■へ〜そうなんやS (クリスチャン新聞より転載)

仏教の都にキリスト教学校

 江戸で佐久間象山や勝海舟に学び、

洋学所を開いて諸藩士を教授した会津藩出身の

山本覚馬の生涯は、波瀾万丈である。

若くして失明、更に脊髄損傷で歩行の自由も奪われながら、

明治新政府になってからは、

京都府顧問の要職について活躍した。

 1875年4月、その京都時代にアメリカ宣教師と出会い

「天道遡原」という伝道文書を贈られた。

その内容がどれ程衝撃的だったか、

後に覚馬はくわしく書いているが、

長年法律の研究をしその限界をさとった者として、

「人の心を変えることができるキリスト教は、

これこそ自分が長い間求めていたものである」と

その感動を記している。

 仏教の都・京都でキリスト教主義に

同志社が不思議にも認可された裏には、

この覚馬のキリスト教への理解があった。

「天道遡原」に出会ったその年の8月、

新島襄が提案した京都の学校設立計画に共鳴した覚馬は、

自らが所有していた旧薩摩藩跡地を

学校の敷地として提供した。

 時の京都府顧問の口利きである。

また時の京都府町の理解も得られ、

新島と連名で出した私学開業願いはすんなりと通過し、

11月 には仏教の都にキリスト教主義学校が誕生した。

以後、同志社の運営にも協力、

新島の死後は臨時総長にもなるが、

求道者生活は長く、

妻時枝と共に宣教師グループから洗礼を受けたのは

同志社創立10年目のことだった。