祇園閣(登録有形文化財)
龍池山大雲院・伊東忠太設計の祗園閣公開記念



 大倉財閥の総帥、大倉喜八郎が伊藤忠太に設計を依頼して建てたもので、完成は1927年(昭和2年)。高さ約34mの3階建で、下層及び基礎の部分を鉄筋コンクリート造、中層以上を鉄骨鉄筋コンクリート造とする。外観は祇園の山鉾をかたどっており、内部のライトを支える怪物状の装飾など設計者の趣味が遺憾なく発揮された建物である。そして祇園閣の通路・階段壁面には、中国・敦煌莫高窟の壁画が模写されている。
 所在地は京都市東山区祇園町南側、非公開寺院、大雲院内。平成18年11月22日〜12月6日迄、展望階と内部が5年振りに公開されました。2006年12月12日



12月6日(水)晴天、12月としては暖かい。祇園閣、眺望階より八坂の塔を望む。




伊東忠太

 [伊東忠太 略歴]
 1867年(慶応3年)、山形県米沢市の名医の家系に生まれた。現在の東大工学部建築学科を1892年に卒業。
当時、「造家学」と呼ばれていた呼称を、「建築学」に変更する。平安神宮や明治神宮といった国家規模のプロジェクトを手がけて芸術院会員となり、1943年には建築界から初めての文化勲章受賞者となった。
1954年(昭和29年)没、享年86歳。


妖怪ではなく可愛い狛犬(左右一対)。12月6日でも、モミジは真っ赤に紅葉。


展望階のライトを支える怪物状の装飾
照明器具としては発想がユニーク画期
的なもので、素晴らしい。
 伊東忠太の独特の妖怪ブラケット照明。
左記の写真は、震災記念堂(1930年竣工)ブラケット照明、此処の怪物は、祗園閣の
グローブを下から支えるようなデザインとは違って、人字型束を食い破るように壁から突き出し、グローブを支える。
 グローブを持つのはガーゴイルですが、
ゴシック建築の模倣と云うわけでなく、我国における近代建築の異質な表現は、大谷光瑞との親交のなかでシルクロードの探索(中国で最初に出会う)に係わって、又イスラム圏に自費で旅をしてエキゾチックな感性を養い、その感性は国内の現存する忠太の作品(築地西本願寺別院等)に多く見られます。
 伊藤忠太が独力でアジア横断旅行の途中で、中国の貴州から雲南に入るあたりで、大谷光瑞探検隊の一部と出逢ったのが縁で、
 伊東忠太が帰国したその次の年に、西本願寺を訪ねています。その時に光瑞は中国の大連に予定していた大連別院の設計を、伊藤忠太に依頼し、1907年に計画されましたが、実現しませんでした。詳しくは建築家伊東忠太の世界観をご覧下さい

管理人所見
 内部の化け物は撮影禁止の為、最上階の外部より撮影する。
ライトを支える化け物の照明器具が最上階の階段室踊り場を照らしています「右上」。その階段室には、昭和62年の修復で中の壁に敦厚の壁画が模写されました。
その壁画が中の風景を、怪獣が支える乳白のガラスグローブが怪しく照らしている。当時としては(壁画が模写されてなかった頃)特に夜半には、本物のお化けの棲む塔の不気味な雰囲気が感じられたことでしょう。
祇園閣の通路・階段壁面には、中国・敦煌莫高窟の壁画が模写されている。此処「下記」で掲載する資料は、管理人が「2006・12・6」見学した模写のイメージングです。
写真撮影の著作権は管理人に記す。 2006(平成18年12月16)


 敦煌莫高窟の272窟坐仏。この窟は莫
高窟の中で最初期のものといわれる。
右記の写真は、敦煌莫高窟の285窟西龕
の飛天図。敦煌は河西回路に拓かれた
4群の中で西端の町。
 このような壁画の模写が祗園閣の入り口
より展望階の出口まで描かれている。
井上靖の小説や映画などによって、日本でも広く知られるようになった敦煌だが、
その最大の見どころは何といっても莫高窟(ばつこうくつ)である。洛陽の龍門石窟、大同の雲岡石窟とともに中国3大石窟に数えられる莫高窟は、366年に楽そん、という僧によって開削されたとされている。石窟の数は約500。うち40窟が公開されている。
窟内に残された壁画や塑像は、現存する仏教美術における最良のものといわれる。
シルクロードの旅(講談社)より抜粋

文責:明治の建築家ののこしたもの・三代吉記念館、管理人
本記録の無断転載は禁じます。2006・12・16

ここに掲載している論文、は個人的にプリントアウトするなどの場合を除き、
著作権法上、権利者に無断での複製、配布、ホームページ
其の他の書籍等に掲載は禁じます。管理人