塾 長 自 分 史
第一章 教師を目指して
仕事をやめて教員免許
小さい頃から、学校の先生になりたかった。しかし、家の仕事の関係で、どうしても経理の仕事をしなければならなくなった。そして、目標は一つ。税理士になろう。大学は経営学部会計コースを選択し進学をした。そして、信用金庫に入庫。本店営業部勤務となった。
働いていて何かが違う。どうも自分の考える世界とは違う。しかし、仕事だから。とにかくがんばらなければと思った。そんなときTVで熱中時代という小学校の先生の番組に自分自身が熱中していた。こんな仕事ができれば最高なのに。そんなとき、信用金庫の外回りで、ある小学校の担当になった。違う仕事でも、憧れの学校にこれるとはついていると思い、楽しい仕事となっていった。しかし、学校訪問が多いので、上司に睨まれることになるのだか。
そんなとき、思わずそこの学校の先生に、「いや〜。ぼくも本当は先生になりたかったんですよ。でも、今さらむりやしね。」と、いってしまつた。そしてかえってきた答えは自分が考えていたものとは随分ちがっていたのだ。それは、通信教育で教員免許がとれること。そして、まだまだ若いので頑張って、採用試験にむかうことだ、という返事。そんな手があったのか。しかし、そのとき、もうすでに結婚していて、子供もいた。生活をかんがえると・・・。教育実習などを受けるためには当然今の仕事をやめなければならないのだ。そんなことができるのか。
そんなとき、その学校をでようとして一人の生徒につかまった。「おっちゃん、これおしえて。」おお、算数か。簡単だけど、どう教えればいいのか。こんなことにも答えられない自分がなさけなかった。よし。教師になるぞ。妻もこの気持ちをわかってくれた。最高の理解者だった。男25才、妻子持ち。安定した仕事を捨てて、さあ、出発だ。
丸三年信用金庫に勤めて退職しその四月から仏教大学に通信生としての一歩をふみはじめた。仕事は教育実習の間は休ませてもらうことを約束して、町のちいさな梱包会社にアルバイトがきまった。とにかく、一年間で教員免許をとるのだ。
教育実習
通信教育も夏のスクーリニグが終わればいよいよ、教育実習だ。教育実習には自分の母校である四條畷学園小学校に行き、自分が小学校の1・2年と5・6年の担任であった先生に無理に頼んでお受けしていただいた。本当にありがたかった。
さて、この4週間にわたる教育実習。これが、今の自分の出発点になった。この実習は形だけのものではなかったと思う。とにかく第一日目から2時間自分に授業を任せられたのだ。とにかくどうはなせばいいのか。質問はどうするのか。子供達の反応は。いろんなパターンを想定して授業ノートを作ったのだ。あれこれあれこれ考えながら。しかし、現実はそんなものでは対処できるものではなかった。しかし、それはとても楽しいものだった。子供も考える。こっちも考える。そしてぶつかりあう。なんかすごくいい体験をしたのだつた。その後もこの1年生のクラスの授業を一日1時間以上も任せられるようになった。そして、2年生の体育、4年生の算数、6年生の国語。結局この4週間で48時間以上自分で授業をすることができた。これは本当に良い経験になった。
本当に恵まれた環境で教育実習ができたと思う。今の自分の原点なのだ。しかし、つい忘れがちになりそうなのだが。
免許を手にして
教育実習も無事終了し、また、アルバイトと勉強の毎日。通信教育はなかなかつらいものだった。一科目について8枚のレポート提出。それが合格すれば今度は大学で筆記試験だった。それの繰り返し。とにかく家庭を持っているので1年間でとらなければならないというきつい制約があった。にもかかわらず、算数の試験におちてしまったのだ。再試験は年が明けてから。そのお正月は地獄だった。そして、3月ついに教員免許をてにすることができたのだ。苦しかった一年だった。しかし、家庭がなかったら間違いなく途中で挫折していたか、一年での取得は絶対無理だったと思う。本当に妻や周りの人たちに迷惑をかけた一年だった。
しかし、こんな充実した、楽しい一年はこれまでにないものだったと思う。きっと立派な教師になってやるんだと思った。
自治会館で学習塾
教員免許を取っても、仕事が無い。採用試験に合格しなければ何にもならない。やっと恐ろしい現実に目覚めたのだ。しかし、せっかく教員免許を手にしたのに子供達と出会える場がない。どうしたらいいのか。
そこで、自分の住んでいる自治会館を借りて、学習塾のようなことができないだろうかと考えた。そして、自治会長さんと会い、快諾をえた。それに、回覧板でこの勉強会のことを、生徒を募集していることを回していただいたのだ。三十数名の生徒が集まり、自治会館での塾が始まった。週二回自治会館をお借りして、前半は小学生。後半は中学生という、複式授業をさせていった。そして、中学三年生もはいってきたので、受験を考え、他の場所ですることにした。また、この自治会館では、遠くて通えないところでも勉強会をしてほしいという依頼があったので、姉の家をかりて、ここでもすることになった。これで日曜日を除くすべての曜日がうまったのだ。毎日子供達と接することができる。なんて素晴らしいことなんだと思った。しかし、収入は少なかったので生活はままならず、アルバイトはしなければならなかった。そこで、ダイエーで、家具等の販売員を、することになった。午前十時から午後四時までダイエー、そして五時から九時まで勉強会。大変だったけどまだまだ若かったので、楽しい毎日だった。
いろんなことをしてやれ
ただ、勉強を教えるだけではなにか物足りない。学校の生活活動の中には、学習活動以外に、集団生活、体育会、遠足、林間・臨海学舎、修学旅行と楽しいことがいっぱいあるではないか。塾だってなにかあってもいいはずだ。また、この頃は御父兄方々もお忙しくなかなか子供達と遊びに出れない時だった。だから、変わりに自分が子供達をいろんなところに連れて行ったり、いろんなことを経験させてやろうと思ったのだ。
