ようこそ
田鶴子の部屋へ

 






                  9月のNEW                  
                          (2019.10.6 更新)              (猪名川堤防の彼岸花

バードウオッチング・その他    (7月) (8月) (9月)


9     月
2019年9月2日(月)
in南港野鳥園
シギチドリがいっぱい
チュウヒも飛んだ
最近ブログで南港のシギチが賑やかそうだ。鳥までの距離が遠く、窓ガラス越しになるので、あまり好きな所ではないが、思わぬ珍鳥が入ることも多々あるので見過ごせない。とにかく行くべしと出かけてみた。意外に多くのカメラマンで窓はほとんど空きがない。仕方なく後ろ側から構えて撮る。聞くと、この時期のほとんどの種類が出ているらしい。私的に嬉しいのはキリアイコオバシギ。コオバシギは比較的近くにオバシギ数羽の中にいるというが、未だに判別が難しくて苦手種。サブターミナルバンドが決め手というが、それが何だかよく分からない。とりあえずオバシギの群れを数枚撮っておいて、遠い水際のキリアイから探す。その内にオグロシギオオソリハシシギ等、確かに色々の種類を確認。今日は当り日のようだ。午後になると見やすい場所に移動してくれて、コオバシギも結構分かるようになった。エリマキシギアカアシシギに、オオメダイチドリっぽいのや、コアオアシシギっぽいのも居る。ツルシギも居たそうだがこれは撮れず。その内突然、チュウヒが飛び出して長いこと飛び回った。最後にミサゴも飛び出してチュウヒは隠れたが、お陰でシギチは皆居なくなった。何気なく来た割に大漁成果で、汗を拭きふき残暑の道を帰った。
    
 キリアイ
 今日の一番人気
    
 オグロシギ
 一度きりのチャンス
    
 オオソリハシシギ オグロシギと似ているが、比べると嘴以外に羽の模様が違う  右端の写真、左側はオバシギ
  
 オバシギ 4羽+居た                                右端の写真、左側はコオバシギ
    
 コオバシギ  羽のサブターミナルバンド(羽縁の内側の黒い輪郭線)が判別の決め手
     
 エリマキシギ 2羽居
    
 多分、オオメダイチドリ?
    
アカアシシギ
    
 ダイゼン
    
 キョウジョシギ                                左端の写真 奥・ハマシギ ・ソリハシシギ
    
 ソリハシシギ         ハマシギ              アオアシシギ?コアオアシシギ?
    
 チュウヒ 途中でチュウヒが飛び出して長い間飛び回ってくれた。が、シギたちは皆居なくなった・・。
    
 チュウヒ          ダイサギやカワウたちも落ち着かない      ミサゴも出てきた
2019年9月15日(日)
in大阪城
オオルリ♂成鳥他
(飛騨の森だけ)
今秋は早くに涼しい日があったが、暑さがぶり返してからはずっと暑いまま。久しぶりに大阪城をのぞいたが、あまりぱっとしない日だった。かろうじて飛騨の森でオオルリ♂成鳥が居てくれたが、いまいちピントが合いにくかった。同じ処辺にサンコウチョウも飛び回り、結構チャンスは多かった。ま、渡りの時期はこれから、又いろいろ出て来るだろう。
    
 ??ムシクイ                               オオルリ成鳥♂
    
 サンコウチョウ 今の時期はあまり綺麗じゃない・・・
2019年9月16日(日)
in三島江
オオジシギ?など
相変わらず暑いが、三島江のオオジシギが気になる。毎年の事で、一度は撮っておかないと気が納まらない、変な習性になってしまった。丁度休耕田には、シマアジやトモエガモの♀が居るらしいので夕方にかけて探しに出かけたが、シマアジだけで、トモエガモ♀は見つけられない。オオジシギは昨年と同じ田んぼの畦に2羽を確認したが、草に隠れて動かないので、帰りに再度寄ることにして他の場所に移動。727の場所でクサシギを見つけ、タシギが5・6羽集まっているのを見、唐崎の方を回った後、最初のオオジシギの場所へ戻ったら、何と、草刈りをしている!大方半分が終わり、1羽は既にどこかへ移動したようで居ない。西側の1羽だけが相変わらず草に潜んでいるが、草刈機が近づくにつれてソワソワし出して、ついに飛び出し、周囲を飛び回りだした。あぁ、一巻の終わり・・。あきらめて帰ろうとしたら、再び戻って来て、2本隣の畦に着陸。駆け寄って見ると、コンクリートの境の中にいる。むしろ脚を含めて全身を見せてくれている。嬉しい。気をもんだが、結局オオジシギは一応これで良し。かなり薄暗くなった三島江を後にして、夕方の通り雨を気にしながら、ひたすら淀川から神崎川へ、そして我が家へとペダルを踏んだ
    
 オオジシギ?同じ畦に2羽。草刈りが始まり、左端のは居なくなった。残った1羽もソワソワ動き出し、ついに飛んだ。
    
 オオジシギ? しばらくすると、また近くに戻り、全身が見れた。                    イカルチドリ?
    
 シマアジ
    
 クサシギ
    
 タシギ 多かった。1カ所に5・6羽居る休耕田もあった。
2019年9月17日(火)
in猪名川公園
コサメ&エゾビタキなど
家から比較的近い、猪名川周辺はどうだろうかと、のぞいてみたが、ひっそりと静か。それでもコサメビタキエゾビタキキビタキ♀が居て、秋の渡りは着々とすすんでいるようだ。
    
 エゾビタキ
    
 コサメビタキ
2019年9月19日(木)
in大阪城
キビタキ♂♀・オオルリ
今時期の定番のサンコウチョウはいつもよく出ていたが、キビタキとオオルリをサッサと撮ってしまいたい。ならばやはり大阪城でしょう、と出かけてみた。幸い今日はなんとか居てそうだ。先ず梅林の奥でキビタキ♂をゲット。次に音楽堂横にオオルリの若♂が花絡みで撮れると聞いたが、難しそう。しばらく他をウロウロして、また戻って見ると、皆さんカメラを向けている。1時間ぶりにやっとオオルリの若が出てきたところだそうだ。ラッキー!花絡みは花に隠れて半身だけ。代わりに、エゾビタキが花絡みで撮れていた。帰りに飛騨の森でキビタキ♀が居たのでついでに撮って、今日の目標は完。
    
 キビタキ♂
     
 キビタキ♀
    
 オオルリ若♂
    
 エゾビタキ
2019年9月25日(水)
in三島江
ノビタキ探し・偶然ヨシゴイ
in南千里公園
偶然ホトトギス
先日行った時はコスモスが一分咲きでノビタキはまだ無理のようだったが、そろそろ出ているようだ。昨日は川原の堤防斜面に居たとか。先ず三島江のいつもの休耕田をのぞき、前回見損ねたトモエガモ♀を探すが、どれなのかややこしくてよく分からない。仕方ないから順番に居るカモをかたっぱしに撮っておく。と、何か違う感じの鳥が居る・・。これって、「ヨシゴイじゃない・・?」過去にこの辺りで聞いたことが無いので私自身驚いたが、うん、間違いなくヨシゴイだ!傍にやって来たカメラマンさんにいうと、最初キョトンとしておられたが、慌てて誰かに電話し始めた。結構水の中でのんびりしていたが、カメラマンが増えてくると境のコンクリートに上がったり、ソワソワして、ついに向う側の田んぼに身を隠した。私は直ぐに堤防へ移動したが、他の人達の話では、それっきり終日出てこなかったそうだ。堤防では、すぐにノビタキが出てきた。河原側に何人か居たが、こちら側からの方が良く見れた。結構何度もチャンスがあり、早い目に引きあげた。時間があるのでJR千里丘経由の道を試してみると、案外すんなり行けて、ついでに南千里公園に寄ったら、丁度ホトトギスが出たところで、皆さんと一緒にゲット。思いがけず大物が撮れて、今日はヨシゴイと共に大ヒット日となった。
(ちなみに、帰って画像をチェックしたら、
トモエガモらしきが数枚入っていた。ラッキー!)
    
