宮殿の建物の壁に掲げられているこの絵は真ん中がホテルのオーナーの叔父さん(お父さんの弟、左の写真の人),、向かって左がお祖父さん、右側が曾お祖父さん。中央の叔父さんが留学先のインドで下記の本を著述して、インド政府よりゴールドメダルが贈られたのを記念して描かれた絵である。

 ホテルのオーナー家はこの曾おじいさんの代に財を築き、この財で当時オランダの植民地支配下にあったバリの人々を陰に陽に助け、この王家の繁栄を築いてきた人である。ホテル・アリッツ・ビーチ・バンガローのレセプション天井にその功績の絵が描かれている。

テンパサールの中心地にバリ最大の市場、バドウン市場がある。ある日S氏とこのバドウン市場の見学に出かけた。そのついでにすぐ近くにある、我ら宿泊のホテルのオーナーの実家のバドウン王家の宮殿にS氏を案内した。そこで偶然お出会いしたのが、オーナーCIPTA氏の叔父さん(写真の人)である。名前は
Prof.Dr.dr.Litt.1..Gusti.Putu Phalgunadi,.M.A 通称 わからない
 この叔父さんはヒンズー教の勉強のため、本家のインドに渡り、博士号を取得の後、20年間インドでヒンズー大学の教授をしていて、去年帰国したそうだ。現在も独身で宮殿の一角を住居にしている。
 この叔父さんはインドの大学の教授時代多くの著書を出版している。(下記の写真の本) インドより持ち帰ったこれらの著書の中に、興味深い記事をみつけ、教授に本を借りて、ホテルで読んだ。

9、アリッツ・ビーチ・バンガローのオーナー CIPTAさんの叔父さんとの出会い

右の写真 教授を囲んで パムチュタン王家の宮殿にて

うしろの壁にはバドウン王国のひとつパムチュタン王家の系図が張られている。第1代の王には子供が36人いてびっくり。一番下には当然アリッツ・ホテルの子供たちの名前が載っている。

5、ホテルのお嬢ちゃん 7月17日より 新1年生
なんと制服4種類、くつしたの色、リボンの色も決められている。

1、なつかしい風景

観光客が多い地域では「トランスポート」「タクシー」「マッサージ」「マニキユア」呼びかけの声がとぎれることがない。しかし一歩農村地帯に入ると、私の50年位前の、いなかの風景に出会える。親と子がともに農作業に精をだし、まだ幼い子供は働いている親の周りでころころ遊ぶ。元気いっぱいの子供たちは自然のなかで転げまわって遊んでいる。

熱帯の国なので,午前7時過ぎから始業昼までで終了、教室は意外と涼しい。2年生44名みんな落ち着いて勉強に取り組んでいる。教室に設備がなにもないのはちょっと悲しい。放課後の子供たちは元気いっぱい

4、小学校 SDにて

以下興味深い内容を拾ってみると

「バリの生活習慣」
家族関係 自分より年上の人を尊敬し、その命に従う。父親は家族の中心。(オーナー夫妻も先代のオーナーである両親をとても大切にし、両親の築いてきたこのホテルをとても大切にしている。)
 父親は母親の家族とは交流しない。(オーナーのお父さんもお母さんの実家に行くことはない)
 アナック・アグン家の宮殿にある一族の家系図は直系だけが記されていて母親の記述は一切ない。男尊女卑の思想であるが、実際にはこの家の大蔵省はオーナーのお母さんである。
 現在は家族関係も近代化されてきているが、オランダの支配下に入るまでは女性には厳しい習慣があった。
 夫が亡くなると、その火葬の時、妻もその燃えている薪の上に飛び込んだ。
 王が亡くなるとその妃、内妻たち、奴隷たちは白い衣装をきて、僧侶がお経を唱えるなか、王の火葬の燃える薪の中に飛び込んだ。(何故? 王は天国の高いところへいける。したがって王にともに高い天国へへ連れて行ってもらうため?)。1904年この王家でも最後の殉死が行われた。1911年支配したオランダがこの制度を禁止した。
 (現在行われてる、カースト制の最高位の僧侶階級、王族階級の火葬式ではpelebonと称して、過去になくなった人々がともに火葬されているが、この名残なのであろうか。)

6,凧揚げ大会

 毎年7月になると、サヌールの北の海岸で大規模な凧揚げ大会が開かれる。町や村単位で作られた巨大な手づくり凧次々と空を舞う。今年は21日、22日、23日に実施された。この賑やかな会場は私たちのホテルから見えるので、同宿者3人で「ちょっと見てみよう」とかるい気持ちで会場に出向いた。ところが、あまりに大仕掛けの大会で飽きることがなく、結局3人で3時間あまり空に向って見物した。おかげで3人とも顔も手足も日焼けでやけど状態。
 各団体でつくられた巨大な凧は、当然多人数で息を合わせて揚げなければならない。各団体の人数を数えてみると100人を超している。ご神体?を運ぶ人、鐘や太鼓で編成された音楽隊(ガムラン)、そして凧を揚げる屈強の男性たち。各団体は、それぞれ伝統の凧、竜の凧、コウモリの凧など3つの凧をを製作し、この巨大な凧を会場に運んでくる。そのため、この時期のバリはあちこちで交通渋滞が起きるという。この行事もヒンズーの宗教の考えで行われているようだ。竜は空高くのぼることができるので、死後天界のより高いところへ連れて行ってくれる。コウモリもヒンズーの聖鳥で、バリで大切にされている。とにかく巨大な凧、人出の多さにびっくり
 私たちの宿泊のホテルで一日中海からの風が吹いてとても涼しいのであるが、この風を利用して海岸ではこの大会に限らず、常に多くの凧が空に浮かんでいる。

