《J・クリシュナムルティ》


『 虚偽を虚偽と見,虚偽の中に真実を見,そして真実を真実と見よ.


『 「あるがままのものを,あるがままに見よ」
 .....ですから,非難もせず,正当化もせず,自己を他のものと同一化もせずに,あるがままのものをあるがままに認識したとき,私たちはそれを理解することができるのです.』


『 諸君の望まざる所有物や理想は何々であるかをみずから見出しなさい.諸君が何を望まぬかと知ることにより,消去することにより,諸君は精神の重荷をおろすであろう,そのときはじめて,精神はそうなってもなおかつ肝要なものを理解するであろう.』


『 思考はそれ自身を変容できない,それ自身を秩序正しくさせることはできない.なぜなら思考は物質(matter)だから――思考は事物(thing)なのだ.物質が物質を知ることはできない.何が物質を超越しているのだろうか?その究極の根源はおそらく,精神の究極の根源と同じ未知なるものなのだ.


『 洞察は変容である.我々は,意識の全体への洞察を体験することができる.』


『 ....しかし「真の実在」は,実はあなたの身近にあるのです.遠くにそれを求める必要はありません.「真理」を求める人は,決してそれを発見することはできません.「真理」はあるがままのものの中にあるのです.そういう「真理」こそ美しいのです.
 それに反して,あなたが真理を頭の中で思い描いたり,それを求めようとした瞬間から,戦いが始まります.戦う人は理解することができない人です.ですから私たちは注意深く,受動的に観察していなければならないのです.


『 理解するのは今であって,明日ではありません.「明日」という言葉は,怠惰で鈍重で,従って何事にも関心の乏しい精神の持ち主が能くするところです.何かに興味があるとき,あなたはそれを即座にやってのけます.そのとき,即時の理解と変換が生まれるのです.あなたが今変わらなければ,将来も決して変わることはありません.』


『 「神」を発見する旅に出る前に,まず自分自身を理解すること
....あなたは自分自身を知れば知るほど,はっきり物事が見えるようになってきます.自己認識には終わりというものがなく,目的を達することも,結論に達することもできないのです.それは果てしない河のようなものです.それを学び,その中に深く突き進むにつれて,あなたは心の平安を見出してゆきます.自らに課した自己修練によってではなく,自己認識を通して精神が静寂になったとき,そのときのみ,その静寂と沈黙の中から,真の実在というべきものが誕生しうるのです.またそのときにのみ,無上の至福と創造的行為が生まれます.
このような理解も経験もなしに,ただ本を読んだり,講演を聞いたり,宣伝活動をしたりするのは,全く子供じみたことであり,たいして意味のない行為だと私には思えるのです.』


『 「あなた」と「私」が創造的でないために,私たちは社会をこのような混沌に陥れてしまったのです.従って,「あなた」と「私」が創造的にならなければいけないのです.問題は切迫しています.「あなた」と「私」が,社会の崩壊の原因を認識して,単なる模倣ではなく,私たちの創造的理解を基礎にした新しい建物を創造しなければなりません.』


『 ところで,あなたの心の中や周囲にある悲惨や混乱と,あなた自身との関係はどうなっているのでしょうか?確かに,この混乱や悲惨はひとりでに発生したものではありません......それは「あなた」と「私」の相互の関係によって生み出されたものなのです.つまり,あなたの心の中にあるものが,外部や世界へ投影されているのです.ありのままのあなた自身,あなたの思考や感情,それにあなたが日常生活でやっていることなどが,そのまま外部に投影され,それが世界になっているのです.』