 シマアジ                トモエガモ♀タイプ
    
 ヨシゴイ
     
 ヨシゴイ                                  【河川敷で】 ノビタキ
    
 ノビタキ 顔に少し黒味があるように思えるが、♂かな?
    
 【千里南公園】ホトトギス
2019年9月26日(木)
ミニ遠征
ワライカモメ→居るが、見れず
オオアジサシ→5羽を確認
偶然鳥友さんからミニ遠征のお誘い。一種は一度は諦めたワライカモメと、新たにオオアジサシの二種珍鳥狙い。私的にはオオアジサシは過去に撮っているので、ワライカモメが初見種となる。早朝集合で、思ったより車はスムース。先に近い方のワライカモメに寄るが、居たのはセイタカシギの群れ30+とサギ類だけ。カメラマンが少なく、潮目も夕方の方が良さそうで、すぐに第二のオオアジサシへ移動。こちらはすぐに見つかり、撮り放題。最終的に五羽を確認したが、いずれも杭にじっと止まっているばかりで、羽広げはかなり偶然的。潮目に合わせて再度ワライカモメに戻ったら、今度はかなりのカメラマンがいたが、本命は見当たらず。諦めて帰路へついた。
    
 オオアジサシ
    
 オオアジサシ
    
 ウミウに追われて飛んだオオアジサシ  ウミウ                   ウミネコ・前 大きさを比べて・・ ウミネコ幼鳥?
    
 (2012.8.7の時の)オオアジサシ セイタカシギ 30羽+居た                この子の足めちゃ長い!
2019年9月28日(土)
尼崎公園→キビタキ♂他
千里南公園→ホトトギス
午後時間が空いたので昨日は色々出たという猪名川に行ってみた。残念、昨日と打って変わり今日はキビタキ♂だけ。でもたっぷり愛想してくれた。居ないなら長居は無用と、千里南公園に移動。こちらは又ホトトギスが出ている。前回と同じ個体かもしれない・・。ま、午後を有効に過ごせて良かった。
    
 【尼崎公園】キビタキ♂ 他にキビ♀、コサメビタキも居た。午前中はツツドリ赤色型が居たらしい。
    
 【千里南公園】ホトトギス 多分、先日と同一個体か?
2019年9月30日~10月1日
四国霊場88ケ所巡り
第5回目・第24番~30番



室戸岬から見下ろした海
月に一度の霊場巡りだが、日の経つのが早く、先月分を整理できた頃にはもう次の回が回ってくるような気がする。前月からは一泊二日となり結構大変。今回は第5回目で、第24番~30番まで。巡る順番は前回同様逆コースで、30番→24番となっている。

9/30(月)大阪7:40→鳴門大橋屋→徳島自動車道→(11:30昼食)→高知自動車道→13:15善楽寺→国分寺→15:00大日寺→16:30龍馬の宿・南水(泊)
10/1(火)宿7:30→9:20神峯寺→10:55金剛頂寺→11:50津照寺→12:35最御崎寺→休憩2か所→19:30大阪


お寺の数は初日3ケ寺、二日目4ケ寺の計7ケ寺。バスの移動時間が往き5.5時間、帰り8時間と半端なく、参拝している時間より遥かに多かった。それでも個人で行くことを思うとずっと効率的だ。今回は、人気の室戸岬や高知市街を訪れるのもちょっと魅力的。坂本龍馬や、はりまや橋など少し観光気分もあったような・・。
各寺ごとに味わいがあり、今回は2ケ寺で鐘をついてみた。ゴ~ンと空気を震わす音がなんともたまらない。残念なのは、本堂など中ではゆっくりを本尊を見ていられないし、ましてや写真をとるのはご法度。今までに許されたのは2ケ寺のみ。私的には何とかご本尊様を撮って帰りた~い。
    
 「土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た~」 市内には市電が走る。宿は「龍馬の宿・南水
   
 一日目の昼食           夕食                 二日目の朝食
【第30番 百々山 東明院 善楽寺】
宗派:真言宗豊山派 本尊:阿弥陀如来 開基:弘法大師 創建:大同年間(806810
真言:おん あみりた ていせい からうん


【歴史・由来】
高知城へ約6km、JR高知駅まで約kmというこの辺り一帯は、神辺郷といわれ、土佐ではもっとも古くから栄えた地方である。
縁起によると、桓武天皇の在位(781~806)後の大同年間に弘法大師がこの土地を訪れ、土佐国一ノ宮・総鎮守である高嶋大明神の別当寺として善楽寺を開創され霊場と定められた。以来、神仏習合の寺院として栄えている。特に土佐2代藩主・山内忠義公の頃には興隆・繁栄を極めた。しかし、明治維新による廃仏毀釈の難で寺運は一変し、昭和4年に再興されるまで苦難の日々が続いた。その後、2ケ寺で納経出来るなどの混迷を経て、平成6年1月1日に善楽寺は第30番霊場とされ、現在に至る。(本堂は昭和58年に改築)
本堂左隣の大師堂は大正時代の建立で、厄除け大師として知られ、厄年にお参りしたり、交通安全などを祈願すると霊験あらたかだと伝えられる。境内には「子安地蔵堂」があり、弘法大師作と言われるやさしいお顔の地蔵尊が祀られている。難産の妊婦を大師が祈願し安産させたという伝説があり、子宝祈願・水子供養に参詣する人も多い。


【見どころ】
梅見地蔵:子安地蔵堂の左、文化13年の建立。首から上の病や悩みにご利益あり。近年では脳の病気、ノイローゼの快癒から合格祈願をする人       も多い。
天邪気: 境内の手水舎の下で石の手水を支えている邪鬼。天邪鬼は毘沙門天像についている鬼の顔がその原形。
     
 善楽寺本堂        大師堂            十一面観音菩薩像     子安地蔵堂       梅見地蔵
【第29番 摩尼山 宝蔵院 国分寺】
宗派:真言宗智山派 本尊:千手観世音菩薩 開基:行基菩薩 創建:天平13年(741)
真言:おん ばざらたらま ぎくり

