2008年10月号

☆ しあわせの源泉 ☆

                 

  枯れ葉が散り敷き、日増しに寒くなる折、いかがお過ごしですか。

 さて、私は「死を背負って生きる―いのちと看取りの現場から―」(柏木哲夫著)を読みました。

 “あとがき”のところで、柏木氏は、しあわせの源泉として

 「感謝と楽観主義」を取り上げていました。

 柏木氏の文章を引用します。

 
   ・・・・・・・しあわせの源泉は感謝のこころだとおもいます。

 一つの出来事に感謝できるからしあわせな心になれるのだと思います。

 客観的な「しあわせ」があるのではなく、あるのは「しあわせ感」なのです。

 ほんの小さな出来事に感謝の気持ちが湧くと、それがしあわせ感を呼び覚まします。

 良いことが起こっても、それに感謝が伴わないと、しあわせ感にはつながりません。

 「しあわせ感」を持つことができる秘訣は感謝することです。私は日常生活において、

 「感謝の訓練」が大切だと思っています。

 意識的に感謝する習慣をつけるのです。(中略)


   フランスの哲学者アランは「悲観主義は気分だが、

 楽観主義は意思である」という有名な言葉を残しています。

 悲しいことが起こった時、気分的に悲しくなり、その悲しい気分に浸ってしまい、

 事態はもっと悪くなるのではと思ってしまう…。

 典型的な悲観主義で、ある意味、自然な流れかもしれません。

 しかし、ここで意思を働かせ、起こったことは悲しいことだけれど、

 きっとこれは早期に解決し、

 もっと良い結果に結びつくと意識的に考えることが楽観主義です。

 この楽観主義に信仰の裏打ちがあれば、

 もっと良いでしょう。神学者ピールは「主にある気楽さ」という言葉を使っていますが、

 何事も信仰を持って気楽に受け止めることができれば、

 どんなに気が楽になることでしょう。・・・・・・・


             

  私達は時に、もっとしあわせになろうとする余り、

 却ってしあわせを取り逃がしていることが多いのではないでしょうか。

 何故ならもっとしあわせになろうとしすぎる余り、

 期待通りにならない事ばかりに意識が取られ、

 不足感ばかりが積もり、感謝できなくなって「しあわせ感」を失ってしまうからです。

 今の日本には、こういう傾向に陥っている人が意外と多いのではないでしょうか。

 上を目指すことは素晴らしいことですが、そこには落とし穴もあることに注意しましょう。

 落とし穴に落ちないためにも、客観的なしあわせがあるのではなく、

 主観的なしあわせ感があることを覚えて、「感謝の訓練」を実践したいものです。


   「悲観主義は気分だが、楽観主義は意思である」とは成る程です。

 人間はみな感情の動物です。

 どんなに冷静沈着な人でも感情の影響を受けない人はいないでしょう。

 感情は私達の生活に潤いを与えてくれますが、

 逆に私達の判断を狂わせる原因にもなります。

 特に落胆している時の感情はまったく当てになりません。

 否定的な感情は、正確な判断力を失わせ、的外れな、

 歪んだ物の見方しかできなくさせてしまうのです。

 私達が困った事態に直面した場合、最初に抱く感情は大抵否定的な感情でしょう。

 それが自然な流れです。

 しかし、いつまでも自分自身にその否定的な感情に浸ることを許しているならば、

 やがてどんどん悪循環に陥っていって、

 悲観主義になってしまいます。

 どこかでその流れに抗して楽観主義に切り替えることが必要です。

 この切り替えに必要な力こそが信仰です。

 聖書には次のような言葉があります。

 
  
『信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。

 なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、

 必ず信じるはずだからである。』ヘブル11章6節

 
   あなたを愛し、あなたの求めに報いてくださる神様がおられます。

 これは事実です。この事実への信仰、

 これこそが否定的な流れを肯定的な流れに切り替える力となります。

 「神様がおられるので、私は絶対大丈夫!」と宣言し、

 聖書的楽観主義にしっかり立ちましょう。

                     教会学校教頭 新谷和茂