7、ホテルの周辺で出会う儀礼

ホテルの前の道路を行く葬列(2回目の火葬式ムムクル、海にいた死者の魂を火葬をするために迎えに行って帰るところ。)

3日前に亡くなった73歳の男性の火葬
バリの葬式で泣いている人は見たことがない。

8、バリ人の行動
 バリ人の特徴的な行動に2度出くわす
 1回目 同宿者の女性から聞いた話
  同じホテルに長期滞在している女性Tさんが、ある日貴重品をカバンに入れて自転車の前籠に入れて大通りの交差点で信号待ちをしていた。後ろから来た単車に乗った二人組みの男にカバンをひったくられた。彼女は大声で「どろぼう、どろぼう」と叫んだ。バリテロ発生以来この交差点にも4,5人の警察官が配備されている。この警官たちに近くにいた住民がj事件発生を伝えた。警察官2人はさっそく単車に二人乗りして追っかけた。被害者のTさん曰く、犯人像も何にも聞かず追っかけていった。いったい誰をつかまえようとしたのか・・・・そして彼女も警察官の単車のうしろに乗せられた。犯人を追っかけるのかと思うと案に相違して交番につれていかれ調書を取られた。パスポートが必要ということでホテルに帰り、ふたたびホテルの警備員に同行してもらい、交番にいった。調書記入が済みかえろうとすると警備員が警察官にチップを払えという。Tさん怒り心頭、「私すべてすられたの、財布も通帳もなんにもないの。どうしてはらえるの?」と叫ぶ。しかし、ここではこういうとき払う習慣になっていて、あとからでももっていかねばならないとか・・・ Tさんがあとからチップをもっていたかどうかたしかめていない。
 2回目 私自身の話
 ある日の食事中、歯にかぶせている金歯がぽろりとおちた。歯医者さんに行けばすぐ装着してもらえるので、大切にテイッシュにつつんで、化粧品の小さな箱にいれた。ところがある日つい金であることを忘れて包んでいるテイッシュをすててしまった。この時点で普通のひとはあきらめるのであろうが、わたしは少ない年金で生活している身、根性でなんとしてでも探そうと決心した。そこで、オーナーのところへ行って、今日のゴミはどこに捨てられたか担当のスタッフに聞いてもらうよう頼んだ。オーナーはすぐさま近くにいたスタッフに指示をだした。しばらくして当人が帰ってきたので「どこ?」と聞くと、もうみんなで探している。という。いってみると、ゴミ箱がひっくり返され7、8人のスタッフが探してくれている。しかし、私はまだ、どんなものを探そうとしているのか、一切説明していない。それぞれの人々の頭の中に、どのようなものを想像して探してくれているのか?とても不思議に思った。私は「私にしかわからない小さなものだから、一人でゆっくりさがします」とインドネシア語で何回も伝えたんだけど、彼らはなんとしてでも、探して私を喜ばせたいと探し続けてくれた。しかし残念ながら捜索活動は成功しなかった。特にわが部屋担当のスタッフは力を入れてさがしてくれたので、この気持ちはとてもうれしかったけれど、探そうとしているものがどういうものか聞くことなしに探している姿にうれしいような、困ったような・・・・・・。結局、帰国して遠方のかかりつけの歯医者さんで作り直し、結構高くついたが、あのスタッフたちを思い出すと、なんとなく心豊かになるのが不思議である。

火曜日は体育の日、たいそう服で登校

ホテルのレストランのスタッフ ワヤンさん
中央

チャーターした車のドライバー イダ・バグース氏左から2番目

10、バリ人の名前
 バリ人の名前を聞いたり見たりすると、出身が明らかに分かる。平等の精神がが浸透している我々日本人には理解しがたいところである。
 イダ・バグースときけば、身分制度の最高位の僧侶階級を表し、クルンクンの王家はデワを名乗り、わが宿泊のバドウン王家はアナック・アグンを名乗り、ウブドの領主家はチョコルダ、上記の教授はグステイであるが高貴な貴族の存在であることを示している。
 そしてその子供も出生の順によって名づけられている。王家では第1子はPUTU  2子 MADE 3子KETUT 第4子は元に返りPUTU 5子MADE、6子KETUTとつづく。したがって王族の間では3人にひとりはPUTUさんがいるわけで、、Familyが集まって「PUTU!」と呼ぶと大勢が返事をすることになる。アリッツ・ホテル家でもお父さん、現オーナー、上記の叔父さんみんなPUTUという名前がついている。
 また、バリ人の8割以上を占める平民はも出生順に呼ばれている。第1子ワヤン、第2子マデ 第3子ニョマン、第4子クトウット そしてはじめにに戻り第5子ワヤンとつづく。ホテルのスタッフもワヤンさん、マデさんがとても多い。
 今では法律により、全員が平民となっているが、このような階級を表す名前は厳格に用いられており、元の階級に応じて厳格に敬語が使い分けられているようである。

