■へ〜そうなんやD (クリスチャン新聞より転載)
勝海舟とクラーク |
クラークといっても、あの「青年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士ではない。 1871年、静岡学校で英語教師が必要になった時、 友人のグリフィスに頼まれてアメリカから来日したのが、 教育者で信徒のE・W・クラークだった。 ちなみにグリフィスに要請の声をかけたのはあの勝海舟だった ★クラークは、契約書の中にキリスト教宣教を禁じる一項があったが、 日曜日には自宅に学生を招きバイブルクラスを開いた。 その宣教への情熱は4年後に一旦、アメリカに帰った後も消えることなく、 神学校に学び牧師の資格を得、1894年には宣教師として再来日する ★そのクラークが終生、注目してきた日本人がいた。 それが勝海舟である。 幕末明治の政治家として開国日本におけるその影響は計り知れないものがあるが、 勝海舟自身、キリスト教の宣教師から多くの人格的影響を受けていたと言われる ★宣教師クラークとの交友も影響の一つと言われるが、 クラークが勝に幕府興亡の由来を正したことが 「幕府始末」執筆の端緒となったと言われている。 「キリスト者ではなかったが、 彼以上にナザレ人イエスの人格を備えた人物を見たことがない」とは、 身近でクラークが見た勝海舟評である ★勝海舟は1871年、「耶蘇教黙許意見」を発表、 信教自由論をいち早く提唱、 東京の自邸を耶蘇教講義所として開放、 息子梅太郎の嫁にクリスチャンのクララ・ホイットニーを迎えた。 |