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目次                        

学校に畑を 2011/8/7
霊魂が残るって? 2008/2/8
大変な時代がやってきた 2002/7/12
公教育のゆくえ 2001/01/04
《What's Going On》  『卒業』 2000/02/28

1999年以前

「エネルギーその行方」
「好きこそものの上手なれ」
「人間の力で」
「生きる力」 素敵な夏休み
「大人として」
「子供からのSOS」 見えてますかお子さんが
「家庭訪問を終えて」
シリーズ「自治」 自治ということ ・自治のない集団 ・民主主義の基本 ・みんなへ




 

「学校に畑を」

特別支援学級を担当して、何をその柱にしたらいいのか悩んだ。生徒の求めているものを探し出すことは容易ではないし、ましてや、それを「こうだ」と言いきることはあまりにも危険であることが、3年間を通して学んだことである。しかし、そんな中でも、「育てる」ということに関しては、無条件に教育的な意義があることも分かってきた。「命あるものを慈しみ育てる」これは、動物でも、植物でも同じことである。ただ、われわれも動物のせいなのか、植物の死と動物の死は同列には扱うことが感情的にできない。しかし、世話を怠ると「その命は失われる」ことになることに関しては理解ができ、そうならないように努力しなければならないことも直感として理解できている。

年老いた人たちの多くが、畑に出かけ世話をする。慈しみ愛情を込めて世話をして実った植物を、作物として収穫していく。「手をかけ世話をすれば応えてくれる」という日本人の多くが本来持っている自然から得たな知恵だと思うし、民族性でもあると思う。そういった生活が日本人としての自然な姿だったと思う。

 「世話をすること」は「いつも気にかける」ことであり、「責任を持ち続ける」ことでもある。最後まで。そういえば、先日、あるテレビ局が「東京大学生の自由研究」という特集をしていた。東京大学に通う誰もがそうとはいわないが、少なくとも、そこに登場した学生たちの小学校の時の自由研究は素晴らしかった。何点か紹介されていたが、共通していたことは「きちんと最後までやりきる」ことだった。 

《開墾》

学校長の許可を取り、グランドと鉄棒(砂場)の間の草に覆われている箇所を開墾することにした。


土入れ作業


道路からもよく見える

グランド側は初めてでもあり、3×5メートルほどの小さな畑を作ることにした。

《日頃の世話(草取り作業)》


小さな畑にピーナッツ、にんじん、


サツマイモを植えた。

 ◆ピーナッツは、収穫してピーナッツ豆腐を作る予定である。

昨年は、地域の人を講師に、ピーナッツ豆腐を作っている。それならば、今年は自分たちが育てたピーナッツを使って豆腐を作ることに挑戦してみることにした。 

◆すでに開墾され、作られた畑を無駄にせず。

3年前に開墾した畑を使って、ジャガイモ、ピーマン、キュウリ、トマトなどを栽培することにした。とれた野菜は無農薬でもあり、安心して食べることができる。今年もキュウリは浅漬けにして、給食の時に出すことができた。

   
畑での作業。みんな楽しそう。

 

     
収穫の一部分。草取りなどこまめにしたおかげで、病気にもならずきちんと収穫できている。

 2学期は、ジャガイモを使ってジャガイモドーナツを作る予定である。もちろん定番のカレーも作って食べることを生徒たちは期待している。

 ★自然を感じながら。最後まで。★

 野菜作りを通して、自然を身近に感じることができる。天気、気温など、毎日の天候を意識しないわけにはいかない。そういった心は、山の緑に、川の水量にと目を向けさせる。こんな田舎に生活している子どもたちも、買い物は近くの町のスーパーである。野菜はきれいに包装されていて、魚は切り身になってパック詰めされている。牛や豚、鶏などの肉もきれいにパック詰めされて売られている。このような生活の中、野菜がどのようにできるのかなど経験できる子どもは少なくなってきている。そういった意味でも、学校で畑を作り、野菜を収穫させ 、最後に畑を閉じる。こういった一連の仕事の体験は生活していくことの大切な要素のひとつであると思う。

