2006年5月号

☆ 永遠の犠牲者から永遠の勝利者へ ☆
       

  いよいよ田植えの季節となりました。

 皆様、お元気ですか?

 ホザナ通信5月号の発行がおくれてしまい申し訳ございません。

 今月もご一緒にいい人生を生きる秘訣を共に考えたいと思います。

  ドニー・マクラーキンはこの10年来、

 グラミー賞を受賞するなど、

 一流のゴスペルシンガーとして活躍しています。

 実は、彼には同性愛者だったという経歴があります。

 ドニーがわずか8歳の時に、

 伯父と従兄弟から性的虐待を受けたことによって、

 彼は性的倒錯を起こしてしまったのです。

 幼い彼にとってこれはあまりに重い事態でした。

 9歳の時に彼は真剣にイエス・キリストを救い主として受け入れ、

 助けを求めました。

 かと言って、直ぐさま、

 同性愛が癒やされたわけではありません。

 長い間の格闘とリハビリテーションのによって、

 見事に彼は同性愛を克服し、

 牧師となり、ゴスペルシンガーとしても大活躍をしているのです。

 彼の著書「ドニー・マクラーキンストーリー・暗闇から光へ

 (原著「Eternal Victim,Eternal Victor」)には、

 彼が倒錯した性(そこから発生するセルフイメージの低さなど)と

 どのように戦い克服していったかが記されています。

 その中の一部を紹介したいと思います。

                
 
  「かつての私は、

 意志強固な人と一緒にいると、

 いつもひどく気おくれしてしまった。

 有能で堂々としている人と付き合っていると、

 決まって自分の至らなさが拡大されて見えた。

 そして気おくれはいろいろな意味で私の足かせとなった。

 …(中略)…自分の不安を打ち破るために私はあえて、

 そんな居心地の悪い環境に身を置くことにした。

 そこで私は学ぶことができ、

 そして知らなかったことを学ぶことで

 失敗への恐れに「打ち勝つ」ことができた。

 とはいっても、苦手意識のあることをパッと始めようとしたって、

 そうやすやすと運ぶものではない。

 「私は力不足」主義から脱け出そうと思ったら、

 本気でねばり強く取り組まなければならない。

 私の場合、自分が進歩しつつあり、

 自尊心が芽生えつつあることを自覚したのは

 数年も経ってからだった。

 それでも、やるだけの価値があることは間違いない。

 自分に欠けているものは進んで身につけた。

 恐れていたものには立ち向かい、

 苦しくても克服するまで取り組んだ。

 自分にはできないとか、

 身につけることなどできないとか思い込んでいたことは、

 ひたすら努力を重ねて少しずつ習得し、

 自分のために生かした。

 自分にはとうてい理解できないと思われることは、

 読書に読書を重ねて知識を得ようと努めた。

 泣き言を言ったり傷口をなめたりしている暇はない。

 行動を起こす時なんだ。」


 彼のこのような体験談は、

 同性愛に苦しむ人だけでなく、

 “引きこもり”や“ニート”とか呼ばれる若者達にとっても

 励ましとなるのではないでしょうか。

 いいえ、問題のなさそうに見える私達にとっても

 励ましになります。

 誰しも自分よりも優れた人達の中に入っていくことに

 気おくれしてしまうものです。

 場違いなところにいるという劣等感が

 自分を惨めにしてしまいます。

 しかし人間には触れるものに似ていくという

 性質があることを思い出してください。

 いくら居心地が悪くても、

 自分の人生を向上していきたいと願うならば、

 優れた人々、前向き積極的に生きている人達の

 交わりに集うことが大切なのです。

 そこで謙遜になって良いものを吸収していくのです。


  私自身も、素晴らしく活躍している牧師達の

 集いに行くことに気おくれを感じたものです。

 しかし、敢えてその場に自分を置くことによって、

 多くの励ましと成長に役立つ刺戟を得ることができました。


  最後に、もう一度ドニー・マクラーキンの言葉を紹介して終わります。

 「犠牲者と勝利者は共通点が一つある。

 『苦しみ』だ。

 犠牲者も勝利者も、対立や争い、戦いに直面し、

 傷や心の痛みを負い、地獄を経験したという点では同じだ。

 虐待や挫折、破れた夢、

 アイデンティティの戦いなどの経験も共通している。

 犠牲者と勝利者も、味わっている苦しみは同じなのだ。

 そこで犠牲者と勝利者を分けるものは何か。

 それは、その苦しみにどう向き合っていくかである。」


                     教会学校教頭 新谷和茂