昔から「何もそこまで」と思うほど飲む人はいた。中でも、慶安元年(1648年)の「川崎大師河原の酒合戦」は現代人などが
泣いて断るような底無したちが東軍と西軍の分かれて飲酒量を競った歴史的な戦いだった。(軍記まで残っている)。その時の参加者たちは、それぞれユニークな別名を持っていて、東軍が大将の樽次(たるじ)以下、鉢呑(はちどん)、
忠酔(ちゅうすい)飯嫌(めしぎらい)、呑勝(のみかつ)、など16名。
西軍は大将が、大蛇丸底深(おろちまるそこふか)を筆頭に、湛呑(たんどん)、吐次(はきつぐ)、早呑(はやのみ)ほか14名。
大将の底深の長男、底成(そこなり)はなんと当時11歳で参加している。
ある日、底深一門の一人が町で樽次に会い、血を吐くまで飲んで倒れ、戸板に乗せられて帰ってきたのがことの発端。
西軍は仇を討つべく刺客を送るが、これまた命からがら帰ってきた。今度こそはと勇将、常広を送り込むが東軍も先鋒の
樽明が受けて立ち大師河原での一騎討ちとなった。
ここでも東軍は勝利をおさめ、その勢いで底深邸へ討ち入り。待ち受けていた西軍は湛呑たちがわたりあい、勝負は五分五分の大接戦。
ついに底深と樽次の大杯での大将戦にもつれこみ、壮絶な飲み比べの末、ついに樽次の東軍が勝ちをおさめた。
途中で大将を守るべく進み出た東軍の醒安などは、しばらく底深と戦うものの力尽き、
「われ死なば 酒屋の庭の桶の下 われてしずくのもりやせんもし」と詠んで寝込んでしまったというから、まさに命がけの戦いである。
さぞや筋骨隆々の野性味あふれる男たちが・・・と思いきや、メンバーはいずれも豪家や名主や医者など、ハイソな人々だったのはなんとも意外だ。
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