略 伝「沖野忠雄・識」
山口博士建築図集U




從五位工学博士山口半六君略伝「沖野忠雄・識」


沖野忠雄
1854〜1921
 山口半六の略伝を書いている沖野忠雄氏の人物像
彼は1854年(安政元年)に豊岡藩士の子として生まれる。
フランス、巴里(パリ)のエコール・サントラール(府工業中央専門学校「中央工科大学」)で土木建築を学ぶ。
1883年(明治16年)内務省土木局に入局。以後河川と港湾の工事に心血を注いだ。我国治水・港湾の始祖といわれる。
巴里(パリ)のエコール・サントラールには、古市公威(ふるいち、きみたけ)・沖野忠雄。そして山口半六と3人で留学する。

山口半六の軌跡
 君(半六)は雲洲松江の藩士山口軍兵衛氏の次男として1858年(安政5年)8月23日に生まれる。10歳にして父を失い、以後母によって養育される。
明治2年藩廟に於いて、フランス人某等を招聘して仏蘭西(フランス)学校を開設した。
君(半六)は官命を以って勉学に励む。明治3年、半六13歳の時東京に出る。
翌明治4年大学南校に入学する。半六は勉学に励み、メキメキ頭角を現し秀才と呼ばれ同窓の畏敬するところとなる。
明治8年、文部省本校の優等生数名を撰抜して海外留学を命ず。翌、明治9年亦推薦される。そしてフランスに赴き巴里(パリ)府工業中央専門学校
(エコール・サントラール大学)に入学し3年の後、諸芸技師専門建築士
・Ingenieur des Arts et Manufactures, Specialite de Constructeur・の学位を受ける。それから後も君(半六)は巴里府に留まること2年、其の間実地に建築の事業を練習し又工業中央専門学校の教授ミユーレル氏の煉瓦製造所に入り親しく煉瓦及び其の他の建築用土器製造の技術を習得する。
明治14年海外留学を終えて、帰朝し翌明治15年1月郵便汽船三菱会社の招きに応じ専ら建築工事の施設に従事し大いに君(半六)が実地の技術を研鑽すること実に2年間、大阪及び函館に於ける、日本郵船株式会社の支店及び其の附属倉庫橋梁等は君(半六)が当年建築するところなり。

 明治18年4月、君(半六)は文部省に入局し文部省書記官に任ぜられる。其の後更に文部省技師に任ぜられ、東京帝国大学の工科及び理科科学教室の造営にあたる。其の他直轄諸学校の改築増設等、君(半六)の建築に係わるもの少なからず、且つ高等中学校の一時に増設されるに当たり、君(半六)又良く建築事務所を管理して献策するところ甚だ多く、君(半六)は会計局建築掛長に任命され文部省所菅の諸建築を統督して其の事務大いに挙がる。しかしながら、流行性感冒に罹り、病幸に蝕まれる。君(半六)の健康是より思うように回復せず、医師の勧告により静養することになる。そして退官することを決意する。明治25年2月非職を命じられ、以来須磨舞子等の暖地で静養すること2年。病は完治せず遂に慢性の肺結核となる。
君(半六)は病が全治の望みなきを悟り、淡々と余命を送ることを欲せず、明治27年の頃憤然と意を決し、再び起きて技術のために貢献することを決意する。
同じ頃大阪に桑原工業事務所なるものが起こり、技術専門の士を集合した。その工業会社の顧問となり、大いに技術の改良進歩を図り、且つ技術家独立営業の端緒を開かんと欲するところを知り、君(半六)はその主意に賛同して建築部を担当する。
その間実に五星霜君身体を厭わず仕事にまい進する。
要望に応えて、兵庫県庁を初めとして、銀行諸会社の本支店及び諸種の製造所等
君(半六)が計画監督する所の建築多くあり、近来阪神地方に於いて結構良好の建築を見ることがあれば、君(半六)がその模範を作ったといっても過言ではない。

 君(半六)は又市街路の設計に関する研究を行い且つ、その技術に精通する。
明治30年大阪に於いて其の境域拡張を議決するや大阪市参事会は即ち君(半六)に託する。新編入地に於ける新設市街の設計を以って、君(半六)為に心身を委ねること年余熱心最も勤める。計画の内容はひとり街路の配置及び之に関する諸件に止まらず、大小公園の位置堀割の新設、浜地の利用、町名番地の設定方に到るまで詳細こ規定して洩らさず、蓋し是、君(半六)が畢生の大計画であった。
 明治33年長崎市の街路改正の講あり、長崎市長は之の設計を君(半六)に託す。
君(半六)は喜び之を受託して、明治33年8月初旬病魔を偸みて旅装を整え夫人と共に長崎に赴き仔細に市街地の敷地を踏査し滞在数日で用務を終って海路に由って帰る。たまたま二、三人の智友の同乗するあり君(半六)は之と快談する。時のたつのも省みず、あにはからんや帰神(神戸)の翌朝即ち8月23日、褥を出て忽然呼吸切迫の状あり、家人驚愕して急に医師を招く、然れども其の診察を受けることなく溘焉逝去す。享年43歳。