2011,8,7



「霊魂が残るってどういうことなんだろう」

 小さい頃は,未体験のものに対しては怖さや恐ろしさを感じていた。心霊写真や浮遊する霊魂,人魂なんてことを聞くと誰か後ろにいるんじゃないかと「ぞっ」としたものだ。もちろん今でも,誰もいない学校を夜遅くひとりで歩く時なんかは,気持ちのいいものではない。通り過ぎた教室から何かしらお化けのようなものが出てくるんじゃないかとびくびくしながら,なにかの気配を感じながら歩いている。でも,一度も具体的な何かに出会ったことはない。当たり前である。もともといるわけがないのだから。でも,具体的にいるわけがないのに恐いのは何故なのだろう。それは,具体的にはいないけど僕の頭の中には物心ついてから今までに見聞きした妖怪やお化け,そして霊の話しなどが記憶として残っていて ,それらが頭の中で形を作っているからにすぎない。物体として存在していないからこそよけいに恐いのかも知れない。妖怪やお化けは人間じゃなく,物の怪としてだから恐いものから滑稽なものまでいろいろと考えられていて,人間の想像力の豊かさを証明しているようで少し嬉しくもある。しかし霊魂はというとそうじゃない。

 霊魂を主張する人たちは,人が死んだら霊魂が身体から抜け出るという。実態がないから恐ろしい。多くの日本人はそう感じるようだが,キリスト教など啓示宗教の信者たちは,ピンと来ないらしい。

「昨日,テレビを見ていたら映っていた。絶対おるでー。」
「心霊写真も写っていたし。あんなとこで映るはず無いのに。」
「絶対霊っておるしー」
「霊を呼び戻しとったしー」
「拝んどる人に乗り移っとたしー」
首を傾げて「ほんまかいな?」の態度をしてみると
「だったら,あの現象をどう説明したらいいんですか」
と続く。

 そんな話をしている子どもたちの多くは,霊は絶対にいると信じ込んでしまっている。
今までに経験したことを憶えていて,現実と重ねているに過ぎないのに。

 ぼくたちは,いずれ死ぬ。これだけは真実で,誰にも変えられない事実である。しかし,人間は本能意外に感情といったものを獲得してしまったおかげで,死ぬということを想像することができるようになってしまった。

 霊魂はない。存在しない。しかし,一人のヒトが人間としていき,死んでいった場合はその人間の生きた軌跡が関わった人たちの中に思い出として残る。このことだけが真実なのだと思う。だから,魂が成仏しみんなの前から姿を消すということは ,その人に関わったみんなの気持ちに「ああ,亡くなったんだなあ」とその死を認めることなのだとおもう。

 テレビを見ていて「あなたの過去にこんなことがあって・・・」と深刻そうに,悩ましそうに話す人たちを見るとどうも耐えられなくなってきている自分を思う。 徹底的なリサーチのもとに話す彼らの深刻そうな表情を醜いとしか感じない自分とは違って,予言者のそれとして感じとってしまう人の多さに,今の日本の閉塞感を感じてしまう。


 

大変な時代がやってきた 2002/7/12加筆発信

 ついに公立の学校は毎週土曜日を休業する。指導要領も全面改定しこの4月より完全実施をする。

 先日テレビを見ていたら、なんとあの寺脇研氏があらわれ、お母さんを相手に一生懸命しゃべりだした。
 あるお母さんから、それは理想じゃないですかと問われると、彼の口からは「理想を追わなかったらだめですよ」と言う言葉が返ってきた。「なんだ、そんなに簡単に理想を語っていることを暴露してしまったんじゃだめじゃないか。」そう思った。
 それは、今度の改訂は「みんなに100点を取らせるためのものだ」という。
 初めて聞いたときに「おいおい、本気で言っているのか。人間をなめているんじゃないのか。」そう思っていたが、こんなことを恥ずかしくもなく言い切ってしまう寺脇氏が、ミスター文部省などといわれていると思うと、なんか、日本の将来は暗いなあと思ってしまうし、絶望的な気分にもなってしまう。
 週休2日制を実施していくために何らかの理由が必要なわけで、ゆとり教育だとか何だとかいって、上手くこじつけてしまったなあと思う。公立学校の教師をしている自分にとっては複雑な心境である。

 ちなみに、2001/01/04に載せた「公教育のゆくえ」の中で書いていたことであるが、「個性化教育の中で育った子どもたちが今や二十歳を迎えようとしている。」と書いた。このわずか10日後の2001年の成人式は日本各地で大荒れだった。2002年の成人式でも情けないニュースが流れていた。まさに、「これが教育なんだなあ、教育の成果なんだなあ」と改めて思う。そして、「ああ、この子たちも親になるんだなあ」と思ってしまう。

 教育したことの結果は、何年も後になってからでないと分からない。しかし、想像力を働かせれば、そういったことになりうるであろうことの予測はつくものである。今回の改革が今後の日本にどのような影響を与えていくか、長期的な視野で見ていたいと思うが、想像力を働かせれば働かせるほど、今回の教育改革は日本に致命傷をあたえてしまうと思えてならない。
これが、いらぬ心配であればよいのだが。

