
新年を迎え、早一ヶ月が経ちます。
皆様、いかがお過ごしですか。
さて、私は先日「死をおそれないで生きる―
がんになったホスピス医の人生論ノート―」(細井順著)を読みました。
多くのことを教えられましたが、
第5章第2節の「死んで与えられる『いのち』」では特に教えられました。
以下引用します。
-----ホスピスで出会う患者さんの多くは、
私との最初の出会いから2、3ヶ月で旅立っていく。
医学的には死を迎えるが、
私はその人たちは生きていると思うのである。
ホスピスで私に感動をあたえてくれた大勢の患者さんの中から、
何人かの方をこの本の中で紹介しているが、
その方たちは亡くなった人たちである。
しかし、その人たちは私の中ではまだ生き続けている。
そして、こうして読者に伝えたことで、
読者の心の中にもその人たちは生きることになると思うのである。
私は「いのち」とはそういうものだと思う。
肉体的な死は訪れるが、その人は死んではいない。
後に遺った私たちの中で生き続けている。
死をもって終わる「生命」と「いのち」とは別なものなのではないだろうか。
私の外科医時代には、患者さんが亡くなっても、
その後、貴重な教訓とか苦い経験として思い出すことがあっても、
その人が自分のなかで生き続けているとは感じなかった。
他方、ホスピスで看取った患者さんは、
誰でも私の中で生きていると感じることができ、
私自身の生きていく力になっている。
多くの患者さんとホスピスで出会い、その人たちは亡くなっていった。
外科では多くの場合、医師と患者という立場での出会いであったが、
ホスピスでは人間同士の出会いである。
その一人ひとりから、
人間とは、生きるとは、人生とは等々多くを教わった。
「生命」と「いのち」は別もの、
ホスピスは私にそのことを教えてくれた。
ホスピスは不思議なところだと思う。
患者さんは亡くなっていくのだが、「いのち」に溢れている。
患者さんが亡くなることを通して、
「いのち」が遺された家族やスタッフに受け継がれていると
思えるのである。

ホスピスは明るくて、「いのち」が行き交っている場所である。
患者さんは病んだ心から解放されることによって「いのち」を育むし、
死にゆく人たちは後に遺される者の「いのち」を育む。
人間は誕生により「生命」が与えられ、
死によって「いのち」が与えられる…そんな気がする。-----
「生命」と「いのち」は別もの…成る程です。
細井医師の言う「いのち」を私なりに別の言葉で言い替えると、
それは「心のこもった生き様」
「人の心に良いものを遺していった人生」と言えるのではないでしょうか。
聖書の中にこんな言葉が記されています。
「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」
ヘブル人への手紙11章4節
また讃美歌479Aには、こんな歌詞があります。
みかみの道を/たどりつつ
まめにつかえし/わがともの
世にのこしたる/愛の果(み)は
いろもかわらで/かぐわしや
死んでも「いのち」は受け継がれ、語り続けるのです。
その「いのち」はその人が遺していった「愛の果」に他なりません。
私の母が昨年12月25日肺ガンのため天に召されました。
私が小学生の時、母に時々叩かれました。
その時母はよくこう言っていたものです。
「お母さんは、あなたが憎たらしいから叩くんやない。
あなたが可愛いから叩くんや」って。
母は亡くなりましたが、
そんな母の言葉が「いのち」として私の中に生きています。
一休和尚は
「門松や/冥土の旅の一里塚/めでたくもあり/めでたくもなし」
というブラックな川柳を詠みましたが、
確かに今生きている私たちは一年ごとに死に近づいています。
私たちは人である以上、死亡率は100%です。
ですから、限りある人生を「生命」だけでなく
「いのち」溢れるものにしていきたいものです。
教会学校教頭 新谷和茂

|