2007年8月号

☆ 「ダーウィン・メガネ」と「聖書メガネ」 ☆
 
       
   
  夏休みももう終わり。

 子供達はガッカリ、親たちはニッコリでしょうか…。

 いかがでしたか…今年の夏。

 本当に暑かったですね。

 私にとって、冷房が利いている部屋にいるか、

 プールに行くかしかなかったような夏でした。

 おかげで4回もプールに行けました。
 

 さて、安藤和子という方が

 「ダーウィン・メガネをはずしてみたら」という書物を書いています。

 彼女は生物学を極め、理学博士として、

 現在、京都インターナショナルユニバーシティ生物学部長を務めておられます。

 彼女はかつて徹底した進化論者であり、

 無神論者、唯物論者でありました。

 そんな彼女が“いのちとはなんぞや、

 なぜいのちが与えられたのか、

 人生の意義と目的は何か”と自問した時に、

 生物学の知識や知恵は答えを提供できなかったのです。

 それはとんでもなくつらく、

 悲しい発見であった、と告白しています。

 それで彼女は近所のキリスト教会に

 その疑問の答えを見つけようと通い始めました。

 そして突然、神の存在に目覚め、クリスチャンとなったのです。

 そんな安藤氏が「ダーウィン・メガネ」と「聖書メガネ」という二つの

 価値観から生じる生き方の違いを比較して次のように記しています。


   進化論一辺倒の社会に生まれ育つ日本人は、

 全ての存在とそのたどってきた道を、

 証明不可能な何十億年という時間の中に閉じ込めて、

 数え切れない偶然の積み重なりの産物として

 今私達の存在があると考える。

 進化論を通してでしか世界の中が見えていない。

 このようにすべてが偶然に存在しているという

 ダーウィンの唱えた進化論を通して社会を見つめ、

 自分の生活、人生を見つめている人は無意識のうちに、

 「進化論メガネ」あるいは「ダーウィン・メガネ」をかけているのである。

 「ダーウィン・メガネ」をかけていると見えなくなるものがある。

 それは、自分を造って下さった創造主の姿である。

 創造主の姿が見えないと、

 人間本来の姿、いのちの意義、目的がかすんでしまう。

 すると、将来への希望を見失い、人のいのちも、

 自分のいのちも大切に思えなくなってしまう。…(中略)…
 
    
 イエス・キリストを信じる信仰を持ち、

 「聖書メガネ」をかけて人生を見ると、

 「人はどこから来たのか、生きる目的は何か。

 そして死後どこに行くのか」という重大な命題について、

 明るく、希望にみちた答えが見えるようになる。
 

 先ず人は、偶然に存在するようになったのではなく、創造主により、

 神の御姿に似せて造られたことが明確に見えるのである。

 そして、死は、永遠への一区切りであり、

 死後、神の国に迎え入れられることが定まっている。

 神はご自身に似せて創造された人である私達を、

 この上なく愛しておられるので、

 ひとり子であるイエス・キリストにその罪を背負わせて

 十字架につけられたのである。
 

 この聖書メガネをかけると、

 創造主がどれほど人間を愛しておられるかが分かるだろう。

 そして、いのちの尊さ、人間の本来の姿、

 人生の目的、世界の美しさが見えてきて、

 生き生きと喜んで人生を生きることができるようになるのである。


 進化論(ダーウィン・メガネ)は、

 未だ証拠が何一つ見つかっていない仮説にしか過ぎません。

 一方、神様が世界を造り、

 動植物や人間を造られたという

 創造論(聖書メガネ)もまた立証されていません。

 ただ、人間は純粋客観的に物事を判断することはできませんから、

 何某かのメガネをかけて物事を判断しています。

 そして、どのようなメガネをかけるかで

 人生や世界が変わってしまうのです。
 

 あなたの心や思考にはどのようなメガネがかかっていますか?

 メガネですから取り外しができますよ!

 一度「聖書メガネ」をかけて、自分自身や人生を見直してみませんか?
                         
            教会学校教頭 新谷和茂