2002/4/5 記


公教育のゆくえ 2001/01/04

はじめに
 敗戦後の半世紀、日本は大きく変わった。社会情勢の変化を受け、教育の方向もその都度大きく変化してきている。
 日本は1964年に東京でアジア初のオリンピックを開催し、併せて新幹線を開通させた。テレビの爆発的な普及もこのときから始まった。1970年には大阪で万国博覧会を開催するなど、1960年代から加速した日本の高度経済成長は、この後1973年まで続いた。しかし、この年の10月に勃発した第4次中東戦争において、アラブ諸国は西側諸国に対し、石油を戦略武器として、石油供給削減政策を展開し始めた。これをうけ日本列島は11月、第1次オイルショック突入となりその高度経済成長の幕を閉じることになる。この後数年に亘り経済の混迷は続いた。
 公教育もその動きと連動するかのようにいろいろな問題が起こるようになってきた。校内暴力(対教師暴力)、いじめ、登校拒否、学級崩壊等々さまざまな問題が教育の場で次々に発生してきている。それらの問題に対し、教育現場では決定的な処方のないまま、場当たり的な対応でそれらをのりきっている。国としても、有効な手だてを打ち出せていない。
そんな中で今回、学習指導要領が全面改定される。1996年第15期中央教育審議会で、「ゆとり」のなかで「生きる力」を生徒たちに与えるという基本方針をうたい上げた文部省は、今回の改訂で、週5日制の完全実施、年間学習時間の削減、教育内容の約30%削減、「総合的な学習の時間」の導入、選択教科の拡充などを進めようとしている。
 最近、「・・・ができない大学生」という題名の書物が話題を呼んでいる。大学生の学力低下問題は、高等学校の選択制の拡大と大学入試科目の削減にその大きな原因を見つけることができるとしている。つまり、入試に必要ないから学習に熱が入らない、あるいは履修しないといったところからこれらの現象が現れてきているのではないかと・・・

 ある国立大学の教授からこんな話を聞いた
 「経済学部の学生に経済の理論を教えるのは大変である。理解できないものもいる。同じことを一般教養の中でやったら、数学科の学生は簡単にその内容を理解してしまう。経済学部の学生は、数学をあまり学習してきていないからな、昔はこんなことはなかった。」というのである。
今回の指導要領の改訂を、多くの教育関係者が危惧している。
それら問題点と考えられるところをあげてみた。


常識でははかれない

 1984年内閣総理大臣の諮問機関として設置された臨教審答申の中で「個性重視」がうたわれ、「個性化」教育が日本全国で一斉に行われるようになった。しばらくすると、小学校の入学式でじっとできない子供、けんかを始める子供が目に付くようになり、式辞をする校長たちをあわてさせた。幼稚園での「個性化」教育が幼児の興味・関心をもとに行われていた。子供は銘々自分の興味・関心のもとに活動し、教師はそれを支援するという形で学習が進んでいく。そこには「学習に対する規律」「辛抱」というものがどこかの追いやられたようだった。そのような方針の元に育った最初の子供たちは、今や二十歳になろうとしている。
 ここ数年中学・高校生が引き起こす事件が残忍性をおびてきていると感じている。以前にも事件はたくさんあったが、それらの原因や動機は、貧困や相手に対する特別な感情によるものがそのほとんどであった。近頃マスコミが報道する青少年の事件は、原因や動機がはっきりとしない。常識?の範疇を越えている。事件を起こした青少年は「ごく普通の子だったのに」とその知り合いたちは、口をそろえて言う。こういった世代が何万人かいて、その中にはたまたまこんなことを起こす者もいておかしくないといってしまえばそれまでだが、どうも簡単にそうと片づけられないものを感じている。前述した「個性化教育」によるものなのかどうか、そこに因果関係があるのかどうなのか自分としては解明できないが、こういった事件の発生の頻度が以前にはないほど高いことに少々驚きと危惧の念を抱いている。
 ヒトがどのような人間になるかは、どんな社会にいてどれだけの人間がどのように関わったかということが大きな指標になるだろう。学校教育はその中のひとつであり、しかもかなり大きな比重を占めている。