『 真理を発見するためには,あらゆる主義・主張から自由でなければならない.社会は貪欲と羨望bbb優越したものに対するあなたの羨望を根底にしている』


『 私たちは常に何かになろうとする意志にふりまわされている
あのようになりたいという絶え間ない葛藤が私たちを苦しめつづけている』


『 実は「私」という存在は無であり,空虚な人間であるかもしれない………そうした不安や恐れを覆い隠すために
私たちは何らかの信念にすがりつこうとする』


『 「努力」とは自己中心的な活動である
自我を中心とした活動は闘争と混乱と悲惨を生み出すだけである』


『 「私」はマネージャーになることを望み,次にはオーナーになりたいと思う
何かになりたいと思う欲望にかりたてられるとき
矛盾が生まれる』


『 何かになろうとする欲望,それを求める努力,競争心―――
この精神の働きの全体が自我である.
こうした精神の働きは,自己を他者から分離し,
自分自身を隔離する』


『 「私」は私から満足を奪ってしまうかもしれない人物や物をことごとく恐れている
「私は死が恐ろしい」と言うとき
死そのものを恐れているのではない
自分に所属している様々なものとの
関係を失ってしまうことを恐れているのだ』


『 私たちの頭脳には無数の事実に関する知識や
他人の言葉がぎっしり詰め込まれているため
素朴になることもできず
自分自身で直接に経験することもできない』


『 もし「私」が「あなた」を理解したいと思うなら
「私」は受動的に見詰めていなければならない
そうすると「あなた」の方で
自然にあなたの素性を語りかけてくるものなのである
受動性bbbそれは怠惰や眠りではなく
極度に研ぎ澄まされた鋭敏さである』


『 法衣は欲望から自由でありたいという欲望を象徴している
しかし,あなたの心が,数えきれないほどの
期待,欲望,信念,葛藤によってゆがめられているとき
外面的な物を放棄するだけで自由になることができるだろうか』


『 いかなる国家も個人も,孤立して生きることはできない
………それにもかかわらず私たちが種々様々な形で権力を求めているために,そこから孤立が生み出されるのです.』


『 それでは私たちは,この世界で権力や地位や権威に対する欲求を持たずに生きることができるのでしょうか.もちろんできるのです.しかしそれは,私たちが自分を自分より偉大な何かと同一化しないとき,初めて可能なのです.あなた自身を偉大なものと同一化しようとする欲望は,権力を求める欲望と同じものなのです.』


『 意志的な行為は常に二元的である
物を二つに分離させるこの意志を超越して
二元的行為が存在しない状態を発見することは
果たして可能だろうか―――
それは「思考する人」と「思考」が一体になった状態を私たちが直接体験するときにのみ発見することができるのです.


『 思考は常に自己防衛的であり
自己を永続させようとするものであり
様々な経験や知識や信念に条件づけられている』


『 あなたが愛を持って他人と協同しているとき
あなたは自分のことは考えていない―――
そのことにあなたは気づいたことがないだろうか』


『 自己欺瞞―――それは現世でも来世でも
何者かでありたいと願うことから始まる』


『 自我の働きのあるところに愛は存在しない』


『 真の幸福に伴う豊饒,真に意義を持つ生活は
時間を越えた無限のものである』


『 精神が空虚であるとき,はじめて新生と改新と革命が生まれる』


『 もし目的がなければ,行為者は存在しないのです.なぜなら,目的をもった行為が行為者を生み出すからなのです.従って結果を求める欲求がなければ,行為者は存在しない,ということにならないでしょうか?』


『 経験に基づいた行為とは,行為を制限するものであり,従って行為の障害になります.観念の結果ではない行為は自然で自発的なものであって,そのような場合には,経験に基づく思考の過程は行為を抑制していないのです.というのは,精神が行為を抑制しないとき,経験から独立した行為があるということなのです.理解というものが生まれるのはこういう状態のときに限られるのです.