まず、第一弾。遠足にいこう。ほとんどの生徒を連れて六甲ロックガーデンにいくことにした。とても天気の良い一日でたのしい一時をすごすことができた。次に中学三年生宿泊学習合宿と銘打ち、比良山に二泊三日で中三生五名を連れて実施した。当然勉強中心の合宿だったのだけども。昼は勉強よりも根性つけようと山登り。結局楽しい楽しい合宿になってしまった。しかし、自己満足だけだろうか。充実した合宿だったと思っているのは自分だけだろうか。
恐い話大会、いろんな行事を好き勝手にこなしていった。子供達にほんとうに力になっているのだろうか。でも毎日が楽しくすぎていった。そして、学年の終わりに生徒とスキーにいくことになった。一泊二日で比良山にいった。参加者は少なかったけどこの勉強会では本当に大きな行事だった。
そして、勉強会も二年めに突入。生徒人数も順調にふえ良い感じだ。ところがそんな時一本の電話がかかってきた。・・・・・
第二章 産休先生時代
教育委員会
それは突然の電話だった。
先生になろうと銀行をやめたとき、知り合いの門真市役所に勤める人にお願いして、教育委員会の人に会わせていただくことにした。これは、これから教員免許を取るので、できたら、産休臨時講師にさせていただきたいというお願いだった。しかし、帰ってきた返事は悲惨なものだった。
「金融機関に勤めていた人間が、180度転換して教師になるとはとても無理で、考え直した方が良い。また、今から教員免許を取るなんて、1年や2年でと考えること事態が甘い。一応種類は預かっておくけど、まあ、無理やから。」これが返事だった。言われてみると本当にそうかもしれない。しかし、教師になりたいのだ。ますますその気持ちはつよくなった。そして、このとき面接した人が、今後の産休時代にずっとおつき合いすることになるのだが。
教員免許を取得して、しばらく自治会館の塾でバタバタしていたのだか、取得後1年ほどしてから、一応免許取得の件を教育委員会に伝えておいた。
そして、勉強会2年目を迎え、いろんなことに今年も挑戦だと、はりきっていた、夏の前だった。
「もしもし、こちら門真市教育委員会の者ですが。」どこかで聞いた声だ。忘れもしないあの声の響きだ。「高田先生はおられるでしょうか。」(誰や、先生て。)講師のお願いがしたいとのことで、教育委員会に来て欲しいとのことだった。(何の用や。しかし免許をとるとこうも変わるのか。)と思って、思わず笑ってしまった。
教育委員会に出向くと、お腹の大きい(お産で)先生が体育の授業ができないので、その変わりに体育の授業を受け持つ、体育講師の依頼だった。週三回5・6000円の仕事だった。夏休みまでの四週程の期間の仕事だった。収入がそんなに良く無いとのことで、気を使ったのか、沖小学校と脇田小学校の二校を持ってもらいたいとのことだった。しかし、心の中はお金なんかはどうでもいい。本当の小学校にいって先生ができるのだ。その方が大きかった。なんか、夢を見ている様だった。
体育講師
さあ、体育講師の開始だ。沖小学校は4クラスの中規模な小学校。その2年生のクラスが担当だった。脇田小学校は9クラス以上ある大規模小学校。その3年生のクラスが担当だった。
沖小学校での勤務はとても淡白だった。決まった時間だけいけばよい。無駄に早く来たり、残ったりすることはないとのこと。また、行ってもその時の都合で、時間がなくなってしまうこともあった。子どもとのかかわりもその瞬間だけだった。
脇田小学校ではまったく逆であった。体育の授業が終わって帰ろうとすると、校長先生が時間があるなら子どもと接するためにも給食を一緒に食べて行きなさいとのこと。子どもといる時間が増えた。それは自分にとってとても楽しいことだった。体育の授業だけではなく、教室で子供達とせっすることはまた違った感覚があるものだ。いつか毎日こんなふうに子供達とすごせたらいいだろうなと、思った。そして、次に校長先生から、こんな注文がきた。それは、今度この学年が遠足にいくので一緒に付き添わないかとのこと。必ずいきます。すごく嬉しかった。子供達とは給食を共にすることでどんどん交わっていくことができた。遠足は楽しかった。一緒に遊んだり、お弁当をたべたり、あっという間の一日だった。
そして、思った。できることならこの学校で、このクラスで産休講師ができないものだろうかと。
体育講師を通じていろんなことを学んだ。まず、子どもとの接しかた。指導の仕方だ。体育の授業では、こうしなさい、ああしなさいでは子供はうまくできないこと。まず、教師が良い見本、悪い見本をみせること。プラシーボ効果というのだろうか。走り幅跳びでは、前に跳ぶのでは無く、上に跳ぶのだと言うこと。見本を見せて、次に、ゴムをはって子供達に上に跳ばせることなどを試みた。子供達は素直に受け止め、記録をのばしてくれた。プールの学年全体指導では、まだ若かったこともあり、いつも見本をするようになった。
そこで、もう一つ学んだこと。
自分はこうして子供と接していることが楽しくてならないのに、正規の先生方にはなかなかそうは映らないようだ。はっきりと、「元気がいいね。」とか、「はりきっているね。」とか、「よくやるね。」とか。中には、「君は臨時の講師だからな。」とか。楽しいのは今だけだ。はりきっているのは今だけだと言いたいのだろうか。それとも、講師の自分には、正教員になんたらとかは所詮分からないんだといいたいのだろうか。そうか、教師間にはなかなか難しいことがありそうなんだと思ったが、仕事がいやならやめればいいのにとも思ってしまった。なぜなら、金融機関に勤めていた自分にとって上司関係、同僚関係などにくらべると、講師の仕事は天国そのものなのだった。
産休講師に自分のクラス
体育講師の機関が終わりひとまず講師の仕事はなくなった。そして、あとは教育委員会からの連絡を待つだけになった。自分は本業の自治会館での学習指導に全力指導にあたっていた。そして、心では、脇田小学校の産休講師になれればいいのにと思う毎日。しかしもし、万が一講師の時の態度が悪くどこからも声がかからなかったらどうしょうかと。そんな不安も抱いて毎日をすごしていた。そんな時、教育委員会からの電話。産休講師がきまったので来てほしいとのこと。そして、決まった学校は。なんと沖小学校だった。どうしてなのか。決まるとしたら感触的にも絶対脇田小学校だと思っていたのに。しかし、産休講師になれることが決まったのだ。文句は無い。全く問題も無い・・・?