じっくり考え、取り組ませなければならない学習がますます遠のく。

 ここ数年の学校教育は、文部省の打ち出した机上の空論によるものが支配しているように感じている。学習指導要領があり、法的な拘束力がある以上それは仕方のないことなのかもしれないが、「個性化教育」「新学力観」「ゆとりの教育」等々から現れてくる学習内容は、地に足がついたものとは思えない。基礎学力とは何かという論議を深めなければならないが、やはり、語彙の獲得や基礎計算力などの基礎基本の収得は地味な努力の上に立って初めて獲得できるものだろう。今回の改訂で学習内容が従来に比べ約30%削減される。中でも数学や理科の削減は、理数科離れにますます拍車がかかる可能性を秘めている。新しく導入される「総合的な学習」でその部分は補完できるとしているが、総合的な学習がその系統性をつなぐとはとうてい考えられない。また、公教育をみんなに等しく授けるという点から考えてもその学力の差は大きくなると予想される。
 こういった問題に警鐘を鳴らしている慶応大学教授榊原英資氏は、今回の指導要領の改訂も、文部省の「勉強嫌いをなくすには、授業をわかりやすくすればよく、そのためにはカリキュラムの内容を削減すればよい」という考え方(文部省官房施策課長寺脇研氏)に根ざしているのではないかと指摘する。カリキュラムの削減云々は一見正しく、良いアイデアのような印象を与えるが、果たしてそうであろうか。勉強嫌いが増えていった根本原因は何なのかをとことん追及し、その上での新しい指導要領とはとうてい思えない。場当たり的な単純な論理のようで何ともすっきりしない。
 また、高校や大学入試がある以上受験対策に力を注ぐのは当然で、数学に限っていえば、共通1次試験は学習指導要領をきちんと意識して作成されているが、副読本の助けなしではとうてい高得点は期待できない。また公立高等学校の入学試験でも教科書だけの学習ではとうてい追いつかない。ましてや私立高等学校の入学試験の問題には全く歯が立たないのが現実である。そのような落とすための奇をてらうような出題自体が問題ではあるが、今以上に数学の時間が削られるようなことがあれば、塾の存在は絶対的なものになってしまう。つまり、塾に行かなければ、希望する学校に進学できないという図式ができあがってしまう。これではますます学力の格差は開き、同じ教室で同じ教材を学習することが困難になってくる。


塾を認めた文部省の真意は

 文部省自体が塾を肯定する発言があるということは、結局公教育に何を期待しているのか、その点をはっきりとさせなければならない。


総合的な学習を指導できる教員はどんなことでもできるといって良い

 「総合的な学習」は学習の最終的な到達点であるといってよい。自分でテーマを決めそれを解決するためにはなにをどのように組み立てどう解決していったらよいのか、あらゆる知識と知恵が要求される。この指導ができる教師はどれだけいるのだろうか。
 今、小・中学校で学習していることは将来的にこのようなことができるようになるための基本的な訓練である。十分な基礎知識や学力をなおざりにして、興味関心による地道な学習と 乖離した課題設定(全てがそうとはいっていない)で貴重な時間を使っていいものだろうか。(大学の卒研卒論はまさに総合的な学習であった)


企業の論理に教育現場は翻弄される

 総合的な学習において「インターネット利用」は、コンピュータの利用でありこの学習は日本の全ての学校にコンピュータを設置することを意味している。ここには企業側の思惑が働いていることが容易に察しがつく。設置すれば使わなくてはならない。子供は鉛筆と紙よりマウスとブラウン管を好む。

1960年から現在までの日本の大まかな動き

西暦 教育 経済
1960
年代
文部省白書「教育投資論」(62)
指導要領全面改訂(69)
高度経済成長の始まり
東京オリンピック(64)
1970
年代
指導要領改訂(77)
校内暴力事件が目立ち始める
大阪万国博覧会(70)
ニクソンショック(変動相場制)
第1次オイルショック(73)
経済低成長時代
1980
年代
校内暴力事件多発
臨教審答申「個性か重視」(84)
いじめ事件
登校拒否・不登校の増加
指導要領改訂(89)
バブル景気(86)
1990
年代
バブル崩壊(91)
校内暴力事件の増加(91)
学級崩壊が話題になる(90年代後半)
指導要領全面改定(98)
景気先行き不透明感
失業者増加
就職しない若者増加
2000 新指導要領完全実施(02)
 

校内暴力件数調査開始1987年 
いじめ件数調査開始1986年 
不登校生徒調査開始1991年
文部省の調査も、上記のように後手に回っているのが現状である。

2001年1月4日


《What's Going On》  『卒業』 2000/02/28

娘とCDを買いに行った。
今流行っている歌の中には、1970年代を感じさせてくれる歌が多い。ギターと歌とハーモニカ。
娘もそんなグループがいいらしい。あの当時のフォークソングもそうだった。吉田拓郎、泉谷しげる、井上陽水・・・。
よく仲間と歌った。