【歴史・由来】
土佐の国分寺といえば、平安中期の歌人・紀貫之の著「土佐日記」が有名。女性の筆に託して書かれた仮名日記である。貫之が国司として4年間滞在した国衛は国分寺から北東1kmで「土佐のまほろば」と呼ばれ、政治・経済・文化の中心地であった。聖武天皇が「金光明最勝王経」を書写して納め、全国68ケ所に国分寺を建立したのは天平13年の頃。土佐では行基菩薩が開山し、天下泰平と五穀豊穣、万民の豊楽の祈願所として開創され、歴代天皇から厚い尊信と加護を受けてきた。
縁起によると、弘法大師が弘仁6年(815)頃この地を巡錫し、毘沙門天像を彫造して奥の院に安置された際、本堂で真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修められた。以来、「星供の根本道場」となっている。
千手観世音菩薩を祀る本堂(金堂)は、長宗我部国親・元親親子が永禄元年に再建。外観は柿葺き、寄棟造りで天平様式を伝え、内部の海老紅梁は土佐最古で、室町時代の特色がみられ、国の重要文化財指定である。また、仁王門は山内忠義の寄進で建立、昭和初めに再建された。境内は全域が国の史跡に指定され、苔が美しく「土佐の苔寺」と言われる。


【見どころ】
金堂庭園句碑国指定文化財。本堂を背にして、桜・牡丹・紫陽花・萩と四季折々美しい参道。創建当時の七重塔の礎石、杉苔       の庭園、高浜虚子の子供達の句碑がある。
弥生時代の住居跡昭和52年の発掘調査で発見
    
 国分寺の仁王門          本堂(金堂)柿葺き・寄棟造り   大師堂          酒断地蔵尊
【第28番 法界山 高照院 大日寺】
真言宗智山派 本尊:大日如来 開基:行基菩薩 創建:天平年間(729~749)
真言:おん ばさら だどばん 

【歴史・由来】
縁起によると、聖武天皇の勅願で、行基菩薩が大日如来の尊像を彫像し、堂宇に安置して開創された。その後寺は荒廃したが、弘法大師が弘仁6年四国巡礼し、人々の安泰を祈り、楠の大木に爪で薬師如来像を彫って復興された。以後隆盛を誇り、七堂伽藍他を備え、慶長年間には土佐藩の祈願寺となったが、明治維新の神仏分離令により一時廃寺となった。本尊は「大日堂」と改称し本堂に安置し、明治17年に再興され現在に至る。
行基菩薩作という金剛界大日如来坐像は高さ146㎝の寄せ木造りで四国では最大級。また、脇仏の聖観世音菩薩立像は智証大師作で、これも高さ172㎝と、共に国の重要文化財指定である。大師ゆかりの楠の霊木は「爪切り薬師」と呼ばれ、奥の院となるが、大風で倒れ、跡地に一堂を建て安置している。この霊木は頭・眼・鼻・耳・顔など首から上の病に霊験があらたか。
薬師堂の脇には土佐名水40選の大師御加持水が湧く。


【見どころ】
本堂・大師堂野市百人衆(武将・長宗我部軍の遺臣たち100人)を使い水田を開拓させて、土佐郷土の初めとなした。
龍河洞日本三大鍾乳洞のひとつ。全長4km。
    
 大日寺の門          本堂                大師堂             爪切り薬師
【第27番 竹林山 地蔵院 神峯寺】
真言宗豊山派 本尊:十一面観世音菩薩(行基作) 開基:行基菩薩 創建:天平2年(730)
真言:おん まか きゃろにきゃ そわか


【歴史・由来】
縁起によると歴史は古く、神功皇后(201~69)の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源という。聖武天皇(724~49)の勅を受けた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。その後大同4年の頃、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けた。
明治初期、神仏分離令により、天照大神などを祀る神峯神社だけが残り、本尊は26番金剛頂寺に預けて廃寺となった。明治中期に、元僧坊跡に堂舎を建立し本尊を帰還させ、霊場は復活。だが寺格が無く、大正元年、茨城県の地蔵院を移して認可を得るなど苦労して現在に居る。
幕末の頃、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の母が息子の出世を祈願して往復20kmの道を21日間日参したという話があり、また昭和30年代、愛知県の水谷しづさんが大学病院からも見放された「脊髄カリエス」をこの峰の霊験を得て全治したという実例もある。


【見どころ】  石段沿いの景観・石清水鐘楼の裏手に湧く石清水。病気平癒に霊験あらたかと伝えられ、お遍路さんの喉を潤す。
    
 神峯寺の門         長い階段が続く 画面右手には名水が・・  本堂              大師堂
【第26番 龍頭山 光明院 金剛頂寺】
真言宗豊山派 本尊:薬師如来 開基:弘法大師 創建:大同2年(807) 
真言
:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか


歴史・由来
室戸岬から海岸沿いに西北に向かうと、硯が産出するので硯が浦ともいわれる「行当岬」がある。その岬の頂上、原始林の椎に覆われた静寂な所に金剛頂寺がある。室戸三山の一寺院として「西寺」と呼ばれ、朱印も「西寺」と捺される。当寺から4㎞のところに女人堂と呼ばれる不動堂がある。若き弘法大師はこの間を毎日行き来し修行した霊地であり、行道したことから、「行当」はその名残かもしれない。
縁起によると、大師が平城天皇(806〜9)の勅願により、本尊の薬師如来像を彫造して寺を創建したのは大同2年と伝えられる。創建のころは「金剛定寺」といわれ、女人禁制とされて、婦女子は行当岬の不動堂から遙拝していたという。次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、寺名を改め、さらに次の淳和天皇も勅願所として尊信し、住職は第十世まで勅命によって選ばれ、以後、16世のころまで全盛を誇った。室町時代に堂宇を罹災したが復興ははやく、長宗我部元親の寺領寄進や、江戸時代には土佐藩主の祈願所として諸堂が整備された。昭和になって正倉院様式の宝物殿「霊宝殿」が建立され、平安時代に大師が各地を旅したときのわが国唯一の遺品である「金銅旅壇具」など、重要文化財が数多く収蔵されている。


【見どころ】
霊宝殿 収蔵の木造阿弥陀如来坐像、板彫真言八祖像、銅造観音菩薩立像、金銅密教法具、金銅旅壇具、銅鐘、金剛頂経等すべて国指定重要     文化財。
知光上人御廟 奴草  鯨供養塔 鯨の供養塔。別名「クジラ寺」 
一粒万倍の釜 大師が炊いた米が一万倍に増え、人々を飢えから救ったという釜
    
 金剛頂寺の厄坂(61歳 男坂42歳・女坂33歳&19歳) 厄坂を上りきると山門  本堂    本堂の中(珍しく撮影可)
    
 大師堂          一粒万倍の釜        がん封じの椿      境内から眺めた室戸岬
【第25番 宝珠山 真言院 津照寺】
真言宗豊山派 本尊:地蔵菩薩(楫取地蔵) 開基:弘法大師 創建:大同2年(807) 
真言:おん かかかび さんまえい そわか

歴史・由来
室津港を見下ろす小山の上にたたずむ「津照寺」(しんしょうじ)は、通称「津寺」(つでら)と呼ばれる。弘法大師空海上人が四国御修行の砌、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠(ほうしゅ)に似ているところから霊地とし地蔵菩薩を自ら刻まれ本尊とし、宝珠山真言院津照寺と号された。
はじめ長曽我部氏の庇護をうけ津寺村と称し、その後山内氏が国主となって、一層の加護を受け、寺院の運営も全て藩営とし、中老格をもって遇され隆盛を極めた。が、明治の改革で地領は政府に没収亦は小作農民に払い下げとなり寺は廃寺となった。荒廃のまゝ約十数年、明治16年に寺名復興を許され今日に至るが、寺域は極度に狭められ、本堂が地蔵堂としてのこり御殿といわれた庫裏の一角が当時小学校として残った。その後小学校は移転され、大師堂は昭和38年、本堂は昭和50年に新築された。

