修行の道場 (高知県)

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1999年10月 9日(土)晴れ

 父親の13回忌法要のため美智子と9時半頃赤穂を出発した。
まっすぐに帰れば11時には香川県坂出市の実家に着いたであろうが、昼食は済ませて帰ると言っておいたので、与島で休憩した。
 坂出のインターチェンジを出てすぐにうどんを食べたが、久しぶに美味しい讃岐うどんを期待していたのに味はもう一つだった。

 家に着きしばらくして美恵子さん夫妻と幸子さんが到着した。耕平さんも来てくれて2時過ぎに法要が始まる。俶子(姉)夫妻と文ちゃんは、中国道が渋滞だったとかで2時半頃に着いた。3時半頃に法要は無事終わった。夕暮れ時に墓参りも済ませた。

 今日はたまたま林田町の秋祭り。俶子夫妻と文ちゃんと一緒に美智子と林田港の広場まで見に行った。
 昔に比べ随分と布団太鼓とかダンジリが豪華になっており、聞くところによれば上林田(私の実家の村)のダンジリは、あの有名な大阪の岸和田から中古を買ったとか。
 布団太鼓にしろダンジリにしろ、購入にも維持するにも相当金が掛かると思うが、どこから出るのか、と貧乏人は考えてしまう。

 飲酒運転になるので車は止め、往復6キロ位だろうか、革靴で歩いたため美智子共々少し足を痛めてしまった。

 明日からの歩きに影響しなければ良いが。

9日目
1999年10月10日(日)晴れ

 朝、タクシーを呼び家族、親族に見送られて出発し鴨川の駅に出た。7時32分だったかの列車に乗車し高松へ。高松から徳島経由日和佐まで特急を利用。日和佐駅には10時36分に到着した。

 23番薬王寺でこれからの旅の無事を祈願し、お店でずた袋と経本を購入した。11時過ぎに「修行の道場」(高知県)へ向けた第一歩を踏み出した。

 16時15分頃に鯖大師に到着した。今夜の宿はここ「鯖大師宿坊」なので一安心。お坊さんから「薬王寺からにしては早いですね」と、言われた。だいたい1時間に4キロ程度歩いたことになる。

 食事の前に般若心教を唱え、そのあとに、「一粒の米にも 万人の労苦を思い 一滴の水にも 天地の恩徳を感謝し ありがたく頂きます」と唱えて食事になった。
 10人ほどの人が般若心教を暗唱しているようでうまく唱えていた。
 家内安全の祈願をお願いした。

 歩行距離 20.1キロ
        
10日目
1999年10月11日(月)曇りのち時々雨

 朝の勤行を済ませて食事を頂き、7時過ぎに鯖大師を出発した。今日は歩く距離が短い割に時間があると甘く考えていたせいか、結構時間が掛かってしまった。途中で雨に降られたが、この時期のわずかな雨はそれ程気にならない。

 昨夜も同宿だった南さんと今日も同じ宿「まるたや」になった。
 道中、海が見え隠れする道だったが、あいにくの雨で、きれいな海は見られなかった。海部川の一番下流の橋を渡ったが、その時に渓流竿で釣っている人たちを見かけたが、包丁でシラスを細かく砕いて撒き餌にしているので何を釣っているのか分からなかった。
 橋の上から聞くと、鮎とのこと。ビクを上げて見せてくれたが、数匹の型のいい鮎が入っていた。
 この時期にエサ釣りをするのは信じられなかったが、夕食の時に宿のご主人から聞いた話では、どうも撒き餌を口に入れている間にエサのアナゴの稚魚(のれそれ)を口に入れてしまって釣られるらしい。ご主人が近くの野根川で釣って冷凍していた鮎を見せてくれたが、大きい落ち鮎だった。

 美智子がパンと別の人から栄養ドリンクと缶コーヒーのお接待を受けた。
 やっと県境を越えて高知県に入った。
 明日は長丁場になる。美智子の足にマメができてしまった。歩き通せるか心配。