そうだ。今やっている塾をどうしよう。二足のわらじに耐えれるか。しかし、中途半端にやめることは絶対にできない。この学年の間は塾をがんばろう。そして、これからは授業料をとらずにこれまでのお礼ということで頑張ろうときめた。
さあ、九月、二学期の開始。そしていよいよ産休講師の開始だ。
第一日目、朝の児童朝礼で紹介され、みんなの前で挨拶だ。そして、職員朝礼での挨拶があつた。本当にいよいよ開始だ。始業式後担当の2年生1組の教室へ。40人の子供達がこつちを見ている。あっという間の第一日目だった。そして、放課後教頭先生が教室の前で何かしている。見ると教室の前に2年1組高田学級という札がかかっていたのだ。ついに自分のクラスを持つことになったのだ。期間は12月31日まで。2学期すべてが自分の担当期間となった。しかし、今思うとじぶんは本当に恵まれていたのだろう。このクラスは本当に問題のない、優等生のクラスだった。そして、この時大きな問題を一つ抱えていた。それは、自治会館でしている塾だ。どうしても産休講師をしていると、時間が遅くなり、週に二回だけどでれるだろうか。それに、たとえ、臨時講師とはいえ、準公務員だから二足のわらじはよくないかと。とにかく少し時間を遅らせて勉強会は続けることにした。そして、次の一年は今までのお礼ということで、完全無料で教えることにした。
そんなこんなで楽しい時が過ぎていった。そんな時教頭先生から十二月いっぱいで今の講師は終わりだけど、一月より3年4組の先生が産休に入られるので続けて講師をしなさいとのこと。また、育休も取られるので、来年の十二月いっぱいまで沖小学校で勤務しなさいとのこと。なんてラッキーな。もう、どういっていいのかわからない。うれしいやらついているやら。こんないいこともあるんだなと思った。そして、ラッキーがもう一つ。十二月にボーナスがでた。毎日がすごく楽しいのにボーナスまでもらって。年末にはまたまた、人事院の差額が支給された。おいおいいったいいくらくれるんやと思った。
そんな時ある先生から冬休みに入ったら高槻の山に、穴掘りに行くから君も行くなといわれた。そうか、考古学かなにかの発掘のボランティアかと思い、即答で行きます。と、答えた。その日の二日前にそれがなんだかわかった。男の先生どうしのゴルフ大会のことだった。ゴルフはうまれてこの方一度もしたことはなかった。慌てて、道具を借りて、前日に打ちっぱなしに行き、参加することになった。それはそれは悲惨な結末だった。
さて、はじめて教職について、いや、学校の職員室というところで凄く感じたことが、いや、金融機関というか一般社会というところにいた自分には信じがたいことがあった。門真市というところは教職員組合が強く、ちょうど主任制反対で管理職と教組が対立している真っ最中に職についたからだろうか。それだけではないように思うのだが。先生方はふだん児童達に先生に対しての口のききかたについて、得に職員室ではうるさく言っておられるのに、上司、教頭先生や校長先生にため口だったのには本当におどろいた。教師は自分の教室に入れば一国一城の主人なのだ。そんな世界だからだろうか。銀行でそんなこと言ったら多分次の日は席がなかっただろう。
新しい年を迎えた。さあ、3年4組での新しい生活が始まる。どんなクラスだろうか。2年1組よりもできたクラスだろうか。職員朝礼が終わりさあ教室に向かった。ドアを開ける。中を見る。ドアを閉めて帰ろうと思った。
小学3年生といっても体の大きい子供達だ。そして、教室いっぱいに46名の児童がやる気なさそうに座っている。(なんやこの雰囲気は。前と全然ちゃうぞ。)あっという間に始業式は終わった。なんか大変なクラスを受け持ったみたいだった。しかし、なんか嬉しくなってきた。そんな自分はおかしいのだろうか。
担任をして、二日目か、三日目だった。マイクで呼び出しがかかった。校長室にすぐにきなさいとのこと。慌てて行ったら、クラスの生徒がスーパーで人の財布を抜き取ったとのこと。おいおい、顔と名前が一致しないのに大変なことになった。でも、ここはベテランの先生にお任せするしかなかった。教室までそのことを持ち込もうとは思わなかった。
日に日に生活を共にして、低学力、無気力さが気になりだした。どうしてだろう。なにがこうさせているのだろう。よく聞いてみるとこのクラスは担任が休みがちで、3人の先生か゛交代しながら見ていたらしい。統一した指導がなく、その場その場を過ぎてきたようだ。そして、4人目の担任が自分であるということだった。短い三学期、何ができるだろうか。しかし、この子供達のためになにかしなくては、せめて子どもらしいいきいきとした目を持つようにしたいものだと思った。
まず遊び時間だ。ただああ休憩時間だではすましてはだめだ。みんなで遊ぶこと。二時間目と三時間目の間に二〇分休みがある。この時間天気が良ければ全員でドッチボールをすることにした。いやとかそんなことは絶対にいわせない。ドッチの嫌いも好きも無い。自分は女子のチームに入って男子対女子の戦い。弱い女子がやられたら自分がそいつを狙い打ち。みんなが燃えてくるまで狙い打ち。冬だと言うのに熱い20分休憩が続いた。
体育の時間、ラインサッカーが始まった。そうだ、いちど他クラスと試合をしよう。ということで1組との試合がきまりよっしゃと思ったのは教師だけだった。そして、試合、結果は散々だった。もうやめてというほどの結果だった。しかし、子供達はなんかあったんというようす。ここで引き下がったらまたもとのもくあみだ。子供達を前に怒った。これでええんかと心底怒った。時間のあるやつは放課後練習だ。おおたくさん残っている。よしやるぞ。毎日七時まで練習を続けた。みんな頑張るガンバる、最高最高。しかし、御父兄に怒られた。でも私は挫けません。雨の日は体育の時間にサッカーの作戦会議、そして実戦練習。おいおい、子供達のめがかわってきたぞ。そして、3組、2組、とやっつけていった。そして、にっくき1組だ。子供達も燃えている。教師は鼻から火をふいてもえている。行くぞ1組まっていろ。しかし、あっけなかった。あっという間に勝負はついた。もう、4組の相手ではなかった。1組の先生は言った。プロとアマチアの試合やねといわさせた。こいつらはできる。やればできることを知った。もう大丈夫だ。さあ、今度は、勉強や生活で一番になるぞ。