【楫取地蔵(かじとりじぞう)の由来】
御本尊延命地蔵を楫取地蔵という由来は、慶長七年秋の頃山内家初代一豊公が室戸の沖で暴風雨に遭い困難した時、何処からともなく大僧が現れ船の楫を取って御船は無事室津の港に入港する事が出来た。ほっとした所で先程の大僧の姿が見えない。ともあれ津寺へ参詣すると本尊地蔵菩薩の御体が濡れており、大僧が本尊地蔵菩薩であったと知り、本尊を楫取地蔵と呼ぶようになった。この霊験記は、旧記南路史に明記されている。また今昔物語には「地蔵菩薩火難ニ値ヒ自ラ堂ヲ出ルヲ語ル」第六として津寺の本堂が火難に遭った時、本尊地蔵菩薩が僧に身を変えて村人に知らせ、火難を逃れたという物語が出ており、古くは火事取りの意味でも、「かじとりじぞう」と呼ばれている。

【見どころ】
境内 本堂は参道正面の小高い山の上に鎮座し、朱門をくぐり右へ入ると大師堂がある。本堂に向う石段は真直ぐ天に続くかのようにかなりの急勾配。石段の途中には竜宮城を思わせるような
鐘楼門兼仁王門があり、昇りつめた所の本堂の正面には太平洋が広がっている。眼下には室津川の河口と室津港、右方には行当岬と深緑の隙間に26番金剛頂寺が見える。
また参道の左に一木権兵衛ゆかりの「
お釜岩」が有り、参道途中から左に入ると室津の港を、命を賭して改修した一木権兵衛が奉られる一木神社がある。

    
 津照寺の入口       鐘楼門兼仁王門まるで竜宮城)     本堂              大師堂
【第24番 室戸山 明星院 最御崎寺】
真言宗豊山派 本尊:虚空蔵菩薩 開基:弘法大師 創建:大同2年(807) 
真言:のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきや まりぼり そわか

 
【歴史・由来
「修行の道場」とされる土佐最初の霊場。太平洋に突出する室戸岬の突端にある。黒潮のしぶきで鋭角になった黒い岩礁、すさまじい響き、空と海が一体となり襲う洞窟の樹下で、藤衣を被って虚空蔵求聞持法の修法に励む青年・空海がいた。延暦11年(792)、弘法大師19歳のころという。この詳細は、大師が24歳のときの撰述『三教指帰』に次のように記されている。
「…土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す…」
大同2年、唐から帰朝した翌年に大師は勅命をうけて再度、室戸岬を訪ねている。虚空蔵求聞持法を成就したこの地に、本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して本堂を建立、創した。嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信が厚く、また、足利幕府の時代には土佐の安国寺となり、戦国・江戸時代にも寺運は隆盛した。当時は、真言密教の道場とされ女人禁制の寺であり、女性の遍路は遙か室戸岬の先端から拝んだそうだが、明治5年に解禁された。室戸岬では東西に対峙している26番・金剛頂寺の「西寺」に対し、最御崎寺は「東寺」とも呼ばれ、納経帳等の寺名には東寺と記される。大師の悟りの起源の地は、南国情緒の室戸阿南国定公園の中心でもある。


【見どころ】 
国指定重要文化財:石造如意輪観音半跏像が有名。ほかに木造薬師如来坐像、木造月光菩薩立像、三足の「漆塗盤」。いずれも宝物館にあり。
御厨人窟(みくろど):大師が虚空蔵求聞持法の苦行をしたと伝えられる洞窟。左手が修行用の洞窟、右手が生活用の洞窟
鏡石斑レイ岩で小石でたたくと鐘のように音を発し、冥土まで届くと言われる(空海の七不思議)
明星石:大師が修行中に、星のように光を放ち、毒龍の妨げを防いだという伝説の石。海岸で斑レイ岩として見かけることができる。
    
 最御崎寺の門        鐘付き堂・私も鐘をついてみた  本堂             大師堂
    
 鐘石(空海の七不思議)    室戸岬の灯台   御厨人窟(みくろど)左右に洞窟がある    青年空海

8     月
2019年8月6日(火)
in伊吹山
イヌワシ出ず
ここ数年毎年伊吹山へ行くのだが、ずっとイヌワシに外れっぱなし。今年も涼を兼ねて出かけたがやはりハズレ。というよりは、多分帰りのバスの時間が3:50と早すぎて、一番イヌワシが出そうな夕方の時間まで待てないからだと思う。(う~ん、でも当初撮れていた頃は昼間によく出ていたっけ?)どっちにしても今回もお花ばかり撮ることになった。昼過ぎまで霧が深く、結構涼しかったけど・・・。
    
 ホオジロ          ホオジロの雛?         クガイソウ           コオニユリ
    
 カワラナデシコ       ミツバフウロウ        ミヤマコアザミ        シモツケソウ
    
 ヤマホタルブクロ      オオバギボウシ       クサボタン           シシウド
    
 キリンソウ       アキノキリンソウ          メタカラコウ      コウゾリナ
2019年8月19日(月)
in三島江
オオジシギ→見れず
毎年この時期は鳥撮りは休んで図書館通いで過ごしている。やっと、少し涼しくなった昨今、三島江のジシギが気になる頃でもあり、連日の運動不足を補うべく、マイサイクルで出かけたが、現実はそう甘くない。やっとタマシギの♂とセッカに会えただけ。また暑さがぶり返すだろうし、もう少し読書にふけっていたい。
    
 タマシギ
    
 セッカ
2019年8月26日(月)
in大阪城
サンコウチョウ&コルリ
そしてキマユムシクイ?
猛烈な暑さが引いて、朝晩はかなり涼しくなってきた。同時に、鳥たちの秋の渡りも始まってきて、大阪城ではコルリサンコウチョウで賑わいだした。どうやら私もそろそろ図書館通いから鳥見の生活に戻る時が来たようだ。それにしても、今夏は司馬遼太郎の「坂の上の雲」全巻7冊を読破出来たのが何よりもうれしい。先に田辺聖子の作品を網羅したいと読みかけたが、私には今一つ興味がわかず4・5冊読んだ後、司馬作品に切り替えて正解だった。日清・日露戦争の顛末を辿った作品だが、その当時の日本の歩みについて全く疎い自分を思い知った。途中でネットのウキペディアで「日清戦争」と「日露戦争」の史実概略を並行して見ながら読んだので、一層分かり易かったかと思う。これを機に、続けて「第1次世界大戦」と「第2次世界大戦」を詳しく知り、その後の日本が歩んできた過去をしっかりと確認しておきたい。
余談に終始したが、久しぶりの大阪城は期待に違わず、楽しい鳥撮りが出来て、気分爽快!やっぱり鳥見は止められない。(豊国神社裏でサンコウチョウを追いかけていた時に偶然ムシクイを撮った。見ると脇に白線が2本ある。
キマユムシクイだと言われたが・・)
    
 (桜広場)コルリ♂若
    
 (飛騨の森)コルリ♀?
    
