ひんやりとした秋気が心地よい季節となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。
今月もホザナ通信をお読み下さってありがとうございます。
さて、今月も「お父さん出番ですよ」です。
昔、怖いものの代表として、地震・雷・火事・親父が挙げられました。
このように、お父さんというのは、ある種「怖い」存在であるはずです。
ところが、最近、私も含めそうでなくなってきたように思います。
子供というのは、時に私達の思い通りに動いてはくれないものです。
後片付けをしない。怠けて0点を取って来た。いつまでも夜ふかしをする。
汚い言葉を使う。弟を叩いて泣かす。おもちゃ売り場の前で「買って〜」とバタバタする。
ありがとうを言わない。門限を守らない。
こういう時、お父さんは子供達を叱ります。そして、望ましい行動を教えなければなりません。
聖書にはこんな言葉があります。「むちを控える者はその子を憎む者である」(箴言13章24節)。
意外に聖書の子育て論は厳しいのです。
『…それならしょっちゅうやってるよ。がみがみとね。
でも、子供たちは言うことを聞かないんだ。お互い気分が悪くなるばっかりで…』。
う〜ん、どことも同じですね、お父さん!
でも、ちょっと待って下さい。本当に私達は「叱って」いるのでしょうか。
もしかしたら、単に怒りを子供にぶつけているだけで、
「愛のムチだ」なんて合理化しているんじゃないでしょうか?
「叱る」と「怒る」とでは大違いです。ダイヤとタイヤくらい違うのです。
「叱る」は意志的、「怒る」は感情的です。
トマス・ゴードン博士は、怒りは二次的感情だと説明しています。
何か別の感情がまず起こって、その結果として怒りが生じるということです。
たとえば、子どもが人前でモジモジして、大きな声で挨拶しなかったとしましょう。
その時、お父さんは「俺のしつけが疑われるかもしれない」と感じるかもしれません。
お父さんの一次的感情は恥ずかしさです。
そして、自分を恥ずかしくさせた子どもを罰するために怒りをぶつけるのです。
また、子どもがデパートでサーッと一人で駆け出し、迷子になってしまったとしましょう。
この時の感情(一次的感情)は、あの子の身に何かとんでもないことが起こらないだろうか
という不安です。
で、無事に子どもが発見された時、怒りが出てきます。
「一人で駆け出したりしたらだめじゃないか!」と怒ることにより、
自分を不安にさせた子どもを罰しているわけです。
しかし、こういう場合、
子どもには「元気にはきはき挨拶するものだ」とか
「デパートで一人で駆け出してはいけない」という表のメッセージではなく、
「お前はダメな奴だ」という裏のメッセージしか伝わらないようです。
ならば、いくら怒っても、ちっとも子どもの行動は変わらないで、
ただ不愉快になるばかりだとしても不思議ではありません。
ではどうすればいいのかというと、
まずは一次的感情に気が付くことです。
もしかしたら、「子どもの挨拶の問題で、
自分が恥ずかしく思うのも変かなあ」と感じて、
怒りの原因である一次的感情そのものが解消するかもしれません。
そして、一次的感情が妥当なものであるならば、それをストレートに口にしてみるのです。
「お父さんは、お前が見つからないんじゃないかって心配したよ」って。
しかも、「でも、見つかってホッとした」と肯定的な感情も付け加えれば100点です。
ここで叱り方の勘所を紹介しましょう。
@ほめてから叱ること。
大概短所を裏返すとその人の長所ですから、それを認め、ほめてから物を言うことです。
Aくどくど言わないこと。
あっさりと迫力を持ってピシリと言うことです。
B感情的にならず、論理的によくまとめて、明快に指導すること。
C人と比べたり、前の失敗を持ち出さないこと。
D私=裁判官、あなた=被告人、という関係ではなく、
あるべき姿の前に、同じ場所から共に立つという姿勢が最も有効な忠告の仕方です。
私が子供を叱る場合、先ず子供と1対1になって叱るように心がけでいます。
怖い顔をして、目と目を合わせ、低い声で注意をしてから、歯を食いしばらせてバシッと叩きます。
叩いた後は、一緒にお祈りしたり、ギュッと抱きしめたりします。
叱った後、親の愛を子供に伝えてあげることがポイントです。
子供は神様からの預かりもの。
私達親は神様に信頼されて、子育てを任されています。
暖かい愛と厳しい愛で子供達を育てていきたいものです。
お父さん、怒りのムチではなく、
本当の意味での愛のムチをふるえる「怖いけど優しいお父さん」を目指しましょう。
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