2008年1月号

☆ 「生命」と「いのち」 ☆

      

  新年を迎え、早一ヶ月が経ちます。

 皆様、いかがお過ごしですか。

  さて、私は先日「死をおそれないで生きる―

 がんになったホスピス医の人生論ノート―」(細井順著)を読みました。

 多くのことを教えられましたが、

 第5章第2節の「死んで与えられる『いのち』」では特に教えられました。

 以下引用します。

     -----ホスピスで出会う患者さんの多くは、

 私との最初の出会いから2、3ヶ月で旅立っていく。

 医学的には死を迎えるが、

 私はその人たちは生きていると思うのである。

 ホスピスで私に感動をあたえてくれた大勢の患者さんの中から、

 何人かの方をこの本の中で紹介しているが、

 その方たちは亡くなった人たちである。

 しかし、その人たちは私の中ではまだ生き続けている。

 そして、こうして読者に伝えたことで、

 読者の心の中にもその人たちは生きることになると思うのである。

  私は「いのち」とはそういうものだと思う。

 肉体的な死は訪れるが、その人は死んではいない。

 後に遺った私たちの中で生き続けている。

 死をもって終わる「生命」と「いのち」とは別なものなのではないだろうか。

  私の外科医時代には、患者さんが亡くなっても、

 その後、貴重な教訓とか苦い経験として思い出すことがあっても、

 その人が自分のなかで生き続けているとは感じなかった。

 他方、ホスピスで看取った患者さんは、

 誰でも私の中で生きていると感じることができ、

 私自身の生きていく力になっている。

  多くの患者さんとホスピスで出会い、その人たちは亡くなっていった。

 外科では多くの場合、医師と患者という立場での出会いであったが、

 ホスピスでは人間同士の出会いである。

 その一人ひとりから、

 人間とは、生きるとは、人生とは等々多くを教わった。

 「生命」と「いのち」は別もの、

 ホスピスは私にそのことを教えてくれた。

  ホスピスは不思議なところだと思う。

 患者さんは亡くなっていくのだが、「いのち」に溢れている。

 患者さんが亡くなることを通して、

 「いのち」が遺された家族やスタッフに受け継がれていると

 思えるのである。

             

  ホスピスは明るくて、「いのち」が行き交っている場所である。

 患者さんは病んだ心から解放されることによって「いのち」を育むし、

 死にゆく人たちは後に遺される者の「いのち」を育む。

 人間は誕生により「生命」が与えられ、

 死によって「いのち」が与えられる…そんな気がする。-----

   「生命」と「いのち」は別もの…成る程です。

 細井医師の言う「いのち」を私なりに別の言葉で言い替えると、

 それは「心のこもった生き様」

 「人の心に良いものを遺していった人生」と言えるのではないでしょうか。

 聖書の中にこんな言葉が記されています。


  「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」
    ヘブル人への手紙11章4節


  また讃美歌479Aには、こんな歌詞があります。


   みかみの道を/たどりつつ
   まめにつかえし/わがともの
   世にのこしたる/愛の果(み)は
   いろもかわらで/かぐわしや

    
  死んでも「いのち」は受け継がれ、語り続けるのです。

 その「いのち」はその人が遺していった「愛の果」に他なりません。

  私の母が昨年12月25日肺ガンのため天に召されました。

 私が小学生の時、母に時々叩かれました。

 その時母はよくこう言っていたものです。

 「お母さんは、あなたが憎たらしいから叩くんやない。

 あなたが可愛いから叩くんや」って。

 母は亡くなりましたが、

 そんな母の言葉が「いのち」として私の中に生きています。

  一休和尚は

 「門松や/冥土の旅の一里塚/めでたくもあり/めでたくもなし」

 というブラックな川柳を詠みましたが、

 確かに今生きている私たちは一年ごとに死に近づいています。

 私たちは人である以上、死亡率は100%です。

 ですから、限りある人生を「生命」だけでなく

 「いのち」溢れるものにしていきたいものです。

                   教会学校教頭 新谷和茂