担 任 外
3月の終わりだった。休まれている先生がどうしてもクラスはもてないとのとのこと。これで自分は担任外の教師になることが決まった。なんでやねんとつらい春休みだった。やっとやつらがそのきになって燃えてきたのに、3年4年はもち上がりと違うのかと。しかし、これは産休講師の悲しいさだめ。職につけているだけでも感謝しなければならないのだ。担外、いやな言葉だったけどしかたがない。担外、いままでにこんな担外いたかという仕事をしてやれと思った。
さあ、担外の仕事が始まった。なんと担外は休まれている先生の変わりをしなければならない。給食の会計をしなければならない。また、ここには在日朝鮮人の子供達が5人ほどいて、その子供会があり、担外はその子供達の担任をしなければならないとのこと。そして、決められた時間障害児の授業も受け持つそうな。えらく忙しい日々になった。そんな中で、一年生の先生がよく休まれるので、自分が半分担任のようになってしまった。そして、組合活動で朝からの教師の時間スト。この時は校長・教頭と3人で全クラスをまわり、学習指導。なんか毎日が戦いだった。
そんな中、自分はすこし、いやすごくばかなところがあって、夢中になるといってまえ主義になるところがある。在日朝鮮子供会にのめり込んで行った。まず、ハングル・朝鮮語の勉強。そして、朝鮮の立体地図を作ろうなんて言ってしまった。子供会は金曜日の昼の時間しか無いのに。でもひとつひとつ出来上がっていったときは、子供達はすごいなあと思った。無責任な教師の計画性の無い言葉をひとつひとつ実現していってくれるのだから。
沖小学校最後の月を迎える時、4年の担任が胃潰瘍で倒れた。全ての仕事をもちながなそのクラスの担任までしなくてはならなくなった。しかし、本当はうれしかった。でも仕事は多かった。ファイト。かなり優秀なクラスだ。なんでこんなクラスで胃潰瘍になるねんと思ったけど、自分はラッキーと、思った。クラスをもつことは楽しい。しかし、たったの一ヵ月。担任との信頼関係はよくで来ている。どう入り込んでいくか。簡単簡単、とにかくぶつかるしかなかった。なんかしてやろう。みんなでオカリナ作りをした。一ヵ月このこらにしてやれるのはこれぐらいしかなかった。そして沖小学校の勤務は終わった。
終わりまぎわに他の先生から一言、北小学校にいくねんて。島流しか。なんのことかいなと思った。
次 の 学 校 に
沖小学校の任務を終えて、次の小学校は北小学校と決まった。二年生の担任だ。育休もいれて、次の年の1月一杯の勤務だ。島流しでもなんでもいい。講師の条件としてはすっごく良い条件だ。るんるん気分だった。しかし、初勤務の前日、前勤務校の先生方との新年会で二日酔いでの初登校。最悪の出だし。初めての学校。どんなクラスなんだろう。不安より二日酔いが苦しい初勤務の日だった。校長、担任、そして自分の3人で教室にいった。3人が教室に入っても子供達は、観察だな、机の上を飛び回ったいる。教師の話など聞こうとしない。やるなこいつら、二日酔いで頭が痛いのに、明日から覚悟しとけ!!
そして、その日が来た。とにかくここは心を鬼にしよう。怒鳴る、怒る、席につかないやつはゆるさない。話を聞かないやつは許さない。鬼の先生さあ開始だ。もう、戦いだ。
誰がなんと言っても自分のおもうようにする。とにかく一週間は鬼でいようときめた。
そして、まだまだ小学二年生。日増しに態度は良くなってきた。でも、愛のむち?はとばしつづけた。しかし、ひどいのはこの学年だけではなかった。荒れてる。この一言があてはまるすっごい学校だった。6年生の授業妨害。怒ろうにもそのときはもう逃げていない。朝礼には寒いと言ってでてこない。なるほど島流し。本当の意味はちがったのだけれど。その6年生諸君も週一度のクラブ活動であう連中はたのしいやつらだった。ただし、悔しかったのは自分がゲームに参加した時、得点を入れるとマイナスになると子供達に約束させられたことだった。カッコいいところが見せられない。そして、そんな連中も卒業していった。担任の先生方の卒業式後の幸せそうな顔は何を物語っていたのだろう。
そして、新年度。あれ、自分は講師であるのにも関わらず3年4組の担任になっているではないか。担任は最高だ。このクラスはほぼ1年近く持つことができる。最高ではないか。とにかくぶつかった。最高のクラスだ。みんなのって来るし1年かけてオペラッタ孫悟空にも取り組んだ。そして、もうすぐこのクラスともお別れだというとき、新たに他学年の先生が産休に入られることになり、またまた1年以上この学校での勤務が決まった。なんとラッキーなことではないか。教頭先生の話ではこのクラスをもう1年担任できそうな感じらしい。すっごいことだ。
しかし、休まれていた先生が出てこられて「このクラスは私のクラスですから。」といわれて担任の夢は消えた。そして、2月3月は担任外となった。でも専科の先生として、4年のの音楽5年・6年の家庭科担当となった。そして給食会計と欠席された先生の代理という仕事に着いて走り回っていた。そんな時5年生の先生が腰痛で長期休暇がきまり、全ての仕事をしながらそのクラスの担任も2・3月いっぱいまでやるようにとの指示。体がもう1つほしいと始めて思ったけど楽しかった。前掛けをして肩からギターをぶら下げて、片手にミシンの道具、もう一方に5年の教科書。走った。走りまくった。あっという間の月日だった。
そんなある日教頭先生から「君は講師だけど一応担任希望を出しておいてくれ。」といわれた。ほう、希望ができるなかて。しかし、この1年持ってきたクラスはとてもじゃあないけど、今の担任が手放すはずがない。そこで考えた。次期5年はバラバラで、いじめも多く、担任希望者も少ないだろうと思い、また、こんな学年は担任するのはきっと面白いだろうと考え、この学年1本に絞って希望をだした。