CDの棚を何気なしに見ていたらマービン・ゲイのWhat's Going Onを見つけた。
以前LPを借りて聞いたことがあった。
懐かしくなって手に取ってみた。
何かを憂う表情のマービン・ゲイがそこにいた。LPのジャケットと同じ写真だ。

世界のあちこちで今も争いが起きている。
もしかして、人間が生きていくためには争いごとはなくならないのかもしれない。
人と人が殺し合う。
憎しみあって
誰かの命令で
でもきっと、ほんとはそんなことしたくないはず・・・。

マービン・ゲイのアルバム「What's Going On」は大ヒットした。
あれから30年近くの時が過ぎている。しかし、今なおこのアルバムの持つ価値は大きいと感じている。

‥〜‥〜‥〜‥‥〜‥〜‥〜‥‥〜‥‥〜‥〜‥‥〜‥〜‥‥〜‥
《What's Going On》
Mother,mother
There's too many of you crying.
Brother,brother,brother
There's far too many of you dying.
You know we've got to find a way
To bring some loving here today-Year
Father,father we don't need to escalate,
You see, war is not the answer
For only love can conquer hate
You knou we've got to find a way
To bring some loving here today
Picket line and picket signs
Don't punish me with brutality
Talk to me, so you can see
Oh, what's going on
What's going on
Ya, what's going on
Ah, what's going on
In the meantime
Right on baby
Right on, right on
Father, father
Evereboby thinks we'er wrong
Oh, but who are they to judge us
Simply because our hair is long
Oh, You got to find a way
To bring some understanding here today
Picket line and picket signs
Don't punish me with brutality
Come on talk to me
So you can see
What's going on
Ya,What's going on
Tell me, What's going on
I'll tell you What's going on - Uh
Right on baby
Right on baby

Written by Al Cleveland, Marvin Gaye & renaldo Benson

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日本でも長谷川きよし氏が「卒業」という歌を作っている。

《卒業》

さようなら 女の子
Kissのうまい 女の子
もう少しこうしていたいけど
二人で眠っているうちに
春はどこかに行っちゃった

さようなら 女の子
きれいな胸の 女の子
お礼にバラがあげたくて
花屋を探しているうちに
春はどこかに行っちゃた

いやだな
いやだな
鉄砲一本握りしめ
誰かを殺しに 風の中

馬鹿なはなしさ 大人になるなんて


さようなら 女の子
涙の好きな 女の子
ひとまずこれでお別れさ
アルバムめくっているうちに
春はどこかに行っちゃった

いやだな
いやだな
たばこを一本つけたけど
煙はたちまち風の中

馬鹿なはなしさ 大人になるなんて

Written by 長谷川 きよし

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1999年以前


「エネルギーその行方」

人間の体は魂と切り離せない
故に、五官を与えられ
この世の入り口である体は魂の一部である
エネルギーこそ、唯一の生命であり、体より生ずる
理性はエネルギーの限界
あるいは区切りである
エネルギーはとこしえの喜びだ


 ウイリアム・ブレイクによるエネルギーの定義であるが、何よりもずっとすぐれていると思う。

   E=mc

 
有名なアインシュタインが特殊相対性理論の中で述べた公式である。この公式は、質量とエネルギーは同じであることを述べている。今、世界は、核を自由にあやつることが出来る。そのはずである。
 しかし、一体どうしたのだろう。世界が核にあやつられている。本来なら、我々人類、否、生物にとって有効に利用されなければならないはずの核エネルギーが、我々の自由をも脅かす存在になっている。核分裂から核融合へ理論は進歩した。しかし、核融合を人類はまだ制御できない。制御できないが水爆をつくった。兵器である。

 アインシュタインは、晩年、「わたしはこの世にとって大変恐ろしいものを産んでしまった。しかし、それが平和に利用されることを期待する。」と念じてこの世を去った。彼の意志を継げるのは誰でもない。私たち人類なのだ。


「好きこそものの上手なれ」

 一月末の大雪も、今ではすっかり溶けてしまった。幸い、但馬のスキー場にはまだ残っており、スキーが出来る。昨年までは雪不足で神鍋の民宿は「大変だー」

 なんせ、生活がかかっている。生活=食べるため。もし、学習が食べるためだとしたらどうだろう。

 昔、ギリシャの数学者ピタゴラスは貧乏な一人の青年に問題を与え、解けたらお金を与えた。青年は最初お金をもらうために問題を解いていたが、そのうち「先生、お金を払いますから数学を教えてください」と言ったそうだ。