 (飛騨の森)ムシクイ    (豊国神社裏) キマユムシクイ?(脇の白線が2本ある)
    
 (豊国神社裏)サンコウチョウ 2羽居て、1羽はアイリングの名残があった。
    
 サンコウチョウ
2019年8月29~30日
四国霊場巡り(一泊2日)
第16番~22番
四国霊場巡りも4度目となり、前回までは日帰りツアーだったが、今回から一泊2日となった。四国も遠方になると更に二泊3日の回もあるようだ。ともあれ、今回は第16~23番札所の8ヶ寺を巡る。残念ながら、台風の影響で九州の大水害が報道されている最中、四国でも雨の確率がほゞ80%と、先ず雨を避けられない様子。仕方ない、これも霊場巡りに与えられた試練というべきか・・・。
宿泊は徳島市内ということで、巡る順番も、

8/29(木) 17番→16→20→21番、 8/30(金)  23番→22→19→18番 となった。
ところが、いざ現地に行くといずれも曇りで、二日目最初の第23番のみ、本堂までの数分間小雨で傘をさしたが、それ以外は全く傘なしでOK。多分参加者は皆、なんともラッキーなお計らいだと神仏さまに感謝したのではないだろうか。ツアー4度目となると私もかなり慣れてきて、各寺のユニークな個性が面白い。特に第20番鶴林寺は自分の名前が「田鶴子」と鶴にご縁があり、寺の随所に鶴が活躍しているのが何ともいい気分。また第23番では厄坂での階段の一段ごとに一円玉を置いていくという話や、22番の平等寺では本堂の中の撮影が許され、写真を撮りまくった等々。バスの隣席の方とは自分の分身かと思う程気が合って、話が尽きなかったり・・。
8月9日(木) 【第17番 瑠璃山 真福院 井戸寺】
真言宗善通寺派 本尊:七仏薬師如来 開基:天武天皇 創建:白鳳2年(673) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

(歴史・由来)
7世紀後半の白鳳時代は、清新な日本文化が創造された時期で、律令制もようやく芽生えて、阿波の国にも国司がおかれた。この国司に隣接して、天武天皇(在位673〜86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であったという。寺域は広く八町四方、ここに七堂伽藍のほか末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり、隆盛を極めた。本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、七難即滅、七福即生などの開運に信仰が多く、聖徳太子の作と伝えられる。また、脇仏の日光・月光菩薩像は行基菩薩の彫造と伝えられる。のち弘仁6年(815)に弘法大師がこれらの尊像を拝むために訪れたとき、檜に像高約1.9メートルの十一面観音像を彫って安置した。この像は、右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶をもった姿形で、現在、国の重要文化財に指定されている。大師はまた、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。そこで付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。その後寺は焼失、罹災等もあり、本堂が再建されたのは万治4年(1661)。

(見どころ
面影の井戸 大師が掘った伝説の井戸で、覗き込んで自分の姿がうつれば無病息災、うつらなかったら3年以内の厄災に注意する。
  石造の大師像で「水大師」ともいわれ、5日、7日などと日数を限って日参すればご利益ありとされ、日限大師と呼ばれている
仁王門  阿波10代藩主・蜂須賀重喜公が大谷別邸から移築し寄進した門
    
 井戸寺の本堂            大師堂             日限大師            面影の井戸
第16番 光耀山 千手院 観音寺
高野山真言宗 本尊:千手観世音菩薩 開基:弘法大師 創建:天平13年(741) 真言:おん ばざらたらま きりく そわか

(歴史・由来)
寺に伝わる宝物に『観音寺縁起』一巻がある。巻末に「享保十乙秋穀旦 南山沙門某甲謹書」の署名があり、享保10年(1725)に高野山の僧が筆写したことがわかる。その冒頭で「南海道阿波国名東郡観音寺邑 光耀山千手院観音寺縁起」と書き出し、観音寺が弘法大師によって創建され、大師自ら千手観音像を彫造して本尊にしたこと、また脇侍像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだことや、徳島藩主の蜂須賀綱矩公が新築・移転に協力したことなどの寺史が記されている。この『縁起』とは別に、寺伝では聖武天皇(在位724〜49)が天平13年、全国68ヶ所に国分寺・国分尼に寺を創建したときに、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹とされている。弘法大師がこの地を訪ねているのは弘仁7年(816)のころで、本尊像などを彫造して再興し、現在の寺名を定めたとされている。
その後、様々の事変を越え、また罹災等もあり、蜂須賀家の帰依を受けて万治2年(1659)に宥応法師によって再建され、現在に至っている。
大正2年ころ、両親につれられて参拝した盲目の高松伊之助さんという方が、本尊のご利益により目が見えるようになり、松葉杖を奉納したという話がある。 遍路道に面した和様重層の鐘楼門は、むかしの面影を残し堂々とした風格がある。


(見どころ)
夜泣き地蔵 子供の夜泣きを止めてくれる地蔵尊で、子供の病気平癒、健康と成長を祈願する。
絵馬 炎に包まれた女性が描かれた奉納額で、本堂内に掲げられている。明治時代にあった遍路の実話という
天狗久 人形浄瑠璃の人形師名。国府町は人形師を多く輩出している。
    
 観音寺の鐘楼門           本堂                 大師堂               夜泣き地蔵
【第20番 霊鷲山 宝珠院 鶴林寺】
高野山真言宗 本尊:地蔵菩薩(伝弘法大師作) 開基:弘法大師 創建:延暦17年(798) 真言:おん かかかび さんまえい そわか

(歴史・由来)
標高470メートルの鷲が尾山頂にあり、遠く紀州や淡路島や、遙かに太平洋を眺望できる風光明媚な霊山である。樹齢千年を超すような老杉、檜や松の巨木が参道を覆っている。寺伝によると延暦17年、桓武天皇(在位781・806)の勅願により、弘法大師によって開創された。大師がこの山で修行していたとき、雌雄2羽の白鶴がかわるがわる翼をひろげて老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護していた。この情景を見て歓喜した大師は、近くにあった霊木で高さ90センチほどの地蔵菩薩像を彫造、その胎内に5.5センチぐらいの黄金の地蔵さんを納めて本尊とし、寺名を鶴林寺にしたといわれる。また、境内の山容がインドで釈尊が説法をしたと伝えられる霊鷲山に似ていることから、山号は「霊鷲山」と定められた。以来、歴代天皇の帰依が篤く、また源頼朝や義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将にも深く信仰されて、七堂伽藍の修築や寺領の寄進をうけるなど大きく栄えた。阿波一帯の寺が焼失した「天正の兵火」にも、山頂の難所にあるためか難を免れている。お鶴さんと親しまれ、山鳥が舞う大自然そのままの寺である。

(見どころ)
波切り地蔵・地蔵菩薩立像
徳島県最古の丁石 
鶴林寺の室町時代の年号を刻んだ丁石が、本堂から遍路道沿いに11基残っている。1丁は約109メートル。
三重塔(県指定重要文化財)
     
 鶴林寺の山門(左右に鶴の像) 本堂                 本堂前の左右に鶴の阿吽像           大師堂
【第21番 捨心山 常住院 太龍寺】
高野山真言宗 本尊:虚空蔵菩薩 開基:弘法大師 創建:延暦12年(793) 真言:のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか


(歴史・由来)
「西の高野」とも称される。四国山脈の東南端、標高618メートルの太龍寺山の山頂近くにある。樹齢数百年余の老杉の並木がそびえ、境内には古刹の霊気が漂う。弘法大師が19歳のころ、この深奥の境内から南西約600メートルの「舎心嶽」という岩上で、100日間の虚空蔵求聞持法を修行されたと、大師の著作「三教指帰」に記されている。虚空蔵求聞持法とは、真言を百万遍となえる最も難行とされる修法。縁起によると延暦12年、桓武天皇(在位781〜86)の勅願により堂塔が建立され、弘法大師が本尊の虚空蔵菩薩像をはじめ諸尊を造像して安置し、開創した。山号は修行地の舎心嶽から、また寺名は修行中の大師を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。
皇室や武家の尊信が厚く、子院12ヶ寺をもつほどに栄えていた。天正の兵火での焼失や何度か罹災したが、その都度藩主の保護をうけ再建されている。仁王門は鎌倉時代の建立で、他の堂塔は江戸時代以降に復興。徒歩では、中腹の駐車場から坂道を30分も要し、四国巡礼者にとって、屈指の難所であったが、平成4年ロープウエーが開通した。

(見どころ)
舎心嶽 全長2,775メートルで西日本最長。岩の上にブロンズ製の「求聞持修行大師像」が東向きに坐っている。舎心は「心がとどまる」の意。
ロープウェイ  
丁石
 南北朝時代のもの。18基残っているうち、11基が徳島県文化財指定。
    
 ロープウエイ        太龍寺の本堂          大師堂       捨心嶽求聞持修行大師像
8月30日(金) 【第23番 医王山 無量寿院 薬王寺】 
高野山真言宗 本尊:厄除薬師如来(伝弘法大師作) 開基:行基菩薩 創建:神亀3年(726) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか


(歴史・由来
「発心の道場」といわれる阿波最後の霊場。高野山真言宗の別格本山でもある。厄除けの寺院としては全国的に有名で、「やくよけばし」を渡って本堂に向かう最初の石段は、「女厄坂」といわれる33段、続く急勾配の石段「男厄坂」が42段で、さらに本堂から「瑜祇塔」までは男女の「還暦厄坂」と呼ばれる61段からなっている。各石段の下には『薬師本願経』の経文が書かれた小石が埋め込まれており、参拝者は1段ごとにお賽銭をあげながら登ると言われる。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願によって行基菩薩が開創したとされている。弘仁6年(815)弘法大師が42歳のとき自分と衆生の厄除けを祈願して一刀三礼し、厄除薬師如来坐像を彫造して本尊とし、厄除けの根本祈願寺とした。大師は、この厄除け本尊の功徳を平城・嵯峨・淳和天皇の3代に奏上し、各天皇は厄除けの勅使を下して官寺とされた。
文治四年(1188)、火災で諸堂を焼失したが、厄除け本尊は光を放ちながら飛び去り、奥の院・玉厨子山に自ら避難した。のちに後嵯峨天皇が伽藍を再建して新しい薬師如来像を開眼供養すると、避難していた本尊が再び光を放って戻り、後ろ向きに厨子に入られたと伝えられる。以来、「後ろ向き薬師」として秘仏にされている。境内には吉川英治著『鳴門秘帖』、司馬遼太郎著『空海の風景』の石碑がある。

(見どころ)
瑜祇塔(ゆぎとう) 高さ29メートルの楼閣。上方が四角、下方が円筒形で一重の塔。天と地の和合を説く『瑜祇経』の教えに基づき、屋根に五柱の相輪が立つ
厄坂の賽銭 お賽銭をあげながらお参りすると、身に降りかかる厄難が落ちるという
肺大師 本堂左手にあり、ラジウムを含んだ霊水で、肺病などの諸病に効くという云われがある。
    
 薬王寺の本堂          大師堂               厄坂              瑜祇塔
【第22番 白水山 医王院 平等寺】
高野山真言宗 本尊:薬師如来 開基:弘法大師 創建:弘仁5年(814) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか


(歴史・由来)
弘仁5年(814年)、弘法大師がこの地を訪れ禅定に入られたころ、心に薬師如来さまの姿が浮かんだので、、「あらゆる人々の心と身体の病を平等に癒し去る」との御誓願を立てられました。大師は修行を志し加持水を求めて井戸を掘られたところ、乳のごとき白い水が湧き溢れました。その霊水で身を清め、百日間護摩行を続け、先のお薬師さまの姿を刻まれて本尊とし、山号を白水山、寺号を平等寺と定められました。
以後、寺は栄えたが江戸初期頃までに一度興廃し、1680年に伊予の中興一世照俊阿闍梨らによって再興され、現在に至っている。現存の本堂が再建されたのは1737年、大師堂は1824年建立。
大師が掘られた霊水の湧く井戸は男厄除坂の左下にあり、どんな日照りにも枯れることなく湧き出ており、現在は無色透明で飲用に適し?、万病に効く「弘法の霊水」と言われている。


(見どころ)
本尊・薬師如来像  天井絵
箱車
 大正・昭和時代に医者に見放された足の不自由な人が巡礼を始め、この寺で霊験を授かって足が治り、記念として本堂に奉納された。
    
 平等寺の門・左右に仁王様    本堂寺中に5色の紐が通っている  御本尊・薬師如来像    大師堂
    
 珍しく本堂の中の撮影可       天井で睨む竜虎像 左・龍 右・虎                天井の絵が見事
【第19番 橋池山 摩尼寺 立江寺】
高野山真言宗 本尊:延命地蔵菩薩 開基:行基菩薩 創建:天平19年(747) 真言:おん かかかび さんまえい そわか
 
(歴史・由来)
高野山真言宗の別格本山。「四国の総関所」として四国八十八ヶ所の根本道場といわれ、また「阿波の関所」としても知られる。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願で行基菩薩によって創建された。勅命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈って、念持仏として5.5cmの小さな黄金の「子安の地蔵尊」を彫造した。これを「延命地蔵菩薩」と名づけて本尊にし、堂塔を建立した。弘仁6年(815)、弘法大師が当寺を訪れ、このご本尊を拝し、あまりに小さく後世になって失われる恐れがあると、自ら一刀三礼をして新たに像高1.9mもある大きな延命地蔵像を彫造され、その胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。このときに寺名を「立江寺」と号した。当時は現在地より西へ400mほど山寄りの景勝地にあり、七堂伽藍を備えた巨刹であった。その後「天正の兵火」で壊滅的な打撃を受けたが本尊だけは奇しくも難を免れ、後に、阿波初代藩主・蜂須賀家政公の帰依をうけ、現在地に再建された。また、昭和49年の祝融の災にもご本尊は救出されている。昭和52年に再建された本堂の格天井画(286枚)は、東京芸術大学の教授等により花鳥風月などが描かれており、観音堂の絵天井とともに昭和の日本画を代表する文化財として高く評価されている。寺伝の「釈迦三尊図」は、国の重要文化財指定品である。 邪悪心を裁く関所寺である反面、「子安のお地蔵さん」としても親しまれている。