 君(半六)明治24年8月を以って工学博士の学位を授けられ、明治28年3月特旨を以って従五位に叙せられる。又震災予防調査会委員第4回内国博覧会審査官たり。
 君(半六)は山田氏を娶り、一男一女を擧く、男為一12歳、女禮子9歳、令兄宗義君は現今日本銀行の理事である。令弟鋭之助君は理学博士にて京都大学の教授である。山田氏(婦人)の名前は須美子貞淑又巧みに家政を理め君(半六)をして病の身を以って久しく重任に耐へしむ夫人内助の力もまた大きなものである。
 君(半六)の実業に従事する明治15年以降20年間の其の半分は病苦の間に経過する。そして君(半六)の事業を顧みれば、官廟、銀行、学校、諸会社、各種製造所、住家等諸種の建築に渉って其の数は膨大である。
長寿者一生の事業も之に対しては尚遜色あり。況や君(半六)は最終の事業である
大阪市街設計の如きは、君(半六)が遠大な思想を包含するものにして又我国の古今を通じて無二の大計画であった。嗚呼、君(半六)の重患と相戦ひ尚如此昭昭たる
事蹟を後世に遺す。君(半六)の如きは技術(建築)界の一偉人と云うべきである。
 君(半六)の特技は、経済を主する建築に在っては以って簡素に。荘厳なる装飾に富むものに就いては曾て豪壮に。其の技術倆を試す、然れとも君(半六)の圖を案する、深く意匠を凝す所あるを以って、其の最も質素なる建築にありても、尚高尚優美大いに趣味に富む、其の現場にありて設計管理をするや深切周密、到らさるなく最も用材の選択に巧みなり。是、君(半六)の特徴にして大いに世上の信用を得たる所以なり。
 君(半六)に質素勤勉の風を尊び、万事に整然たる規律あるを好む。
其の人と対話する多言を贅す、然し時に臨み興に乗れば即ち諄々倦ます該博の識言外に溢れ聞くものをして厭からしむ、また文学の書を愛読し哲理及び美術に関する諸論をめり。君(半六)是等の嗜好に由り大いに其の気を培い、其の神を養う所ありしを以って能く、重患の身を以って孜々実務に従事するを得たるや、疑を容す天若くし假すに壽を以ってせは世を盒すること蓋し尠少ならさりしならん豈に悲しからずや。
 沖野忠雄・識      
あとがき
 管理人は山口半六の軌跡に就いて山口博士建築図集の中で一応紹介しています。
しかし今回「山口博士建築図集U」では未公開資料も含め全て公開していく所存です。沖野忠雄・識では後世の建築家、評論家、学者等ではなく、同時代に外国(フランス・巴里)に留学し、下宿でおなじ釜の飯を食べ、励ましあい、異国の空で夢を語り合う。帰国してからも互いに建築と土木の世界で後世に名を残した2人の友情が、若くして逝去した天才建築家山口半六の死後、図集が出版される、その巻頭にて半六の軌跡を暖かい言葉でもって沖野忠雄氏が識として紹介しています。
管理人は少し難しい漢字や表現を当時のままに書き写しました。その内容の雰囲気を感じ取ってください。

 巻頭でも紹介していますが、フランス、巴里(パリ)のエコール・サントラール(府工業中央専門学校「中央工科大学」)で同門の古市公威(ふるいち、きみたけ)氏並びに
・沖野忠雄、両氏を紹介します。
 古市公威は巴里のエコール・サントラール(中央工科大学)を欧州の秀才に伍して優秀なる成績で卒業し、内務省技官、帝国大学工科大学学長、逓信省総務長官兼官房長、などを経て男爵に叙爵されるという華麗なる出世を遂げる。古市は明治15年から明治18年まで新潟で信濃川の治水工事にかかわった。・・・・
 沖野忠雄は、30歳から68歳まで内務省にあって、河川と港湾の工事に心血を注いだ。沖野の伝記作家真田秀吉は、沖野忠雄を「我国治水、港湾の始祖であって、其の発達の指導者あった。又工事の機械化の元祖でもある」と書いている。・・・以上

追記
 平成15年10月21日に兵庫県公館、大会議場に於いて「明治、大正の建築家たち
山口半六の軌跡を踏まえ・というテーマで、東大教授藤森照信氏が講演しました。
(歴史的建築物シンポジウムhttp://web.pref.hyogo.jp/tosisei/shinpo/shinpo.htm)
この中で山口半六の人物像が詳しく語られています。20060127

文責:明治の建築家ののこしたもの・三代吉記念館、管理人
本記録の無断転載は禁じます。2005・12・03

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