 歩行距離 24.6キロ
        
11日目
1999年10月12日(火)晴れ

 昨夜作ってもらったおにぎりを持ち、宿のご夫婦に見送られて5時15分に宿を出た。まだ暗い。6時5分位だったか水平線に日の出(写真)を見た。日の出

 左手に海を見ながらひたすら歩いた。昨日とは違ってカンカン照りでとにかく暑い。
 暑さにばててしまった。のどが渇いてくるのに、飲みものの自動販売機がない。しかし、室戸が近づくにつれ販売機が見つかるようになった。見つかるたびにお茶を買った。
 あとで思い出すと缶入りお茶7本、ペットボトル入り2本を飲んだ勘定になった。それだけ飲んでいたのでやっとレストラン(こすもくん)があったが食欲がない。美智子に食べないと駄目だと促されて店に入った。ザルソバを注文したがこれが実に美味かった。
 
 そこの女将が10月に入って歩きの遍路が多いと言っていた。また、第33番雪渓寺の前にある「民宿 高知屋」に出来たら泊まってあげてと言われた。高知屋の女将と友達らしい。

 3時ごろには第24番最御崎寺に着くと思っていたが、美智子の足のマメがひどくなり、スピードが落ちたこともあり、到着は4時半頃になった。本堂、大師堂で般若心経を唱えて滑り込みで納経所へ行った。暑さでくたばっているのに、登山口から山門までの25分はきつかった。今日はとにかく暑かった。
 今夜の宿はここ「最御崎寺宿坊」。

 歩行距離 32.0キロ

12日目
1999年10月13日(水)曇りのち雨のち曇りのち晴れ

 今日は不安定な天気だった。出発時は曇りで今日は楽かな、と思っていた。
 第25番津照寺までは割合楽な気持ちで進めたが、第26番金剛頂寺への山道の途中から小ぬか雨が降り出し、お寺に着いたころには本降りになっていた。しかし、この雨もすぐに上がり、昔ながらの遍路道から海沿いの国道を歩くころには晴れてきて、昨日と同様の暑い道中となった。

 美智子の足のマメが段々ひどくなっているようで、宿に着いたのは5時半頃で苦しい道のりとなった。途中雑貨屋で牛乳を買ったとき、ミカンのお接待を受けた。
 「山郷屋旅館」の夕食は豪華で少し食べすぎた感じがした。
 今までの反省。一日の歩行距離は25キロ位がいいところだ。

 歩行距離 32.4キロ

13日目

1999年10月14日(木)曇り時々晴れ

 今日は昨日より少しは凌ぎやすかったが、やはり暑い。
 第27番神峰寺へは3.5キロほどが上りの山道で「真っ縦」といわれる急坂が1.3キロあるとか書いてあったが、やはり相当きつかった。

 朝7時15分宿を出たが、急坂の上、美智子の足のマメがますますひどくなり、今夜の宿の「山澄屋旅館」までの23.0キロを歩くのがやっとという感じだった。
 宿に着いたのは4時半。宿の窓の下に見える川に沢山の鯉が泳いでおり、目を楽しませてくれた。

 歩行距離 23.0キロ

14日目
1999年10月15日(金)曇り一時雨のち晴れ

 6時15分に宿を出た。昨夜雨が降ったらしく道が濡れている。24時間営業のコンビニで朝食の弁当とお茶を仕入れた。
 今日の予定歩行距離は20キロ余。気分的に相当余裕がある。左手に海を見ながら延々と歩く。太平洋だ。その水平線上に空がある。これが弘法大師空海の名前の由来かなと、体験的に納得した。
 55号線と平行して自転車道があり、ほとんどその道を歩くことができたので、車の排気ガスに悩まされることがなくてありがたかった。
 休憩を取りながらゆっくりと歩いたが、2時過ぎには今日の宿「旅館かとり」に着いてしまった。