『 「信念は人間を結びつけている」などと,どうか言わないでください.そのようなことは絶対にありえません.』


『 私たちは創造の状態が全く自我の経験ではないということを理解することができます.創造は自我が存在しないときに生まれるのです.なぜなら創造は頭脳や精神に関係するものではなく,また自己を投影したものでもなく,あらゆる経験を越えた何かであるからなのです.』


『 「真の実在」や「真理」というものは認識することができないものなのです.真理が到来するためには,信念,知識,徳の追求というようなものがすべて消え失せなければなりません.徳を追求していることを自分で意識しているようないわゆる道徳的な人は,決して「真の実在」を発見することができません.』


『 「あなた」と「私」が一個人として,自我の全体の働きを知ることができるなら,そのとき私たちは愛とは何かということを知ることができるでしょう.これこそ世界を変えることができる唯一の改革であると私は確信します.
 愛は自我に属するものではありません.自我は愛を知ることができないのです.あなたは「私は愛している」と言います.しかし言葉や経験そのものの中に,愛はないのです.その反対にあなたが愛を知ったとき,そのとき自我は消滅するのです.愛があるとき,自我は消滅するのです.


『 努力とは,あるがままのものをそれとは違ったものに,つまりあるべきものとかなるべきものに変える闘いを意味してはいないでしょうか.私たちはあるがままのものに直面することを避けるために,絶えず闘ったり,あるいはあるがままのものから逃避しようとしたり,それを変えたり直したりしようとしているのです.
 真に満足している人間というのは,あるがままのものを理解し,それに正しい意味を与えている人です.それが本当の満足なのです.』


『 このように経験は常に「私」を強大にするのです.あなたが経験の中に根を降ろせば降ろすほど,一層自我は強化されるのです.そしてこの結果として,あなたはある種の性格の強さや,知識や信念の力を持つようになり,それを他の人たちに見せびらかすのです.』


『 既知のものを蓄積しているかぎり,恐怖はなくなりません.なぜならその蓄積がそれを失う不安を生みだすからです.従って未知のものに対する恐怖は,実際は蓄積された既知のものを失うことの恐怖なのです.蓄積は常に恐怖を意味しています.そして恐怖は苦痛を意味するのです.』


『 また,恐怖は私がある特定の型の中に入りたいと思うときに生まれてきます.しかし恐怖を持たずに生きるということは,実は特定の型を持たずに生きることなのです.私が特定の生活様式を求めるとき,その様式そのものが恐怖の原因になるのです.ある一定の枠の中で生きようとする欲望こそ,元凶なのです.
それでは私はこの枠を破ることができないものでしょうか.私がその枠を破ることができるのは,次の真相を理解したときだけなのです.つまり,その枠が恐怖を生みだしているということ,そしてこの恐怖が逆にその枠を強化しているということです.
それではどうしたら恐怖を引き起こさずに,この枠を破ることができるでしょうか.....私が何もせずに,ただその枠を見ているとき,どういうことが起こるでしょうか.そのとき私は,精神そのものが枠であり,型であるということが分かってくるのです.つまり精神は,自ら生みだした習慣的な型の中で生きているということなのです.精神が行うことはすべて,古い型を強化するか,あるいは新しい型を助長することなのです.従って恐怖を取り除くために精神がやることはすべて,恐怖を生みだす原因になるのです.


『 従って真に宗教的な人間は,心が素朴で,何かになろうとしない人を言うのです.このような精神の持ち主は測り知れない理解力を持つことができるのです.なぜなら,その精神には何の障碍も恐怖もなく,またある目的に向かって進むということがないからです.それゆえこの恩寵,神,真理とも呼ぶべきものを迎え入れることができるのです.
 それに反して「真の実在」を追求する精神は,素朴ではないのです.また探求したり,模索したり,絶えず動揺している精神も素朴ではありません.権威のある軌範に,内面的あるいは外面的に追随していく精神は,繊細な感受性をもつことはできないのです.