バリ州の州都であり、バドウン県の県庁所在地であるデンパサールの中心に新旧二つのププタン広場がある。このププタン広場は、1906年、オランダがここへ侵攻したとき、最後まで抵抗し
当時の国王を先頭にオランダ軍に向って真っ向から対決していった、プライドと勇気を称えて作られた記念碑と広場である。この時の記述がこの教授の本の中にあった。
 オランダがインドネシアのジャカルタを支配下においたのは、1619年のことである。バリ島も何回かオランダに攻められたが、勇敢なバリの兵士が阻み、支配下に入っていなかった。
当時のバリ島は8つの王国
Jembrana,Buleleng、Bangli,Karangasem,Gianyar,Tabanan,Klunkung, Badung)に分かれて、相争っていた。この王国の中には、オランダと手を結んで生き延びた王国もあったが、このホテルのオーナーの祖先である、Badung王国は最後までオランダ軍の軍門に下らず、プライドをもってオランダ軍に立ち向かっていった。Badung 王国はくわしく見ると、市内を流れるバドウン川(アユン川)をはさんで東側がテンパサール王国と西側がパムチュタン王国と別れており、ホテルオーナー家はパムチュタン王国の出である。最後まで独立を守っていたバドウン王国がオランダ軍と戦うきっかけになった事件は、1904年、中国船がサヌール海岸の沖で難破した。そして、サヌールの人々が物資を略奪したとして、中国船がオランダ軍に訴え、オランダがバドウン王国へ多額の賠償金を支払うよう命じてきた。バドウン王家は、中国船の難破の責任はバドウン王国にはないとして、その要求を拒否した。バドウン王家とすべての人々は国の名誉と尊厳を守るため、服従より戦う道を選んだ。以下は叔父さんの著書より、この二つの王国のオランダ軍との戦いの様子を述べたものである。

  「1906年9月15日、突然オランダの艦隊が、サヌールの海岸に現れた。オランダ海軍はサヌールの海岸からパムチュタンとテンパサールを攻撃した。途中のバドウン軍を次々敗れた。パムチュタンとテンパサールの王はオランダ軍が町に入る前に、町と重要な、価値あるものをすべて破壊するよう命令した。宮殿はオランダ軍の略奪を防ぐため、火をつけて焼かれた。

 1906年11月20日 オランダ軍はテンパサール市へ入ってきた。国王と共に婦人や子供もふくめたすべての王族は、彼らの伝統的な武器でテンパサールの長い通りで勇敢に戦った。
ついに王は撃たれ戦いに敗れた。オランダ軍は引きつづいてアユン川を渡り、パメチュタンの町へ侵攻した。
 プムチュタンの婦人や子供を含むすべての王族は、王とその娘に従い、戦場に出て行った。彼らは戦士の服を身につけ、宝石や金で彼ら自身を飾った。彼らはまた、短剣と槍を持って戦場に出て行った。勇敢なバドウンの人々は激しく抵抗した。彼らは不名誉のことよりむしろを選んだ。英雄と愛国のバドウンの人々は撃たれた。オランダ軍は多くの人々を虐殺した。バドウンの王と彼の娘も戦場で撃たれて死んだ。
 戦いの最後に傷ついた人々と王族の人々は王を火葬するために積まれている薪の上に這って行った。王の死体の傍らで自分自身を刺した。こうしてテンパサール王国とパムチュタン王国は勇敢にオランダ軍と戦って滅ぼされた。オランダは恐ろしい戦いを味わった後、戦いに勝った。
 オランダ軍はこの後、まだ支配下にはいっていないタバナンを攻めた。タバナンの王はオランダ軍に降伏を申し出た。王とその息子は捕らえられ牢獄につながれた。彼らは面目を失い、次の日彼ら自身で喉を切って死んだ。
 
  オランダ軍は、1908年最後に残ったクルンクン王国を攻めた。クルンクンの王もパムチュタンとテンパサールの王が示した方法に従うことを望んだ。王の軍隊は破れ、王は殺され、首都は強奪された。こうして、1908年にインドネシアの最後のヒンドウ王国が終わりとなった。

「バドウン王国がオランダの支配下に入るまで」

3、男性は?

2、バリの女性はたくましくそして忙しい

06、6、29〜7、27

著者 Prof.Dr.dr.Litt.1.Gusti Putu        Phalgunadi,M.A..

「Evolution of Hindu Culture in Bali」

本の名前

バリ滞在記 2006

トップページに戻る