朝・昼・晩 ご馳走攻め。ロシア料理あり、北朝鮮料理あり、餃子料理あり、広東料理あり、海海鮮料理あり、郷土料理あり。毎日15種類の大皿がどーんと並ぶ。おいしくなければ食べなくてすむけど、すべてがおいしくて、いつも満腹状態。まことにありがたいごとでした。
   9月12日(火)   瀋陽
 瀋陽は遼寧省の省都で東北三省の中でも最大級の都市のひとつである。満州国成立以降は奉天と改称された。
世界遺産の瀋陽故宮博物院を見学、ここは清朝最初の王宮で、清朝建国の礎を築いた太祖ヌルハチと、建国をした太宗ホンタイジの2人は実際にここに住んでいた、大政殿は八角殿とも言われ皇帝が式典を行う場所、崇政殿はホンタイジが日常の軍務や政務を処理したところ、鳳凰楼は皇帝の軍政の大事を協議したり宴を行った場所で3階建ての楼閣は当時瀋陽で最も高い建築物であった。






また世界遺産でもある昭陵は市の北に位置することから北陵とも呼ばれ太宗ホンタイジと孝端文皇后の陵墓で神道の両脇には天に向って吼える石獣を上部に有する石柱華表や、最も著名な石馬などの石獣が対になって並んでいる。











その後13時発の列車で4時間の後大連へ、今回は軟座といわれるグリーン車だ。
夕食は広東料理を摂った。
ホテルの中山大酒店のロビーで牟智さんの両親と会い預かった荷物を渡し、また
彼女に渡す荷物を受け取った、街を案内しようと言われたが言葉が全然通じない
ので残念ながらお断りした。                                   
その後近くのCD販売店でCDを数枚購入し、天津街の鮮魚を売る屋台を見て回
った
    9月11日(月) 長春
 ここ長春は1932年日本の傀儡国家である満州国が建設され、その国都である新京となったところである。
ここで偽満皇宮博物院を見学した、中国のラストエンペラー溥儀が満州国の皇帝に即位した時、新宮殿の完成までの仮宮殿として造られたものであるためか、こじんまりとした質素なつくりであった。
次に正面が日本の国会議事堂をまねて造られた、満州国の最高行政機関である偽満州国務院を見学、現在は医科大学として使われている。
満州国の国家機関跡である偽満州国八大部はバスの車窓からの見学になった。

15時56分発の列車で瀋陽へ向った、今回は硬座と呼ばれる二等車でエアコンではなく扇風機付いた車両に4時間乗車し19時54分に瀋陽に到着した。
夕食は餃子で有名な老舗である「老辺餃子館」で摂った。
ホテルは日中友好会館である。
     9月10日(日)  ハルピン
 2日目のハルビンの観光で松花江の遊覧である。遊覧船に乗っていると両岸に大きなビルがどんどん建設されるのが目の辺りに見え発展しているのがよくわかった。
その後黒龍江省民族博物館を見学、ここは孔子廟で孔子は皇帝に準ずるくらいに尊敬されていたことを感じた。
その後13時50分発の列車で長春に向った、我々は1ボックス4人収容の片側2段のベッド付きの寝台車でゆっくり楽しい3時間の旅ができた。
着後吉林省では北朝鮮と接触している部分が多いため省都の長春でも北朝鮮レストランが多く夕食は北朝鮮料理であった。


中国東北地方 列車の旅
軟臥 上下2段のコンパートメントでくつろいだ旅
ハルピン〜長春 軟臥 上下2段のベットがあるコンパートメント寝台 長春〜瀋陽 硬座
瀋陽〜大連 軟座 (日本でいうグリーン車)
@月日 平成18年9月9日(土)〜14日(木) 5泊6日

A同行 2人

B費用 95,800円/1人(土産および飲み物等を除く全費用)

C航空会社 中国南方航空

D旅行会社 阪急交通社

E目的
 
    ○日露戦争・旧満州国の足跡をたどる   
   ○世界遺産「瀋陽故宮博物院」の見学
   ○大陸の列車の旅を楽しむ
   ○知人「牟 智さん」の両親と歓談

Fルート
     
関空ーハルビンー長春ー瀋陽ー大連ー旅順ー関空