(見どころ)
本堂・観音堂の絵天井
肉付き鐘の緒の黒髪堂 大師堂右手にある小祠。不義をしたお京という女がこの寺に詣り懺悔すると、お京の髪の毛が逆立ち、鐘の緒に巻き上げられて残ったという伝説のお堂
白鷺橋 寺の手前。行基菩薩が白鷺に暗示をうけたと伝えられる橋
    
 立江寺の門          本堂               大師堂         黒髪堂・ガラス格子中に不義女の髪
【第18番 母養山 宝樹院 恩山寺】
高野山真言宗 本尊:薬師如来 開基:行基菩薩 創建:天平年間(729〜749) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

(歴史・由来
創建は聖武天皇の勅願により、行基菩薩が草創して、当時は「大日山福生院密厳寺」と号した。本尊には行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置されている。災厄悪疫を救う女人禁制の道場で、十九番霊場に向かって下る花折り坂から上には、女性は入れなかった。弘仁5年(814)ころ、弘法大師がこの寺で修行をしていた時に、大師の生母・玉依御前が讃岐の善通寺から訪ねてきたが、寺は女人禁制、大師は山門近くの瀧にうたれて7日間の秘法を修し、女人解禁の祈願を成就して母君を迎えることができた。やがて母君は剃髪をして、その髪を奉納されたので、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め、自像を彫造して安置され「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われた。
その後寺は焼失しているが、江戸時代になって阿波藩主の庇護をうけて繁栄し、現在の本堂や大師堂は文化、文政年間(1804〜30)に建立された。境内には玉依御前を祀る小堂があり、母君に孝養をつくして、大師 が植樹したびらんじゅは、県の天然記念物にもなっている。母君を慕う大師の心が、今尚、宿っているような寺である。


(見どころ)
玉依御前の剃髪所 大師堂の手前「大師御母公剃髪所」の石碑と小さなお堂が建ち、大師作と伝えられる「御母公像」、母君の髪の毛が安置さ             れている
弘法大師像 大師自ら彫造した像で、現在、大師堂の本尊とされている
「源義経上陸の地」石碑 境内の山裾にあり、近くの神社に義経が弓を引くいている銅像
    
 恩山寺の入口        本堂                  大師堂        母・玉依御前の剃髪のお堂



7     月
2019年7月1日~4日
in宮古島
オオクイナ・キンバトなど


(ミフウズラ・ムラサキサギは見れず)
宮古島は今回2度目。8年前の2011年7月に確か3泊4日で行った。その時は運良く車に便乗させてもらえたので、ほゞすべての種を網羅できたが、今回はレンタサイクルも電動は出払っていて普通のママチャリしかなく、結局大野山林だけしか行けなかった。一日に1度はスコールのような雨があり、あちこちに水が溜まり、いつもの池に来るはずの鳥たちも分散したようで、出が悪かった。年齢的にもう一度チャンスがあるかどうか・・?
    
 2011.7.3 の時のオオクイナ♂成鳥) ♀?又は幼鳥? 水浴びした後、一度引っ込んだ。
    
 しばらくしてもう一羽が出て来て、同じく水浴び。さっきと同じ個体かどうか判別できない・・。
     
 キンバト コースで何度も見かけたがこの時が一番きれいに撮れた
    
 キンバト 光が当たるとこんなに綺麗!
    
 リュウキュウアカショウビン 今年は特別多いようで、森の中のあちこちで見かけた。
    
 上尾筒のブルーが少し見える
    
 リュウキュウサンコウチョウ♀ 水場は超暗いのでピントが合わなくて困る
     
 ♂は一度だけのチャンス                      リュウキュウカラスバト
    
 リュウキュウカラスバト 数は多く、常時近くで鳴いている。
    
 リュウキュウキビタキ 雛                                 リュウキュウキビタキ♀
    
 リュウキュウキビタキ♀      リュウキュウキビタキ♂ 若?
    
 リュウキュウヒヨドリ                    左・親から右・雛への給餌         オオコウモリ
    
 リュウキュウキジバト                        リュウキュウツバメ
     
 (2011.7.3の時のミフウズラ)     イソヒヨドリ♀                      イソヒヨドリ♂
    
 (2011.7.3の時のムラサギサギ)    セッカ
2019年7月15日(火)
in箕面
20年ぶりの友達と
故郷の長崎県大島へ引越し、20年余の年月を経て大阪に戻ってきた昔の友達と、懐かしい再会をした。やはり以前住んでた近くが良いと箕面に家を探したようだ。落着いた頃を見計らって、どうせなら滝道をブラブラ歩きましょうと、箕面駅で待ち合わせた。どんなに変わっただろうかと思いきや、ほとんど変わっていない若さに驚き!彼女も私のことを以前のままだとびっくり。お互い「若い、若い!」と言い合って笑い合った。台風後の倒木がまだ所々残っているのをチラリ見ながらも、ずっと喋りつづけていつの間にか終点の大滝に到着。滝の上の茶色い岩肌を見て、前もこんなだったかな?と首をかしげる。その時周りが急にざわめきだした。猿だ!最近ほとんど見ることが無かったのに・・。4・5匹のうちの1匹がベンチの客のポリ袋を奪ってすぐ傍の岩で食べ出した。あぁ・・。帰りに駅前で何か食べようと、お店を探したら、たこ焼き屋さんがあった。一人では入れないが、連れが居れば心強い。「入ろうか?」とそろりとドアを開けるともう平気。生中とタコ焼きと、焼うどんで乾杯!今度はカラオケに行こうよと約束して店を出た。ほろ酔い気分で駅前の観光案内所の足湯も試してみることになり、20余年の隔たりを埋めるようにゆっくりと時間が流れた。
    
 箕面の滝               サルが出た!   奪ったポリ袋を開けて・・    駅前のたこ焼き屋さん
2019年7月18日(木)
in中山
暇つぶしに
梅雨の晴れ間、どうしようもなく暑くて家に居られない。鳥の情報も無く、当てのない鳥探しは嫌だ。勿論家に居て、予定外にくだらない掃除などやりたくはない。そうだ、こんな時のお助けは中山寺へのチョイ楽ハイキングだ。午後から出ても十分間に合うお手軽コース、善は急げでGO!登り始めたらなんともう萩の花が咲いている。まだ夏前半なのに早すぎない?奥の院に着いたら、この暑さにほとんど人が居ない。「よし、オカリナを吹こう」昨夜の雨でしっとり落ち着いた樹々に染み透るように、たっぷりの音色を出して吹こう。居合わせた2人連れがそれとなく聞いているのを感じながら、それに社務所の方も下を向きながら私の会釈にこたえてくれたようだし・・。30分ばかり、持ち合わせた楽譜を全部吹いて、社務所へ再び会釈。二人連れも腰を上げた。下山途中、しきりにソウシチョウが鳴いているなと目をこらしたら、メジロが数羽動いている。え、ソウシチョウじゃない・・、今まで声を聞き違えてたのかな?
   
