つかはらぼくでんたかとも
 

延徳元年(1490)十二月、常陸国塚原(茨城県鹿島郡鹿島町須賀)で生れる。卜部覚賢の二男。幼名朝孝、塚原土佐守安幹の養子となり、安幹の亡き子供の名前をもらい新右衛門高幹を名乗り、のちに土佐守、土佐入道ともいった。

卜伝は養父安幹から飯篠伊賀守直伝の天真正伝新道流を学び、兵法の奥義「一の太刀」を開眼。この一の太刀がどのような刀法なのか、卜伝自筆の伝書が存在しないので明らかでない。「一の太刀」は卜伝が二十歳代で会得したように言われるが、他の剣豪たちの例をみても、少なくとも三十歳を越えてからのようにおもわれる。

卜伝は将軍足利義晴、義輝、義昭にそれぞれ兵法を教え、とくに義輝と伊勢国北畠具教に「一の太刀」を伝授したと伝えられている

 
 

「一の太刀」がどのような剣か卜伝の自筆の書が無いので明らかでない。あっても文字で表すことは出来ないだろう。

卜伝は永正九年二十四才から永禄五年七十四才までの五十年間に、出陣三十九回、その間真剣勝負は十九回にも及び、後の剣豪とは比較にならないほどの実戦経験者である。ひとつ間違えば死を意味する境で「一の太刀」は鍛え研ぎすまされたのである。

医療もままならない時代に、八十三才という長寿をまっとうしたのは、人並み以上の精神、肉体、そして絶対不敗の剣、それ即ち「一の太刀」の威力であったと思われる。

 
また卜伝は、無駄な戦いをしなかったとも言われる   逸話
 
高天原の合戦 大永四年(1524)卜伝、松本備前守等の軍は、暴政の為、その座を追われていた元鹿島城主の大掾義幹軍と戦う。この時、大掾義幹も死んだが、卜伝の師とも言われる松本備前守も戦死した。
 
元亀二年(1571)二月十一日没 八十三歳 
 
 
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