春の訪れが待たれる今日この頃です。皆様、お元気でいらっしゃいますか?
今月から「お父さん、出番ですよ」を再開します。よろしくお付き合い下さい。
諸富祥彦氏著「カウンセラーパパの子育て論」を読みました。
いろいろと教えられるところ大でした。こんな文章がありました。
「ちなみに、長年、非行少年の相談にのってきたあるカウンセラーの経験談によると、
小さい頃、お父さんと一緒にお風呂に入っていた子供は、
仮に非行に走っても、立ち直りが早いのだそうです。
父親は、家庭の中で“社会の規範”を体現する役割を負っている人。
父親との間に基本的な信頼関係が成立していないと、
社会そのものへの信頼感を獲得しにくいのです。
一方、思春期になって反抗期を迎え、たとえ一時的に非行に走ったり、
父親に逆らったとしても、基本的な信頼関係が成立していると、
父親の存在や社会の規範の存在を受け入れるのに抵抗が少ないのかも知れません。
そう考えると、“お父さんとのお風呂”は、単なる楽しみではない、
大きな意味があるように思えます。」
成る程です。何気ない日常のふれあいが子供に大きな影響を与えるのですね。
特に、小さな子は裸ん坊になるのが好きです。開放感があるのでしょう。
親子の裸の付き合いが大切なものを育てていくんだとつくづく思いました。
お父さん達、機会ある毎に子どもとお風呂に入りましょう!
さて、この書物の最初に記されているのですが、
諸富氏は子どもを持つのが怖かったというのです。と言うのは、
彼は大学3年生、20歳のころから児童相談所のボランティアとして、
不登校の子供達や親達と関わってきて、
子育ての大変さをイヤというほど見聞してきたからでした。
諸富氏はこう振返っています。
「一人の子どもの親となり、責任を負うのが、怖かったのです。
ですから、8年前に結婚した後もしばらくは、少なくとも私のほうから、
子どもをつくりたい、と言い出すことはありませんでした。
まだまだ、自由でいたい。時間を束縛されたくない。
そして何より、一人の子どもを一人前に育てるという、
あまりに重い責任を負いたくなかったのです」。
これを読んで、かつて私が抱いた心配を思い出しました。
私は牧師であり、当然私の子どもは牧師の子どもということになります。
牧師の子どもとして生まれてくるであろう子供達は、健全に育ってくれるだろうか…、
グレたりしないだろうか…、親の面目をつぶすようなことはしないだろうか…
などと取り越し苦労をしたことがあるのです。
旧約聖書を読むと、偉大な宗教家の子供達が、
手のつけようのない不良になっている場合があるし、
現代の牧師の子どもであってもグレるケースを以外と多く聞いていたからです。
そんな諸富氏が、子どもを持つようになった時に、2つのことを思ったそうです。
@〈なるようになっていい〉と…。諸富氏は言います。
「子育てに関しては、あるラインまでは親の努力で何とかなるけれど、
その線を超えると、もう親の力が及ばないところがある。
したがって、子どもがどう育つか、問題を起こすか否かは、
“運が良ければ子は育つ”が、
“運が悪ければ育たない”そんな面がどうしてもあるようです」と。
A〈とにかく愛しまくろう〉と…。諸富氏はこう決断したそうです。
「たとえ溺愛とか甘やかしといわれても構わない。
思春期を迎えた娘から“うざったい”と言われても、構わない。
とにかく“ひたすら溢れんばかりの愛を注いでいこう”」と。
具体的には、短い時間でもいいから、子どもと楽しむことだけに徹する時間を持ち、
人生を楽しむことを教えるというのです。
人間にとって、幼い頃の本当に楽しかった体験、
両親との心の底から楽しかった思い出は、
生きていく力となり、いざというときに踏ん張りが効く原動力になるそうです。
これら2つポイントは私もまた思ったことでした。
更に、私にはもう一つ思ったことがあります。
それは〈子どものために神様に祈る!〉ということです。
諸富氏は、子育てというものには、親の力が及ばない領域があると、
いみじくも言っています。
正にその領域こそ、子どもをこの世に誕生せしめた
神様の領域(聖域)といっていいでしょう。
親は、自分の力の及ばない領域において、
神様がわが子に最善の訓練と保護を施して下さるように
祈ることが必要ではないでしょうか。
子どもを取り巻く社会に、悪の誘惑が蔓延し、凶悪事件が頻発する昨今です。
成長し続ける子供達は、確実に親から離れ、社会の中に入っていきます。
お父さん、わが子のために神様にお祈りしましょう。
キリスト教の歴史の中で生み出された
《祈りの子は滅びない》という有名な言葉があります。
この言葉は真実です。神様から子どもを託された父親として、
神様の前にへりくだって真剣に祈る者となろうではありませんか。

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