 このあたりの冬には雪が似合う。山が銀世界で、いやなスキーにも行ってみた。おもしろかったとの感想もあった。好きこそものの上手なれ。まずは何でも好きになること。


「人間の力で」

 家庭からホウキ、チリトリなどの掃除道具が消えたのは、いつのことだろう。
 テレビは連日のようにひっくり返らない電気掃除機だの、埃を叩き出して吸い取る掃除機だの消費者の心をくすぐる文句を並べたてている。もちろん、それらは文化的な生活には今や欠かせない。しかし、それらは電気があって初めて使える道具である。さらに、うまく使わないと四角な部屋を丸く掃除することにもなる。

 子供たちはそんな中で大きくなった。

 竹野中学校は、来週より2週間「校舎をきれいにする運動」を展開する。古くてガタピシした校舎だけど、電気の力を借りず、人間の力だけでがんばって美しくしていきたいものである。


「生きる力 素敵な夏休み」 一年生一学期終了しての学年通信

 すべての行事が終了しました。個別面談で耳の痛い言葉、嬉しい誉めことばをもらった子それぞれかと思います。
 現在の成績の付け方は、ご存じの方が多いとは思いますが、全員が満点を取っても零点をとっても5〜1の評点をつける仕組みになっています。従って、評点だけをみて単純に一喜一憂することは禁物です。「評点」の善し悪しも無意味ではありませんが、もっと大切なことは、本人がどれほど真剣に物事に取り組み、しかも、他人と比べてでなく、自分自身の本当の力をどれだけつられたかということではないでしょうか。

 「始まったばかりだから気休めを言う」と誤解される方もありますが、決してそうではありません。実際に薄っぺらな競争心ばかりで育った子は、いざという時とても脆い、と言うのが多くの中学校の先生や高校の先生の声です。

 生きていく上で欠かせないのは、なんと言っても何かをし終えたときの「ああやって良かった、生きていてよかった。」と思える感動の積み上げだと思うのです。しかし、そういった感動は、何もなく、ただ「がんばれ、がんばれ」とだけ言われただけで頑張れる意欲がわいてくるものでしょうか。

 その意味で、夏休みは、家族のみなさんとともに、様々な伝統的な家庭行事に関わって『生きる』ことの中身そのものを体験する絶好のチャンスだと思います。あらたまって向き合って「さあ話し合おう」と言うより、一緒に墓掃除でもしながら色んな話をする方がどれほど良いか分かりません。

 「素敵な夏休み」それは、親子一緒に何かをすることだと思うのですが。


「大人として」 「今から10年ほど前の通信より」

 今日、日本では学習塾が大はやりです。NHKの「みんなのうた」の中でもそのことをテーマにした歌がありました。『・・・時計がコチコチ、コチコチ音を立てて追いかけてくる・・・』最後に『子供は大変だー』と叫んで終わる歌です。

 全くどうなってしまったのでしょうか。この近辺でも塾が大はやりだと聞きます。都市部では、「勉強は塾で」などと考えている親が多くいるといいます。当然子供もその考えに従います。果たして、勉強とは何でしょうか。受験のためだけの知識でしょうか。たしかにほとんどの者が高校などへ進学していく今日、少しでもいい高校へと考えるのも本心でしょう。しかし、いい高校とはいったいどんな高校でしょうか。

 このように思いを巡らすと、勉強は、本人が幸せに生きていけるためにするものであり、進路の選択は今の自分の力をのばすためのものだと思えるのです。しかし、現実はというと、選別の論理が大手を振ってまかり通っています。残念なことです。
 こういった論理を作り出していったのは一体誰でしょう。紛れもなくそれは私たち大人です。いつの世でも大人が社会をつくります。自分の進みたい道を自分で見つけ、それに向かって努力できる人間に育てる。そのことが私たち大人としての責任であることは間違いありません。


「子供からのSOS」 見えてますかお子さんが」

 「イチゴ世代」などということばをよく耳にする。ご存じだろうか。15歳を中心とする世代をそう呼ぶらしい。彼らから言わせれば私などもう「おじん」にどっぷりとはいっている。

 この世代の特徴として、自己を内省することが「大の苦」という分析がなされている。日ごろ子供たちと接していて、つくづく当たってるなと言わざるを得ない。そういう特性から、「無気力」だとか「無感動」だとかのことばに代表される行動や態度をする。さらに、自己を内省することが少ないから、他人のことが分からない。そういうことにもつながる。

