2008年11月号

☆ 人生の北極星 ☆

  落ち葉が舞う季節となり、吹く風が身にしみるようになりました。

 ホザナ通信をお読み下さっている皆様、いかがお過ごしですか。

 早いもので今年もあと1ヶ月となりましたね。

  さて、冬になると夜の空気が澄み渡って星が一段と輝いて見えます。

 カトリック教会の小林敬三神父の著書にこんな話しが記されていました。

   

. ・・・・・・・ ひとりの人が砂漠を旅していた。

 オアシスを目指して進んでいたとき、

 方向を確かめる磁石を失ったことに気づいて、愕然とした。

 しかも、前日の激しい砂嵐のせいで人の歩いた跡も消えてしまっていた。

 やがて水筒の水もなくなり、彼は不安と恐怖に襲われた。

 立ち止まっていたのでは死んでしまう。必死で前へ進んだ。

 しかし、行けども行けども人の足跡らしきものは全くない。

 それでも彼は、なおも一生懸命に歩き、遂に、人の足跡を見つけた。

 「しめた!」と彼は叫び、小躍りして喜んだ。

 これをたどればオアシスに着くに違いない、と思ったからだ。

 足跡をたどり、さらにどんどん歩き続けると、足跡は次第に増えてきた。

 彼は、ますます「オアシスが近い」と思った。

 ところが行けども行けども、オアシスらしき影はちっとも見えてこない。

 そのうち彼はある一つの事実に気づき、ぞっとした。

 今彼がたどってきた沢山の足跡は、

 なんとみんな同じ形をし、しかもみんな同じ方向を向いていたのだ。

 そう、それは自分の足跡だったのだ。

 彼は砂漠の中で大きな円を描いて、

 長い時間かかって自分の足跡を追い続けていたのだった。

 とうとう、彼はオアシスにたどり着けずに、力尽きて死んでしまった。・・・・・・・

    
  この旅人の死の理由を一言で言えば、

 自分の方向感覚だけを頼りにしたということでしょう。

 彼は結局、同じ場所をぐるぐる回っただけで、命までも失ってしまったのです。

 もし、天にかかる不動の北極星を仰ぎ見、正しい方向をつかんでいたならば、

 このようなことにはならなかったことでしょう。

  私達の日常生活を振り返ってみたとき、

 同じようなことがしばしば起こっているのではないでしょうか。

 何か問題が起こったとき、自分の方向感覚だけに頼っていると、

 問題の周りをぐるぐる回っているだけで、結局自分を見失い、

 挙げ句の果てに命を落とす、そういうことになりかねないのです。

  自分を見失って命を落とす…。

 まさにこれこそ、キリストを見失ったこの世の中の人々のことを

 暗示しているのではないでしょうか。

 キリストは私達人間にとって北極星です。

 いつも動じず、いつも真の生き方を示す北極星です。

     
  また先日ニュースを見ていますと、

 「携帯電話依存症」と言われる症状が

 若者達の中に広がっていることを知りました。

 携帯電話がないと心が不安定になってしまい、

 ひどい場合にはウツになってしまうというのです。

 そういう若者にとって、携帯電話が他者や社会との唯一の繋がりとなり、

 それによって自分の位置を確認しているのでしょう。

 ところが携帯電話をなくてしまうと、自分の位置を確認できなくなり、

 混沌とした宇宙空間に放り出されたような迷子状態になり、

 パニックになってしまうのだろうと思います。

 携帯電話だけが自分と社会とを繋ぐ手段であることは本当に淋しい限りです。

 また、自分の位置確認の基準が、

 移ろいやすい他者や社会であることはもっと淋しいことです。

  イエス・キリストは「私は世の光である」と言われました。

 更に聖書にはこうも記されています。

 「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」
                              (ヘブル13章8節)。

 人生の北極星であるイエス・キリストとの関わりの中で生きていく時に、

 生きていく自信と確かな方向が与えられるのです。

                   教会学校教頭 新谷和茂