人気のある新4年は担任が持ち上がりで決まっているにも関わらず、クラス数の倍の先生が希望。そして、新5年は自分一人だった。これで何とかもう1年しかも、自分が最初から作るクラスが持てるメドがたった。これは凄いことに違いないと思った。
そして、担任が決まり思惑通りになった。男と言うことで重度の障害児を一人クラスのメンバーとして受け持つことになった。どんな障害か。脳に障害を負い、自分で歩くこと、たべること、用を足すことなどはなにもできない。当然喋ることも、学習することもできない。このままでは6年を終了するころには全くの寝たきりになるのではないかといわれていた。そして、始まるのだった。
5年4組物語
さあ船出だ
クラス担任が決まりクラス分けも決まった。次は教室を決める時だ。どうしても前担任から、障害児がいるので、教室は1階にするべきだといわれた。納得できない。彼と一緒のクラスになれば1階の教室に決まっているというのは、納得できない。他の子供達も納得できないと勝手にきめて2階を職員会議で提案した。
毎日の階段の昇り降りはどうするのか。緊急の時はどうするのか。全て自分が責任を持つことで事は解決した。さあ、新学年の開始だ。
新5年生の面々には自分はかなり嫌われていた。なぜなら彼等が4年のとき、ことある毎に4年生を捕まえては怒鳴っていたからだ。そしてついにクラスと担任発表の時がきたのだ。5年の担任発表の時大きなどよめきが起った。そして自分達の教室に。他のクラスになった生徒達はルンルン気分で教室に向かっていく。しかしどうだ。5年4組の面々はみな首をうなだれて行進している。これはいい。心の中でよっしゃと叫んでいた。生徒達に自分が恐いと言うことは浸透している。さあ、どんなふうに料理していこう。とにかく力一杯頑張るクラスになるのが目標なのだ。そして、1週間は恐いままの先生で通した。しかし、これでは楽しくない。とにかくわらいの途絶えないクラスにしてやろうと思い、一週間後にはその基礎はできた。
さて、このクラスには障害児のTがいる、どう扱えばいいのだ。どうしょう。T係りをつくろうか、いやいや好きなやつに面倒みさそうか。とにかく教頭先生に聞かれた時、一応面倒をみたいやつがみる。みんなと一緒に扱いますといった。これはこれで教頭先生は納得していただいたようだ。ほんとうは「良かった。最善の選択だ」といわれた・・・・
林間学宿
1学期大きな行事がやってきた。1泊2日の林間学宿だ。子供達に1つの提案をだした。「さあ、初めての宿泊行事だ。これから臨海、修学旅行、中学の行事等々続いていくけどいつも宿泊する時は男女別や。しかし、この林間はテントかバンガローやし、キャンプやから別に一緒のテントで過ごしてもええンちゃうかな。」と提案したのだ。しかしえらいことを言ったものだ。こんなこと職員会議で通るのか。子供達の意見は当然先生の意見に賛成だった。さあどうしょう。こんなの職員会議でとおるの。難しいもんだ。それに4組にはもっと大きな問題がある。障害児のTはどうするんだ。行動、トイレ問題がいっぱい。そこにこの大きな問題。そんな時子供達が言った。「テントは何があるかわからない。男子が女子を守る」「もしほかの先生が反対したら僕らも会議にお願いしにいく。」なんと言うやつらだ。
この子達の思いも理解され同意し自分のクラスも一緒にするといっていただいた先生もでてこられなるもんだと思った。
そして、当然型にはまらない林間学宿は過ぎていった。
秋の遠足
季節は過ぎて、秋。遠足の季節がやってきた。この学年は障害児Tやもう1人の障害児(T)がいるので今で遠足と言えばバスで現地まででかけそしてまた、バスで帰ってくる。なんともっと大地を踏みしめて行ったといえる遠足をさしてやりたいとまた、やっかいな気持ちがでてきてしまった。障害児がいるから絶対にいけないという遠足にいってみたくなってきた。また、なにを考え出すのか。困った性分だ。でももう自分は走っていた。頭の中は「六甲ロックガーデン縦走」そう決めたとたんもう頭の中はいっぱいになっていた。どうほかの先生を説得するか、次はそれにもう走っていた。
「いやーすこしはこの子らにも冒険が必要なんですよ。いつもおきまりのコースじゃおかしなところにはけ口をもっていってしまうかわかりませんもんね。たまにはがんばる遠足も大事ですよ。どうです、やってみましょうよ。」
そしてきまってしまったんです。下見の日がやってきたのです。授業を午前中におえて下見に出かけたのです。六甲ロックガーデンなんと険しや。各先生方からは「これは普通の者でもきついやないの。大丈夫??」
眠れなかった。前日は眠れなかった。えらそうなことばかりいって、どうしよう。担いでいくのは重いし、よだれはたれながしやし・・・・。ひぇーー。眠れない。そして、当日がきた。
遠足当日
ついにその日がきた。しっかり負いこでおぷってカッパをきて、よだれ対策をしていくぞとこころに誓い、いざ出発だ。順調にスタートをきった。まあ、学生時代には40kgをかついて日本アルプスを縦走したんだからどっちゅうことはないと考えていた。ところがいざ山の登りに差しかっかたとき他校の生徒が渋滞している。またその渋滞している時の生徒の態度が悪い。石を投げたりバックしてきたり、もう完全にきれてしまう、と思ったときには「どこの学校や。山のマナーがわからんのか。」おお声でどなっていた。しかし、」むこうの教師は知らん顔。自分の生徒なら。みんな殴られてどっかに倒れとるで。しかし、本当にひどいものだった。そして、なんだかんだしているうちに歩き出した。しかし、渋滞も影響してだんだん背負っているのがこたえだした。どうも力がでない。どうしてだ。わかっている。前日あまりにも似合わないのだが今日のことで胃がいたくなり、眠れず、朝は飯も食えず、これでは動けず。自分にもこんなやわな一面があるとは。