 しかし、彼らは本当にそうなのであろうか。答えは否。そうであってほしい。

 誰しも「自己を認めてもらいたい。」という本来の欲求は持ち合わせているわけで、その心を『どのように表現して良いのか、その次元で思い煩っている』そう考えたい。自己を内省する力はほおっておいては育たない。この力を育てるには、仲間といろいろな話題について話し合ったり、教師とともに学習したりしていくことが重要な位置を占めるが、何よりも、大切なことに親と子の会話がある。話すことで初めてお互いの考えや思いを知り、そこを基準に自己を省みることができるようになるのだと思う。

 嬉しそうな顔、悲しそうな顔、憮然とした顔・・・その日その日の顔は子供からのSOSのサイン。食事をしながら、お茶を飲みながら、言葉を交わしてください。


家庭訪問を終えて

 家庭の皆様の願いは、「子供たちが、健やかに学校生活を送り、勉学に、部活に励んでほしい」この点にすべて集約されるのではないかと思います。ご家庭を訪問させていただき、そう強く感じました。

 (保護者の皆様へ)

 中学生ともなりますと、勉学の環境がとても重要になってきます。静かで、落ち着ける場所が是非とも必要になってくるでしょう。一人部屋であろうと、共同部屋であろうと、かまわないと思いますが、そこにテレビを持ち込んだりする事はさけなければなりません。見なくてもつけている場合が多くなりますし、また、ついていれば、なにも考えずに見てしまうことになるからです。ないほうがいいのです。  学習は、静かな中でコツコツと集中してそのことだけを行うことが要求されます。ラジオや音楽を流して行う、いわゆる「ながら勉強」は作業ははかどるようですが、実は思考の一番深い重要な部分を働かせない結果に終わり、あとで「あれだけ時間をかけてやったのに・・・」という挫折感だけを残しかねません。生徒たちにとってこのことはなかなか理解しにくいようですが、是非とも習慣化させなければならないところでしょう。ご家庭のみなさんのご理解とご協力をお願いいたします。

 次に塾と勉学の関係ですが、現在の社会の風潮として、塾に行かせないと何か遅れているように感じ、「うちの子も塾に行かせた方が良いのでは」と心配される保護者の方がとても多いようです。しかし、塾にやったから成績が上がるとか、やらなかったから下がるとかいったことは、いっさいないといってよいでしょう。要は、生徒本人が、今の時点で塾での学習を必要としているかどうかというところが問題だと思います。塾通いの理由に「行かないと不安」「行ってるから安心」と答える場合は単に子供や親の気休めになってしまう場合が多いですし、「友だちが行くから」「友だちと一緒だから」などをあげる子供たちにとって、塾はおしゃべりや遊びなどの情報交換の場になってしまう場合があります。やはり、行くからにはなによりも「目的意識とやる気」を持っていってほしいものです。塾があり、そこを必要とする子供たちがいる以上、その存在価値はあると思います。しかし、塾に通わずとも、自己管理が出来、自学自習の習慣を身につけることが出来た子供はどれほど幸せか、そのことを思うと、安易に塾に賛成できなくなります。(実はこれが家庭の教育力なのですね)

 (生徒諸君へ)

勉学の基本の場所はなんといっても教室です。そこでの授業が基本となります。応用は問題演習や先生やクラスメイトとの討論です。発展は家庭での自主学習です。これらのどれが欠けても、勉学は中途半端なものになってしまいます。生徒諸君も一つこのことをよく考え、自分の能力を最終的に最大限に伸ばしてくれるものは「自分である」ということを肝に銘じておいてください。

 そのための具体的な実行項目として

(1)分からないところはその日のうちに解決する。

(2)復習は、疲れていてもその日のうちにやりとげる。

(3)クラスの仲間と進んで勉強しあう。

(4)テスト前一週間は、堂々と「ガリ勉」になる。

(5)塾に行っている生徒は、塾から帰っても安心せず、(2)のことをする


シリーズ「自治」

 1 「自治」ということ 自治の大切さ

「自治」とは、自分たちの間に起こってくる問題を自分たちで解決し自分たちの生活をよりよくすると言うことです。

 生徒集団が自治的であればどういうことがいえるでしょう。

 たとえば「授業を真剣に受けよう」ということに対し、自治的な集団であればその日によって調子のいい人、悪い人、中にはむしゃくしゃしている人がいるかもしれません。そういういろいろな気持ちを持った人が「よしがんばろう」とお互いに励まし合って、集中して授業を受ける雰囲気が生まれます。そういうところを見て、仲間や先生は「言うことも言うが、やることもしっかりやるな」という実績がつくられていきます。それが信頼につながります。

