2009年3月号
☆ 心の無駄遣い☆ |
![]() 小鳥のさえずりも晴れやかな季節となりました。皆様お元気ですね。 さて、いよいよ新しい学年がスタートしましたね。我が家の次女もいよいよピカピカの一年生です。 3月末の一週間、教会の青年達14名とフィリピンの寒村(決して寒くない)に宣教キャンプに 出かけておりましたので、ホザナ通信3月号が4月に食い込んでしまいました。お許し下さい。 さて、先日私は「清々しく、やさしく、丁寧に、力強く生きる― 一隅を照らす人々を訪ねて―」(長瀬泰信著)を読みました。著者の長瀬氏は元高校の名物校長先生です。 生徒たちに生きる勇気と希望を与えたいとの熱い願いから、各界の一線で活躍している人々を訪ねて取材し、 その人生訓をA4用紙裏表にまとめ、月二回全校生に配布し続けました。 長瀬氏の訪問の旅は地球3周にも及ぶそうです。 この書物は、長瀬氏が訪問した人々の中から32人を選び、この方々のレポートを編集したものです。 私はこの書物を通して、各界で活躍している人々の人生の一端に触れ、 誰しもはじめから成功していないこと、困難や失敗から学ぶことを通して豊かな人生が切り開かれること、 そしてそれぞれの人生は決して一様でなく、オンリーワンの人生であることを再確認いたしました。 またこの書物ではっきりクリスチャンであると分かる人物が4人紹介されていることに、 私は本当に嬉しく思いました。 特に「はじめに」に記されている長瀬氏の言葉に深くうなずきました。引用します。 ――― 訪ねた人々に共通していえることは、年齢に関係なく、 すべての人が夢を追いかけているということ、言いわけをしないこと、常にプラス思考で、 どんなことにも「ありがとうと感謝」の気持ちを持ち、 “心の無駄遣い”を決してしない、という生き方をされていることでした。(中略) 私は、今後の“与生”(余生ではなく、生かされていることに感謝しながらの限りある人生、 という造語です)を、必要とされる小さなかかわりの中で、自ら発信したことの責任を忘れず、 清々しく、優しく、丁寧に、力強く生きていこうと思うこのごろです。――― “心の無駄遣い”“与生”という言葉は、 私たちが豊かな人生を築き上げていくために本当に大切な言葉だと思います。 お金の無駄遣い、時間の無駄遣い、人生の無駄遣いは結局「心の無駄遣い」から 起こってくるのではないでしょうか。 与生をしっかり生きていくために、心の無駄遣いをできるだけ控えなくてはなりません。 ![]() この書物に、岩城山麓の「森のイスキア」で、食で人を癒す働きをしている佐藤初女さんのことが 紹介されています。 佐藤さんは、ご主人を亡くして途方に暮れていたときに、神父さんから「奉仕のない人生は意味がない。 奉仕には犠牲が伴う。犠牲の伴わない奉仕者は、真の奉仕ではない」と言われ、 自分にできることで「奉仕」への道を歩き始めました。 自宅を開放し、訪ねてきた人々を「おむすび」でもてなすという働きを始めたのです。 心を込めた「おむすび」に励まされた人々によって噂は広まり、佐藤さんのもとに多くの人々が訪ねてくるようになりました。 彼女はそれらの人々を「神様が会わせてくださった大切な人」として対応し、一緒に「おむすび」や手料理を食べ、 人の話に耳を傾けることによって、人々の心に勇気と希望、癒しが興ってくるというのです。 彼女はこう言っています。 「私『面倒くさい』っていうのがいちばん嫌いなんです。あるところまでは誰でもやりますが、 そこを一歩越えようという気持ちを持つことが、人の心に響くのではないかと思いますよ。 このくらいでいいだろうと思わないで、一歩、もう一歩前に進める努力をしてほしいと思うんです。 お手伝いしていただいても『面倒くさいから、このぐらいでいいんじゃない』って言われると、とても寂しく思うんですよ。」 彼女の場合、面倒くさがるという心の無駄遣いをせず、 丁寧に心を込め、手間をかけて手料理を作るからこそ、食べる人の体だけではなく、心にも栄養が届くのでしょう。 “心の無駄遣い”“与生”という言葉で、折に触れ生き方をチェックし、一回キリの人生を充実させたいですね。 「わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。 すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」 ピリピ3章13−14節 教会学校教頭 新谷和茂 |