ピークにさしかかって休憩をとった。こどもたちが疲れたと口々にいってえる。そんななかである1人が『T、大丈夫か、ガンバっれよ。』と言った時だった。次々に声がかかった。『なにゆうとるんや。Tはおぶらレてるだけやろ。しんどいのんは先生ちがうんか。』と。こいつらなにゆうとんねん。すごいな。お前ら本間にわしのクラス。かしこいやん。そんなときもっとすごいことがおっこた。なんとクラス1のやんちゃがいいだした。そして一番最初に実行しだしたのだ。『先生もしんどいけどがんばっている。でもTだけがおんぶされてるのは何か違う。体力的にしんどいのはほかにもいてる。おれは元気やからそいつらの荷物もっていったる。』ええなんやて。こいつらおかしなったんか。
ほんまにすっごい遠足になった。おれってすっごい幸せな教師。なんて思いながら、この遠足は無事に終了した。
こいつらを6年も担任できる
もう12月このクラスの担任も残すところもあと三学期をのこすだけになった。あと三ヵ月でこいつらとお別れかと思うとなんかせつない気持ちに。本当に可愛い連中なんですよ。つらいなあと思っているときある先生が「私、4月1日から産休にはいり、その後育休で1年休むんで高田先生よろしくね。」といわれた。そして教頭先生からもその旨が伝えられた。なんとついてる。なんとラッキーな。しかしここで考えた。子供達にはだまっておこう。そして4月に子供達をびっくりさせてやろうとこころにきめた。
1月、教育委員会からお呼びがかかった。その通り4月からの産休の話だった。すぐに身体検査にいくようにとのこと。3000円じばら切っていくのだからこれで決まったようなもの。6年の担任発表のときみんな驚くだろうな。すっごく楽しくなってきた。
大どんでん返し
さあ、三月だ。今月を締めて、4月から4組は大飛躍だ。毎日がむっちゃ楽しかった。
そんなときだった。「高田先生、教育委員会から電話ですよ。」なんじゃろと思いながら出てみるとすぐに教育委員会に来いとのこと。何やと思いながら出向いていった。
「君もう北小に2年もいてるんやろ。居過ぎなんや。産休のくせに一つの学校に2年もいてどうするんや。それに子供も2人いるんやろ。いつまでもこんな仕事しとってどうするねん。いちょう身体検査もしてるしこのあと学校あるかどうかわからんけどまあ書類だけだしときいや。しかし、北小はないで。それだけや。」なんでここまでいわれやなあかんねん。2ヵ月前迄は頑張って下さいよといってたやないか。これが同じ人間の言うことか。もう怒りを通り過ぎて悲しかった。確かに裏で数人の親と女性教師が動いているというのは聞いていた。女の先生は家庭もあり時間の制約から高田学級のようにはできないと。だから困ると。でもそんなこと信じたくなっかた。手わされた書類をみながらもうペンは走っていた。(あなたにそこまでいわれてあなたにお世話になろうとは思わない。はっきりきみはいらないというべきだ。君の世話にはならない。)と書いてその書類を送り返した。しかし、4月から飯が食えない。時間を見て職安通い。(えらいこっちゃ。)だまって応援している嫁はんはまさしくすごい人だ。そしてなんとか早稲田教育学園という塾を作るフランチャイズの本部の大阪支社への就職が決まった。
別れのときー1
三月、もうそのときが近付いてきた。4月からのこといわんでよかった。こいつらとわかれるしかないんか。ほかに方法ないんか。なんで別れやなあかんねん。おれはただのごみか。いらんようになったらハイさよならか。なんでこいつらとこんなかたちで別れやなあかんねん。採用試験にとうらぬ自分が情けない。そしてついにわかれの時がきた。気の重い一日の始まりだった。でも自分の気持ちはもう前を向いているし次の担任がいかにやりやすく行くかが自分の仕事なんだと考えていた。もう、未練なんか無いんだ!!
5年3学期終業式。そしてお別れ会が始まった。ケーキを作ったり、ドッジボールをしたり。そして最後のカラオケ大会が始まった。カラオケ器機は自分が家から持ってきた。放送室からマイクスタンドも用意した。みんな自分に気を使って好きな歌を力一杯一生懸命心をこめて歌ってくれる。子供達の思いが重く重く伝わってくる。なんて素晴らしい子供達なんだ。こんな子供達に巡り合えた自分はなんて幸せ者なんだ・・・・・。
( 告白 )
沖小学校と脇田小学校で体育教師が3ヵ月、沖小学校で2年1組4ヵ月、3年3ヵ月、担任外9ヵ月、そして北小学校は2年3ヵ月3年10ヵ月担外2ヵ月、そして5年4組を1年これが自分の教師生活の全てだ。産休・育休講師がこれだけ担任を持てることは珍しいらしい。校長・教頭先生に恵まれていたんだろう。
何をどうしていいのかわからず、ただがむしゃらに過ごした沖小学校、口ばかりで子供達に迷惑をかけておんぶにだっこをしてもらった沖小在日朝鮮人子供達の諸君。謝るしか無いのでは。そして北小学校。
3年4組。どこかの学校でみたオペラッタ。かっこいい。おれもやったらかっこいい。孫悟空というオペラッタかってにこしらえて10ヵ月もかけてまともに勉強もせずに自己満足のために子供に頑張らせていた自分。
5年4組、障害児なん世話をしたことが無い。指導の仕方、そんな格好の良いものではない。どう接していいのかもわからない。とにかく成人君子みたいなことをいっていたらいいだろうと考えていた。そんな時教頭先生に「障害児の扱いはどうするのか。」と聞かれた。何も考えていなかった。なるようになるとおもっていた。前に聞いた障害児係りをこしらえてもいいかなと思っていた。でもなんと口からでたことばは「障害児もそうで無い子も関係ありません。みんな4組の一員です。嫌いな子は嫌い。好きな子は好き。好きな者が関わっていく。それで良いと思います。」教頭先生にはそれで良いと認めていただいた。本当に良いの。自分は先生や御父兄に格好良いことばっかりいっていたけど、一番迷惑だったのはきっと障害児のTだ。どう謝って良いのか。ただいじめて遊んでいただけなのに。
講師期間の間、自分は仕事をしていたんだろうか。なんか楽しんで、毎日趣味に走っていただけなのにすっげい給料やボーナスをいただいて、遊んでお金もらえるこれはなんだと思った。