『実績→信頼→自治→実績→信頼→・・・ 』というすばらしい循環が生まれます。

では、自治的でない場合はどういうことがいえるでしょう。

 A君がむしゃくしゃしていて私語をする。誰も理由を聞いてあげられない。注意もできない。つられて私語をする。クラスがザワつく。先生が怒る。生徒も先生も頭にくる。先生の抑えつけがはじまる。

『非行や荒れ→不信と抑えつけ→自治の崩壊→非行や荒れ→不信と抑えつけ→』という悪循環が生まれ、生徒一人一人の持っている力を育てることができなくなってしまいます。

 自治的であるかないかで、集団はこうも違ってくるのです。


2 自治のない集団

 自治の大切さは前に述べましたが、自治のない集団ではどういうことが起きるか考えてみましょう。

 自分たちで自分たちを治める力がなく、常識はずれの行動をとる生徒が増えてくると、先生たちによる「規則と抑えつけ」が多くなります。その規則や抑えつけに反発して「規則はもともと自分たちのためにある」ということを忘れ、ますます荒れてきます。
 こんな状態の中では、力の強い生徒が弱い生徒をいじめることが当たり前になります。それでは、力の強い生徒は幸せかというとそうではありません。いつでも心が満たされないままで、人をいじめることで自分の気晴らしをしているにすぎないのです。一方、力の弱い人たちは団結してこれを直そうとする「民主的な」訓練も受けていませんし、経験もありませんから、ビシビシやって「強い生徒」をやっつけてくれない先生に恨みを抱いてしまいます。

 自治のない集団はこのようにして、自分たちからどんどん暮らしにくい社会を作っていくのです。本当に悲しむべきことです。

 さて、何のために「自治」を大切にするのかといえば、一つは、今までに述べてきてような平和で学びやすい学校、学級を作っていくためにと、もう一つは、生徒たちが大人になってこの実社会を担うようになったとき、本当に民主的で、社会の片隅で泣いている人が一人もいないように、一人一人がきちんと民主主義の基本を身につけておくためです。


3 民主主義の基本 「教育基本法」

 民主主義の基本を身につけておくことは「教育基本法」という教育にとって一番大切な法律にも書いてあります。大切な法律ですからここにのせます。

 教育基本法 第1条 (教育の目的)

 『教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。』

 平和を愛すること。真理と正義を愛すること。ひとりひとりの人間が、かけがえのない値打ちを持っていることを知ること。勤労を大切にすること。責任ある行動のできる人間に育つこと。人に指図されなくても自分たちで自分たちのことをきちんとできること。・・・そんな人に君たちが育っていくようにとの願いはがこの法律には書かれています。
 この法律は君たちにとっては当たり前のことが書かれているようにみえると思います。しかし、実は、この法律のもとになっている「日本国憲法」は、日本が無謀な戦争に敗れた末にできたのです。その戦争で、日本人約300万人、中国をはじめ、アジアや太平洋の地域の人々約2000万人の命が失われました。その人々の尊い命の結晶のようにして「日本国憲法」は誕生したのです。
 日本人は、憲法の中で、二度と戦争の過ちを犯さないことを誓うとともに、民主的な国民になっていくことを誓ったのです。自分たちの頭で考え、自分たちの歩む方向は、自分たちで決められるような国民になろうと誓い合ったのです。

 そのためには、「自主性」と同時に「勤労の喜び」や「仕事に責任を持つ」ことが欠かせません。


4  みんなに知っておいほしいこと

 「自治」や「自主」というのは、そのことを「やるか、やらないかも含めて自分たちで決めることができる」ということです。それと「真理や正義を愛する」とは、どんな場合でも、人の話を謙虚によく聞いて、「道理」つまり「理屈にあっていること」には素直に従うということです。なにが何でも自分たちの気に入ることはやるが、気に入らないことはやらない、というのが「自治」や「自主」だとかんちがいしたら、そこから「自治」は崩れていくでしょう。
 みなさんには、先生(大人)の「お気に入り」になれといっているのではありません。先生と意見が食い違うことがあるかもしれませんし、それは当たり前のことでもあります。ただ、道理はどちらにあるのかを、一番大切にしてほしいのです。

 先生たちが絶対に間違わないとは言いません。先生たちも真理と道理の前では謙虚でありたいと思います。

 お互いが「真理」と「道理」から生まれる、「心からの納得」を大切にしていくことが、ホンモノの信頼関係を築き上げていくことになるのですから。