『 重要なのは次の点です.凝視することによって生まれた経験を記憶の中に蓄積せずに,一瞬一瞬常に注意深く見詰め続けていることです.なぜかと言いますと,あなたが経験を蓄積してしまうや否や,あなたはその蓄積やパターンや経験に従って物を見ることになるからです.ということは,あなたの眼はその蓄積によって条件づけられてしまって,そのためにもはや対象を凝視するのではなく,ただ翻訳していることになるからです.翻訳することから選択が起こります.そして選択は闘争を生みだします.闘争の中では,決して理解は生まれません.』


『 思考は私たち人間の問題を今までに解決したことがありませんし,また将来も解決することはないと,私は思います.頭の良い人間や,哲学者,あるいは政治の指導者でも,私たちの人間の問題bbbつまりそれは「あなた」と「他の人」との間の,「あなた」と「私自身」の間の関係ですbbbを本当に解決したことはないのです.
 あなたは今まで,ある問題を熟考することによって解決したことがあるでしょうか?


『 経験というものは私たち人間関係の中で分離的な要因になるのです.経験は一種の欺瞞なのです.もし私がある経験をしたとき,私はそれに執着し,経験の過程の全体的な問題を探求しようとはしません.』


『 私たちの精神や行動や存在は,時間に基づいているのです.従って時間なしには私たちは何も考えることができません.なぜなら思考は時間の結果であり,無数の昨日という過去の産物であるからです.
 また精神から離れて時間は存在するでしょうか.確かに心理的な時間は精神が生みだしたものなのです.思考という土台がなければ時間は存在しません.心理的な時間というものは,今日と関連した昨日としての記憶に過ぎないものであり,それが明日を形成しているのです.つまり,現在に反応して生まれた昨日の経験が,未来を作りだしているのです.』


『 怒りというものは,憎悪や立腹と同じように非常に心をかき乱すものです.しかも怒りを言語化bbb言葉による置き換えbbbしないで,直接経験する人はほとんどいないのです.もし私がそれを言語化せず,それを怒りと呼ばなければ,確かに違った経験が起こっているのではないでしょうか.…………もし私たちが新しい経験に命名しなければ,そのとき直接理解される経験が生まれるのです.


『 苦悩,避難,信念,絶え間のない活動などというものは,精神の働きを鈍らせ,心を硬直させるのです.私たちは情緒的,精神的に疲労困憊しているのです.私たちはセンセーショナルなこと,娯楽,実験など,あまりに多くのことに手をだし過ぎているため,私たちは退屈し,うんざりしてしまったのです......このように絶え間なく緊張したり熱中していては,へとへとに疲れてしまうのではないでしょうか.あらゆる感情と同様に,そのような活動は精神を鈍化させてしまうのです.』


『 あなたは孤独感から逃避しようとしているのです.あなたは次から次へと本を読みあさったり,いろいろな指導者のあとを追ったり,映画を見に行ったりします....ではこの孤独に対処する方法を,どのようにして発見したらよいのでしょうか.
 あなたが逃避をやめたときに初めて,あなたは何をすべきかということが分かるのです.あなたが自ら進んで現実にあるがままのものに直面したとき―――それはラジオをつけてはならないということであり,文明に背を向けなければならないことを意味します―――そのとき,孤独は終わってしまいます.なぜかと言いますと,その孤独は完全に変容してしまっているからなのです.精神は絶え間なくあるがままのを回避し,逃避し,拒否し続けているので,精神自体がその障碍を生みだすのです.直視することを妨げている障碍があまりにたくさんあるために,私たちはあるがままのものを理解しないのです.


『 私たちは「苦しんでいる当のものが何であるか見てみよう」とは決して言わないのです.....私が対象に対して,私の外部のものとして関係しないかぎり,問題は存在しないのです.しかし外部のものとしてその対象と関係するやいなや,問題が生まれてくるのです.私が苦悩というものを私の外にあるものとして扱う限り,私が兄弟を亡くしたとか,金が無いとか,あれやこれやの理由で私は苦しむことになるのです.しかし,私がその対象であるなら,また私がその事実を見るならば,その対象全体が一変し,全く違った意味を持ってくるのです.そのとき完全で全体的な注意力が生まれるのです.そして完全に見られたものは,理解され,解消されてしまうのです.そこには恐怖というものがなく,従って「悲哀」という言葉も存在しないのです.


