風薫るさわやかな季節となりました。
ホザナ通信をお読みのお父さん、お母さん、お元気ですね。
1ヶ月遅れですがホザナ通信4月号をお届けできますことを嬉しく思います。
今月も「お父さん、出番ですよ」で豊かな人生についてご一緒に考えましょう。
数ヶ月前、上方落語の重鎮、露の五郎がクリスチャンになった!
というニュースが飛び込んできました。
私は小さい頃、新喜劇は勿論落語も好きで、
落語のテレビ番組やカセットテープなどを聞いていたものですから、
そのニュースに驚きました。
古典伝統芸能というキリスト教とは縁のない世界で生きてきた人物が、
どのような繋がりでクリスチャンになったんだろうかと興味津々になりました。
実は、彼の娘さんがクリスチャンとなり、
しかも牧師の奥さんにまでなっていたというのです。
不思議なことが起こるものだと感心しました。
しばらくして、露の五郎さんがクリスチャンになった
経緯を含めた自叙伝が出版されました。
「五郎は生涯未完成―芸と病気とイエスさま」です。早速読みました。
その中で、露の五郎さんが教会に通い始めた頃の印象をこう記しています。
おもしろいことに、教会というところは、私を「明田川さん(本名)」と呼ぶのであった。
若い頃、芸人ではなく一人の明田川一郎の世界が欲しくて、
勤労青年のサークルに入ったりしたものだが、
そこでも結局は芸名桂春坊、小春団治の明田川一郎であった。
私には、本当に芸の世界しかなかったのである。
経験がないから、自分でも、明田川一郎の世界がどんなものか分からなかった。
「明田川一郎として生きるて、どんなんかな」と、
私はへんに第三者的な気持ちで興味があった。
後に信仰をもって、私はやっとその世界を知ることができたと思う。
素のままの何の肩書きもない明田川一郎は、本来の陰気くさい人間である。
「明田川兄弟」などと呼ばれるクリスチャンの世界では、私は芸人の顔しなくてすむ。
むっつりしていても「まあ、露の五郎て、
普段は感じの悪い人なんやわ」と、いう人もいない。
非常に精神的に楽になった。
早樹も、教会に行くようになった頃、同じことを感じたらしい。
それまでは、常に露の五郎の娘、双子の片割れ、であった。
教会が明田川早樹個人として受け入れてくれたとき、
早樹は初めて、五郎の娘も片割れも関係のない世界を得たと思ったという。
人間は、素のままの自分の世界を持つべきなのかもしれない。
人間関係のあるところに完璧にそんな世界を持つことは不可能に近いが、
神と対峙したときのみ可能になる。
神の目にかかれば、どう飾ろうと、生まれたままの自分でいるしかない。
芸の世界で芸名のみで生きてきた露の五郎さんの、
本名で呼ばれる新鮮な気持ちが伝わってきませんか…。
競争社会で戦っているお父さん、肩書きも、ゴテゴテした修飾語もなく、
素のままの自分で生きられる世界ってスゴイと思いませんか…。
勿論、社会で生きている限り肩書きや自分をアピールする
印象深い修飾語は必要です。
でも肩書きが人生を生きているのではありません。
肩書きはいずれ取り換えられ、卒業していきますから、
そこにしがみつくと惨めなことになってしまいます。
素の自分で安心していられることが大切です。
社会で疲れたお父さん達は、
安心して素の自分になれる場所を探しているのではないでしょうか。
私は牧師です。といっても牧師・牧師していない牧師だなぁと自分でもそう思います。
それでも、私が牧師であることを誰も知らない地域に行くと、ホッとすることがあります。
どこかで緊張しているのだと痛感します。
そんな私が、真に素になれるひと時があります。
それは、ひとり、神様の前に出るときです。
役割も肩書きも何もない素のままの新谷和茂として神様の前に座ります。
そして、心のヒモを解き、「おとうちゃん…」って呼びかけ、神様に本音をいいます。
弱音を吐きます。無力さを告げます。それからどんな些細なことにも感謝をします。
すると段々と心がホコホコしてきて嬉しくなってきます。
素の自分が潤ってイキイキしてくるのです。それから肩書きを付け、いざ出陣です。
お父さん、教会で素の自分になるっていいですよ。
聖書の神様は、素のままのあなたを包み込んでくださいます。
そして素のあなたを癒やし、元気にしてくれます。
お父さん、教会でご一緒に“素”になりましょう!

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