連載 農村昔話   「義民とよばれた男」




はじめに

  秋晴れのひと時、紅葉に誘われて兵庫県播州地方北部の多可郡多可町加美区をドライブ中、国道の右脇路肩に「義人の碑」という看板を目にしました。
  その時は、何気なく通り過ぎたのですが「義人とは誰だろう。」と気になり、数日後再びその看板近くにあった石碑を確認しに行ったのです。
 義人といえば、江戸時代の百姓一揆の指導者であった、下総国公津村(現千葉県成田市台方)の「佐倉惣五郎」とか、群馬県利根郡月夜町の「杉木茂左衛門」、信濃国松本の「多田加助」などが有名ですが、私の自宅からそれほど離れていない、どちらかと言えばごく身近なところに義人伝説があったとは露知らなかったのです。

  今から約250年前、一命を犠牲にして江戸幕府の悪政から多くの農民を救った、埋もれた偉人が、これほど近くにも居られたことに大きな感銘を受けました。
 そして、一寒村が輩出した偉大な農民を一人でも多くの方々に知って頂きたくてここに連載で紹介することにしました。
 なお、紹介にあたっては、文献を参考としましたが、小生が想像力を働かせてアレンジしたものですので、必ずしも史実と合致しない部分があることを承知おきください。 (参考文献ー脇坂俊夫「義民夏梅太郎右衛門」等)

   2009年12月 

                                     

  夏梅太郎右衛門終焉の地(植垣の奥に碑が建つ)



(第1話ー2009/12月)

 
舞台は、享保の大飢饉から30年ほど過ぎた宝暦年代にさかのぼる。
 播磨国多可郡は、寒冷の地であり、稲作による収穫量は元々多くない地域であったが、江戸時代中期の宝暦7年(1757年)前後は特に、気候が不順で稲の実りが悪く、村人達は食うや食わずの生活を強いられており、年貢の上納もままならぬ状態にあった。


 当時この地方は、生野銀山のある、生野代官所の支配を受けており、生野代官は、斉藤新八郎であったが、生野銀山の産出量が減少傾向にあったことも影響してか、支配下の村々に高い年貢を課していた。
 多可郡熊野部村(現兵庫県多可郡多可町加美区熊野部)の庄屋武兵衛は、生きていくのが精一杯で苦しい生活を送っている村人達の窮状をみるに見かね、あちらこちらから借金をして漸く年貢の上納を済ませていたが、やがては借金返済の目処が立たなくなり宝暦10年(1760年)には美作国へ夜逃げをしてしまったといわれる。

 その後、懇願されて庄屋役に着いたのが、熊野部村字夏梅の百姓 太郎右衛門である。彼は、村人達の年貢を何とか軽減してもらおうと、庄屋についた年から、山を超え谷を超えて遠路生野代官所まで赴いた。来る年も来る年も太郎右衛門は代官所に訴え続けたが、代官斉藤新八郎は頑として聞き入れなかった。

 やがて宝暦13年12月になると、代官斉藤新八郎が逝去し、翌年、その後任代官として大阪の地から平岡彦兵衛が赴任してきたが、年貢は一向に軽減されなかった。
しかし、村人を救うために諦めるわけにはいかない。太郎右衛門は、代官が代わるこの時こそと、平岡彦兵衛に越訴(直訴)し、捕らわれの身となる。


(第2話-2010/2月)

 役人に捕らえられた太郎右衛門は、来る日も来る日も生野役所で厳しい取り調べを受けることになった。
 当時のことであり、直訴には何か裏があるのではないか、同調者がいるのではないか、幕藩体制の転覆を狙った勢力ではないのか等々、過酷な詮議が行われた事であろう・・・。
 江戸時代、百姓一揆のみならず、越訴(直訴)は、御法度であり、指導者や直訴人には死罪等の厳しい刑罰が待っていた。
 このことを承知で直訴に及んだ太郎右衛門に対し、平岡彦右衛門は、
   「嘆願を取り消すなら命は助けよう。法度に背く嘆願を続けるなら一命   はない。一命と引き替えならその趣を聞き入れても良いが・・」
と嘆願を取り消すように強く迫った。
 しかし、太郎右衛門は、頑として聞き入れず覚悟のことと我が身を犠牲にして村人を救う道を選んだのである。
 数日後、太郎右衛門は厳しく縄を打たれた痛々しい姿で護送され、御法度に背いた重罪人として過酷な刑に処される事となったのである。


(第3話ー2010/2月)
 太郎右衛門の刑は、火刑と決せられ熊野部村字才ノ木には急遽刑場が設けられた。
 周りが矢来で囲まれ刑場には、青松葉と割木が高々と積み上げられ、当たりを役人が厳しく警戒している。
 矢来囲いの外には、泣き叫ぶ者、役人に助命を嘆願する者、無言で手を合わせる者など多くの村人が詰めかけ辺りは騒然としてた。
 
(第4話ー2010/7月)
 太郎右衛門は、処刑に臨みカッと目を見開き、堂々村人に向かって,
    「我は微力であり、徒党を組んで暴動を起こすごとき           一揆によらずして村人の憂いを除こうとした          。 事はならなかった。。どうか、皆で我が志          を継いでほしい。」
と静かに語り死に臨んだのである。
その肝や武人にも勝るとも劣らぬあっぱれなものである。
やがて太郎右衛門は木の枝に吊され、役人によって青松葉と割木に火が点されると激しく火に巻かれ刑場の露と消え去った。時に明和元年(1764年)6月25日のことであった。


 農民の越訴や一揆を恐れた代官は、村人への見せしめのため太郎右衛門を村人の前で残忍な火あぶりの刑に処したのである。その後、熊野部村をはじめ、生野代官所支配の多可郡の村々も年貢が軽減され、横暴な政治も止んで農民は安堵した。
 この時代には、罪人を公然と祀ることも出来ず、夏梅太郎右衛門越訴の一件は極秘裏に処理され、記録も消し去られたのであるが、村人は彼を追慕して密かに鎮魂のため、命日には祭祀を執り行っていた。そして、約150年後の明治期になって、太郎右衛門の越訴一件が漸く日の目をみることとなる。
熊野部村では、村を窮乏の危機から救い明治の反映もたらした義民夏梅太郎右衛門に感謝のまことを捧げようとする機運が高まり鎮守である稲荷神社境内に、夏梅太郎右衛門を祭神とする「小祠夏梅神社」を建立した。

稲荷神社境内の夏梅太郎右衛門を祀る小祠夏梅神社 
(左側の小祠)


また、顕彰碑である、「夏梅太郎右衛門終焉の地」は、明治44年7月21日(火刑から147年後)、太郎右衛門の事績を後世にに永く伝えようと有志が相図り、彼が処刑された才の木に建てられた。
(以上脇坂俊夫氏著「義民夏梅太郎右衛門明和元年多可郡熊野部村太郎右衛門の越訴一件」参照)

 精魂逞しい武士については、数多く紹介され、日の目をみる機会も多いが、一寒村の貧農についてスポットが当てられることはほとんどない。
私は、ひょんなことから、2009年初めて夏梅太郎右衛門を知ることになったが、武人にも決して劣らない、根性の座った人物が小さな寒村にも存在したことに驚きを覚えた。
おそらく、当時の日本には、その身分に関係なく立派な人物を排出する土壌があったのだろう。
 彼のような人物が日本の農業を支えてきたのだろう。!!  



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