 早や、萩の花が咲いている    中山奥の院 右が社務所    メジロが数羽居た
2019年7月20日(土)
in箕面・五字神社
アオバズク→巣立ち間近か?
そろそろアオバズクの雛が巣立つ頃かもと、一番近い五字神社を覗いてみたら、意外と多くのカメラマンが来ている。え、もう雛が出てるの?と慌てたが、今日はまだで、どうやら明日から3・4日のうちに出そうだとか。う~ん、大体の感は当たっていたな。とりあえず、巣の近くで見守っている親を撮っておくべしと、ウロウロと場所を変えて撮っていると、運よく♀の羽広げがあり、次に♂のエンゼルポーズにも出会えた。ラッキー!お昼を過ぎると俄然暑くなってきて、撮るものは撮れたし、明朝は早く来るべしと今日は終了。
     
 アオバズク お母さん
     
 お母さんの伸び                         お父さん
    
 お父さんのパフォーマンス
2019年7月24日(水)
in五字神社
アオバズク雛2羽巣立ち
このところ毎朝7時頃にきていたが、ついに昨朝1羽が巣立っていた。親と並んでいたらよかったのだが、残念ながら離れていたので、どうせ翌朝には2羽か3羽で並んでいる所が見れるはずと証拠だけ撮ってすぐに帰った。案の定、今朝くると雛同士2羽が同じ枝に並んでいる。ま、2羽だけでも良しとするか・・。小1時間待つと、雛同士交代でパフォーマンスを始めた。羽広げに、エンゼルポースを夫々が2・3度繰り返してくれたので、たっぷり撮れた。わぁー良かった!これで今夏の定番風物詩はめでたく終了・・。
    
 アオバズク雛2羽 右の方が胸の羽模様がはっきりしているので一番子、左側が産毛が多いので二番子かな?
     
2019年7月25日(木)
四国88ヶ所霊場巡り
(三回目・第12番~15番)
梅田出発のツアーが思いの外盛況で、今回はキャンセル待ちで直前に参加が決まった。いつでも行けるようにと準備をしていたつもりが、いざ当日になると、貯めておいたお賽銭の五円玉やボールペンを忘れたり、また、供養・祈願のお札に住所・氏名・祈願の文言を書き忘れていたりと、何かと不備があり、反省しきりとなった。
今回は第12番~15番の4ケ寺の参拝だが、最初は第13番の大日寺から始まった。各寺参拝はしっかり気を入れて拝むのだが、私の場合、プラス写真を撮る時間が要り、他の皆さんよりかなり忙しい。しかもバスの中では毎回違う方と隣り合わせて話が盛り上がり、退屈する暇がなく、密度濃い一日となった。合間のガイドさんの興味深いお話も聞き捨てならない。今回はお正月のお鏡餅の三種の神器の話が記憶に残った。三種の神器とは、「鏡・剣・勾玉」だが、先ず鏡餅の「鏡」、間に挟む竹に挿した干し柿が「剣」、上に置く橙が「勾玉」を表すのだそうだ。ホント?次に、春のお彼岸に供える植物は「牡丹」、それでは秋のお彼岸は?→「萩」とすぐ分かった。だから春はぼた餅、秋はおはぎなのだ。では、お盆は?→??正解は「ほおずき」。などとクイズもあって結構楽しい。ま、今回は隣席の方に五円玉を交換していただいたり、ペンをお借りしたりと大変お世話になりました。有難うございました。
【第13番】大栗山 花蔵院 大日寺
弘法大師が「大師が森」という地で護摩修法をされていたさいに、空中から大日如来が舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられる。寺名の由来もこの縁起による。ただ戦国時代の「天正の兵火」により堂塔はすべて罹災している。その後、江戸時代前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建され、諸国に国の総鎮守・一の宮が建立されたときに、大日寺は別当寺として同じ境内にあった。しかし一の宮の本地仏は行基菩薩作の十一面観音像とされており、同じ境内であったため、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺と元の寺名に変えたが、もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。 見どころとして、ぼけ封じ観音やしあわせ観音(樹齢100年をこえる 巨木の側にあり、合掌している極彩色の小さな観音像)がある。
    
 大日寺の入口          本堂              大師堂            しあわせ観音
【第12番】摩廬山 正寿院 焼山寺
その昔、毒蛇が棲み天変異変の災いをなし、人畜に多大の被害を与えていた。弘法大師が此地開山の為に登られる時これを妨げるべく、満山火の山となしたが、大師は印を結び真言を誦して登ると、法力により火は順次消えた。9合目に至ると、岩窟から毒蛇が正体を現したが、虚空蔵菩薩の加護により毒蛇を岩に封じ、其の上に三面大黒天並びに元頭天王を自ら彫刻安置した。以来諸人安楽を得、焼山寺と称し、山号を摩廬山と称した。摩廬とは梵語で水輪の意で火伏せの山号である。三面大黒天は、災難除け、五穀豊穣、福徳神として霊験大という。
寺は焼山寺山(標高938メートル)の8合目近くにあり、四国霊場で2 番目に高い山岳札所。奥の院には、蔵王権現神変大菩薩杖立権現を祀る 四国遍路の最難関と言われ、11番札所藤井寺からの「遍路ころがし」と言われると工程が12.9km続くが、現在は山上まで車道が通っている。遍路の祖・衛門三郎が弘法大師空海と会うことが出来たのは、この寺だと言われ、近くには四国遍路発祥の地である衛門三郎杖杉庵がある。
    
 焼山寺の入口         本堂                 大師堂              衛門三郎・杖杉庵
【第14番 盛寿山 延命院 常楽寺】
四国霊場のなかで唯一、弥勒菩薩を本尊としている。弥勒菩薩は56億7千万年の後まで、衆生の救済を考え続けて出現するといわれる未来仏である。とくに縁起では、弘法大師が42歳の厄年のころ、この地で真言の秘法を修行していたときに、多くの菩薩を従えて化身した弥勒さまが来迎されたという。大師はすぐに感得し、そばの霊木にその尊像を彫造し、堂宇を建立して本尊にした。後に、大師の甥・真然僧正が金堂を建て、また祈親上人によって講堂や三重塔、仁王門などが建立されて、七堂伽藍がそびえる大寺院となった。その後「天正の兵火」により焼失したが復興、文化15年(1818)に低地の谷地から石段を約50段のぼった現在地の「流水岩の庭」近くに移った。奇形な岩盤の断層が重なって、自然の美しさにとけ込む独特の魅力を醸し出している。また、本堂前には、アララギ大師・地蔵菩薩像(子供の寝しょうべん、夜泣きなどの治癒に祈願)が坐し、1~18歳までの子供たちを支援している四国霊場ただひとつの児童養護施設がある。
    
 常楽寺 奇形な岩盤の断層に立つ本堂    大師堂    後の大木の股に坐すアララギ大師→拡大図
【第15番】薬王山 金色院 國分寺
四国霊場には四県に国分寺があり、その最初の札所が「阿波國分寺」である。聖武天皇から釈迦如来の尊像と『大般若経』が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられている。開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。創建当初は法相宗として寺領は二町四方で、金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七堂伽藍が整っていた。ここからは塔の礎石などが発掘されており、徳島県の史跡に指定されている。 
弘法大師が弘仁年間(810〜24)に四国霊場の開創のため巡教された際に、宗派を真言宗に改めている。その後、「天正の兵火」により焼失し、寛保元年(1741)に阿波藩郡奉行、速水角五郎によって伽藍が再建されていらい、現在の禅宗・曹洞宗寺院となっている。
    
 国分寺の入口          現在本堂は修理中につき、仮本堂にて参拝             大師堂 



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