■へ〜そうなんやH (クリスチャン新聞より転載)

次郎長の子分の回心

 清水の次郎長のこ分は大政、小政、森の石松だけではない。

その弟分にあたる子分に常世川(とせがわ)という狭客がいた。

幕末の時代、駿河(静岡県)一体を取り仕切る親分として名を馳せた次郎長も、

明治の代になると渡世人から足を洗い、

当時の子分達も多くはそれぞれの故郷へ帰った。

滋賀県大津市出身の常世川もそんな子分の一人だった。

 大津には当時、すでに組合教会が伝道をしていた。

常世川こと西村由之助がどのような経過で教会にたどり着いたかはさだかではないが、

ある日の伝道集会でキリストの十字架が

自分の罪の救いのためであったことを知った由之助は

おいおい泣きながら講壇の前に進み出たという。

この物語を、由之助の長男にあたる故・西村関一衆議院から聞いた。

「おやじは、渡世人のとき、組同士の抗争を収める仲介人になったことがあった。

理屈が通じる世界じゃない。

持っていたドスを自分の股に付き立て、

この傷に免じて、抗争をやめるように嘆願したそうです」。

 その自分が身をもって仲裁に入った体験があったから、

十字架の意味が身にしみるほど分かったのでは、という。

任侠道に生きた父親の思い出をそう語ってくれた西村関一氏であったが、

自らは父親のその信仰を受け継ぎ牧師となった。

大津市の堅田教会を開拓、後に政界にも進出、社会党代議士として、

牧師をしながら国会議員としての任務をも遂行したのである。