これではよくなかった。自分だけ楽しんだ年月だった。みんなごめんよ。でもこんな先生みてきたから君らはきっとおおきくなるよ。
別れの時ー2
別れの時がどんどん迫ってくる。今日でお別れなんだよ。なんにもしてやれなっかった自分を許しておくれ。
そしてお別れの歌を自分が歌う番になった。ラヴイズオーバーの替え歌を歌った。
お別れのラヴ イズ オーバー
ラヴ イズ オーバー 悲しいけれど 終わりにしよう きりがないから
ラヴ イズ オーバー ワケなどないよ ただ一つだけ 君たちのため
ラヴ イズ オーバー 楽しい思い出と 笑って言える 時がくるから
ラヴ イズ オーバー 泣くな子供達 先生の事は 早く忘れて
先生は君らを 忘れはしない
だれが先生でも 忘れはしない
きっときみらが最後のクラスだから
ラヴ イズ オーバー 先生はみんなの 思いででぃい そっとどこかに
ラヴ イズ オーバー 最後に一つ 新しい先生 大事にしてね
お酒なんかで 逃げたりしない
いつでも君らを 信じているよ
きっと君らに お似合いの先生が
ラヴ イズ オーバー 悲しいよ もうでていくよ ふりむかないよ
ラヴ イズ オーバー いつでも頑張れ ラヴ イズ オーバー
第 三 章
学習塾塾長として
講師をやめた1年間
もう、講師をやめなくてはいけないと決まってから職業安定所に通った。そこで見つけたのが早稲田教育学園という塾をフランチャイズ展開していく会社の大阪支社の募集だった。すぐに紹介していただき、面接にいった。2・3日後やっとこ採用の通知がきた。
さあ、新しい出発だ。ちょうど息子も小学生に上がる時だ。いつまでも臨時講師をしている場合ではない。定職につくことは子供にとっても大切なことだ。と言い聞かせながら新しい仕事についた。
そして、新しい生活がはじっまった。まだ、しごとは営業なのか教務なのか決まっていない。とにかくはじめはマニアルを読んだり、仕事を覚えたりだった。しかし、じぶんとしては、教務の仕事につきたいという気持ちが強かった。
この会社は営業が塾を開きたいというオーナー希望者に8畳の部屋があいていれば月40〜70万の収入になると言って契約をとり、そののち、教務が開校からのちのちの世話をするというようなシステムになっている。営業は成績給だが、教務は固定給だ。また、現場で子供達に接したりできるのも教務だ。だからどうしても教務になりたかった。思いは通じるもので、なんとか1ヵ月後には教務となり50教室程の担当となった。
仕事をしていくに連れて、だんだん矛盾が見えてくる。開業にさいし200万近い開業費、毎月20%のロイヤルティー。なのに開業してしまえば何も無いのだ。ただ大学生を集め地域があえば送り込み、たいしたことのないテキストを高額に売りつける。確かに企業は営利を求めるものだが、教育産業としてはちょっと違うんではないかと考えさせられた。
そこで自分にいいきかせた。自分が担当するところには現実を示し、また、講師はできるだけ指導をしてから送りだそうと考えた。新しく営業が開業を決めてくると営業担当の前で「はっきりいいますが、そんなに簡単には生徒は集まりません。オーナーの頑張りが大切なんです。」よこで営業が震えていた。しかし、初めにはっきりいっておくと後のクレームにならないんだということを営業に教えてやった。しかし、行くところ行くところで、そのころ大事件だった豊田商事事件にかこつけて、「君とこも豊田商事みたいやなあ。」とよく言われた。(営業はそうかも知れないが、ここにはおれたちが教務がいる。そこがちがうんだ。)と、自分に言い聞かせた。
講師が休めば代講に走る。岡山まで開業準備、講師指導に飛んでいく。模擬テスト会を開く。講師全体会を開く。毎日のように昼の休憩時間支社長を応接室に呼び、これではだめだ。これをするべきだ。と説教をし一つ一つを実施していったのだ。先生のときよりだいぶ給料は減ったが、仕事は楽しかった。
いつごろからだっただろうか。5年4組だった教え子がほとんど毎週のように、日曜日家迄遊びに来るようになった。またそのころ人に頼まれて家庭教師も始めていた。教えること、子供から離れることはなかなかできなかった。
そんなとき、いつも来る2人が言い出した。「先生、いつもいつも来るん邪魔違う。でもきたいねん。だから勉強教えて。毎週日曜日塾みたいなんして。ちゃんと月謝もとって。きっと何人か他にも来たいと思ってるこいるよ。」「そうか、やってみるか。」なにも考えず、簡単な決断だった。さあ始めるぞとなったとき、もう6人が集まっていた。
平日は仕事。日曜日は勉強会(朝9時〜12時まで)。そうそう週2回は家庭教師にもいっていた。年度の後半は家庭教師の生徒も2人になっていた。そう、この1年は毎日走っていた。
開 塾
産休先生をやめてもう1年がたとうとしていた。日曜勉強会を始めて、やっぱりこどもと接していることは楽しいもので、やっぱり自分にはこれがやっぱりあっているのかと思った。そして塾を作る会社に勤めているので、開塾のノウハウはわかってきた。教材の手配、模擬テスト、教室設置、その他もろもろ。生徒指導は教師をやっていたのだから自信満々(これがとんでもないことになるのだから)。思いきって今の仕事をやめて真剣に独立を考えはじめた。ただ問題は授業料をいくらにするか、生徒は何人集まるのか。独立して本当に生活はできるのか。しかし留まっていても仕方ない。その一歩を踏み出さなければ何も始まらない。今やっている仕事も、この経営方針ではさきは長くないだろう。やるしかないのか。
就職して1年足らず1月末日をもっての辞表を提出した。過去の教え子達に塾を開く云々のダイレクトメールも送った。教室はわりと条件の良いところが見つかった。さあ始めよう。机、黒板、イスその他の備品も一応揃った。さあ開塾だ。
昭和61年2月14日ついに高田塾は開校した。塾長32歳の初春だった。
開 塾 し て
勉強会からいた生徒達、そしてぼちぼちと生徒が集まりだした。それなりの人数になってきた。これならやっていける。よし、やるぞ!!