『 結局,愛の中には関係というものがないのではないでしょうか.あなたが何かを愛していて,その愛の報酬を期待しているときに初めて関係が生じるのです.あなたが愛してるとき,つまりあなた自身をあるものに,完全に全体として委ねたときには関係は存在しないのです.
 もしあなたが本当に愛していたり,もしそのような愛が存在しているなら,それは驚くほど素晴らしいことなのです.そういう愛の中には摩擦もなく,自他もなく,完璧な一致があるのです.それは統合の状態であり,完全なのです.完全な愛と共感があるとき,幸福で喜びに満ちた稀有な瞬間が訪れるのです.』


『 世界に平和をもたらし,すべての戦争を阻止するには,あなたや私の個人の中に革命が起こらなければなりません.このような内面的な革命の伴わない経済的な革命は無意味です.』


『 もしあなたが注意深く観察するなら,思考の反応や動きは非常に素早いように思えるかもしれませんが,思考と思考の間には,思考の過程とは関係のない沈黙の瞬間があるのです.もしあなたがじっと見つめるてみるなら,その間隔である沈黙の瞬間は時間に属するものではないことが分かるのです.そしてこの間隔の発見と,その間隔を十分に経験することが,あなたを条件付けから解放してくれるのです.』


『 またなぜあなたの精神はそれほどセックスに囚われているのでしょうか.その理由は,それが最高の逃避の方法だからではないでしょうか.セックスは自己を忘れるための最も完全な方法です.暫くの間,少なくともその瞬間は,あなたは自分を忘れることができるのです.しかもあなた自身を忘れるための方法が他にないのです.あなたが行うそれ以外の行為はすべて,「私」―――自我に強勢を与えてしまうのです.あなたの仕事,宗教,神,指導者,あなたの政治的,経済的活動,逃避の手段,社会的活動,あなたの所属するパーティー―――これらすべてのものが「私」を強調し,「私」に力を与えてしまうのです.
 そして「私」を強調しないですむ行為がたった一つあるのです.そこでセックスが問題になるのではないでしょうか.最高の逃避と自己忘却―――たとえそれが束の間だとしても―――の方法が,あなたの生活の中にたった一つしか存在しないとき,あなたはそれに執着するのです.』


『 持続するものには新生がないのです.持続するものの中には新しいものや創造的なものが全く存在しえないのです.これは自明のことです.常に新しいものが生まれる可能性ができるのは,持続が跡絶えたときだけなのです.しかし,私たちが恐れているものは,この終焉なのです....
 それでは,生きていながら死ぬことは可能でしょうか.ということは,明日新しく生まれ変わるために,毎日毎日死んでいくという意味なのです.そのときに初めて,私たちは生きていながら死を知ることができるのです.そのような死と,持続の終焉の中にのみ,新生と,永遠のものである創造が生まれるのです.


『 確かに,満ち足りて生きている人や,物事をあるがままに見て,自分の持っているものだけで満足している人は,混乱していないのです.それゆえ,人生の目的は何かなどと訊ねたりしないのです.その人にとって,生きること自体が初めてであり,同時に終わりなのです.あなたが人生の意味を問うとき,あなたは実際は逃避しているのであって,人生とは何かを理解しているのではありません.
 私たちの生活はなぜそれほど空虚なのでしょうか....その理由は,私たちが自分自身の内部を覗いたことがなく,私たち自身を理解していないからです.この人生が私たちの知っているすべてであり,従ってそれは十分に,完全に理解されなければならないということを,私たちはどうしても認めようとしないのです.
 私たちは自分自身から逃避する方が良いのです.私たちが自他の関係から離れて,人生の目的を求めるのはそのためです.』


『 愛は真理と別のものではありません.愛は時間としての思考の過程が完全に終焉した状態なのです.愛があるところに変革が生まれます.愛がなければ,革命は何の意味もありません.なぜかと言いますと,その革命は破壊や腐敗や,ますます増大する悲惨にほかならないのです.愛があるところに革命があるのです.なぜなら,愛は一瞬ごとの変革であるからです.



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