小学生が専門なのにやっぱり塾、中学生の方がたくさんはいってくる。しかたのないことか。しかし、ここで大きな問題が起った。自分は英語が大の苦手だったんだ。どうやって教えよう。数学。なかなかいい響きだ。1次関数、2次方程式、解の公式わからん。こんなの教えられんの?さあ大変だ。どうしよう。
自分の学力のなさにがっかりした。もうどうしたらいいのか。英語を発音すればそれは日本語、アクセントの位置も違う。どうするんだ。えっ!!やっていけるのか。勉強が苦手な自分が塾の先生だなんて。塾の先生はプロフェッショナルでないとダメなんだよ。いったいどうするんだ。
そう、始めた限りやらなければならない。そう、1から勉強のやり直しです。とにかくこの開塾1年めの間にプロフェッショナルにならなければ。さあがんばろう!!
試行錯誤の中で
自分で開いた塾なのだからあんなふうにしたい。こんなこともしたい。しかし、現実は甘くない。塾長の仕事、講師の仕事、生徒募集、経理、雑用などなど毎日することがいっぱい。しかし、忙しいなかで子供達と話していていつの間にか行事が入ってしまっている。また仕事がふえた。そんなかんだでサマーキャンプ(1泊2日)、ボーリング大会、釣クラブ、スキー合宿(車中2泊現地2泊の5日間)、卒塾記念会などなど。仕事はどんどん増える。そして私立中学受験、高校受験。ほんとに1人でやっていけるのか。しかし根が呑気というか、ええかげんというか。やったらできる。なんとかなるさ。すべてこれでいけるだろう。間違いなどはその都度訂正していけば問題無し。
ただ、最高レベルの生徒が集まって来るような塾じゃない。入塾テストもなにもない。「来るもの拒まず。去るものは追わず。」の精神でやったのでそりゃあやんちゃ君もいっぱいきたし、おいおいということもやってくれるし。毎日が戦いだった。
徹夜特訓
どうしても成績が上がらない。家では全然勉強をしない。てすとの点数が上がらない。平均点20点ぐらいでは高校にいけない。そこで考えた。試験中徹夜特訓をするしかない。やってみよう。どんなふうにするか。夜9時に塾の授業が終わる。その時に塾にこさせて自分の家に連れて帰る。そして朝の6時まで勉強させ、そして学校に行かせてテストを受けさせる。それを3日間実施する。これしかない。よしやってみよう。しかしよく考えると子供はテストが終わると夜迄寝れるけれど、自分は朝パン屋さんのバイトがあるのでかなり苦しい。しかしやると決めたからにはやらなくては仕方ない。
しかし無料だから割があわんなあとおもいながら、しかし。成績が伸びればええかと思う。
そして実行した。平均点が40点以上になった。よかった。それから希望者がさっとうした。何組かしてもう体がもたない。
そして、徹夜特訓は伝説となった。
高校生
塾を運営していると当然塾を卒業していく者がいる。そんななかからとんでもない声が上がってきた。『高校生になっても塾をしてほしい。』なんと恐ろしい声だ。中学生指導でいっぱいいっぱいなので高校は無理やと言い続けたのだが。
1年生の間だけという約束でやっぱ始めてしまった。しかしこれはしんどい。とにかく自分達が習ったときとは全く変わっているし。そして当然頭もついていかない。とにかくしんどいしんどい日々が続いた。
そして高校生指導は2年間程でやめた。
自分の子供
塾を始めた年、長男が小学校に上がった。まだ塾にはと考えていたけど2年生になった時、自分の塾に来させることにした。自分の子が生徒というのもなかなかやりにくい面がある。家ではお父さんだけど、教室では先生なのだ。息子も他の生徒の手前やりにくい面はあっただろう。しかし、教室では先生と生徒。しっかりけじめはつけないと。
生徒だ、生徒だと思い込みながら授業するのだが、できなかったりするとやはり気になってしまう。しかし、自分の子だけ特別に教えることはできない。そうなると、家でも接し方が難しくなった。先生のこやから家できっと手取り足とり教えてもらってるんやなんて思われたくないと考えてしまい、家では極力先生ではない普通の親父をしていこうとやっていた。
下の娘が4年からきた時はもう慣れてしまい悩むことはなかった。しかし、娘が卒塾していくとき、寄せ書きに『先生の娘はしんどいで』そうやなあと思った。
塾 経 営 1
塾長として、講師として、経営者として、教える仕事、営業活動、経営企画、集金活動、指導計画、教室設営、教室経営、教室維持活動、経理、その他雑用。自分で始めたことなので誰にも文句は言えないが、行き詰まったり、落ち込んだり、しかし、そんな暇はないのだ。とにかくひとりですべてをこなさなければならないのだから。
でも、授業計画、各講習、サマーツアー、スキーツアーなどの行事。しかし塾経営でこんなものはたいしたことはないのだ。この辺は自分は普通ではないのかしらないけれど。前向きなことはどれだけしんどくても楽しいのだ。
塾経営をしていて一番しんどいのは生徒募集活動だ。年度替りが一番しんどいのだ。集まらなければ飯が食えなくなるし、各学年同じように集まれば良いが、一学年に集中したりする。まあ一人でやっているので生徒が少ないからとリストラしたりしないですむので、そのへんは気軽なのだが。
塾 経 営 2
まだまだ他にできることがないので、この仕事は続けていかなければならない。生徒が多すぎて大変だった時、少なくてどうしようもない時、自営業楽もあれば苦もある。とにかく17年やってきているのだ。今は本当にきついけど、来年はもっときついかもわからない。でも、再来年は左うちわかもしれない。
自分で選んでやってきた仕事。誰からも縛られず、自由気ままにやってきた。まだもう少しの時間子供達に人生なんかを説いていこう。