 香我美町でミカン2個のお接待を受けた。

 歩行距離 20.4キロ

15日目
1999年10月16日(土)曇りのち晴れ

 朝食を6時に予約していたのに、目が覚めたのが6時4分。あわてて支度したが、食事を終え宿を出たのが6時45分。第28番大日寺から第29番国分寺を打ち終えたのが12時だった。
 大日寺から国分寺へは大日寺の住職に頂いた「遍路みち」を頼りにできるだけ昔の遍路道を選んで歩いた。

 途中にテレビで見たことのある無料遍路接待所(都築)がありトイレをお借りした。ご主人と奥さんは自分たちの仕事をしながら接してくれたので、堅苦しくないのがよかった。ご主人の話では足のマメは歩いている間に段々と治ってくるものらしいが、美智子のは一向に良くならない。歩くのに痛みを伴うらしいが、こちらはその痛みがどういうものか分からないので、どうしたらいいか見当がつかない。

 第30番善楽寺も無事に打ち終えて今夜の宿「サンピァ高知」に着いたのは4時15分だった。ここはホテル形式で遍路姿で入るのには少し抵抗感があったが清潔ないい宿だった。それにレストランの夕食も自分の好みで注文でき、初めて食べたアナゴのタタキが抜群に美味しく量もあり、しかも安かった。

 今日は随分歩き易かった。昨日までとはうって変わり、歩くと汗は出てくるもののたいしたことはない。おそらくこれが平年並みなのだろうが、吹く風が涼しく、秋を感じた。飲むお茶とか水の量が昨日までとは全然違って少ない。

 疲労が段々溜まってきたように思う。明日は休息日にした。予定歩行距離を第33番雪渓寺までの17.8キロとした。

 歩行距離 22.9キロ

16日目
1999年10月17日(日)晴れ時々曇り

 6時過ぎに「サンピァ高知」を出発した。朝は寒いくらい。
 第31番竹林寺へは遍路道が残っていて、その道を登ったが、少しきつかった。美智子は登りは足の負担が幾分軽くなるらしく、楽に登っていくが、こちらは登りとなると、全く意気地がない。
 第32番禅師峰寺も道に迷うことなく参拝を済ませて第33番雪渓寺へ向かった。
 雪渓寺へは浦戸大橋を渡るルートと渡し舟を利用するルートがあるが、渡し船利用が本来の遍路道らしく、しかも近い。20分ほど待って13時50分発の船に乗ることができた。この渡し舟はすぐに対岸に着くが無料。今時無料のものがあるとは嬉しかった。待合室で南さんに会い同じ船で渡った。
 雪渓寺の参拝を済ませて、山門の真ん前にある今夜の宿「民宿 高知屋」に入った。偶然にも南さんも同じ宿。
 今日の行程は楽だったので昨日から美智子と桂浜へ行こうと話していた。宿の女将にタクシーを呼ぶにはどうしたいいかと聞くと、自転車で行ったら、と言ってくれたので借りることにした。自転車で往復するのに丁度いい距離だった。坂本竜馬銅像

 小学校の修学旅行で桂浜(写真)に来て、坂本竜馬の銅像(写真)を見たが、その時、銅像は浜にあったよ桂浜うに記憶していた。しかし、今は丘の上にある。銅像の前でアイスクリームを売っているおやじさんに聞いたら銅像は昔からこの場所で移動していないと言う。記憶とはこの程度のものかと思った。

 今日はお二人から美智子がお接待を受けた。お一人からは梨、もう一人はお年寄りからで、現金。現金でしかもお年寄りからのお接待には心が痛む。

 今夜の宿の「民宿 高知屋」さんには、10月12日に「こすもくん」で昼食を取ったときに女将から、できたら泊まってあげて、と言われており、うまく距離が合ったので泊めてもらったが、実に感じのいい宿だった。女将から洗濯のお接待を受け、きれいにたたんでくれていた、と美智子が感激していた。

 歩行距離 17.8キロ

17日目
1999年10月18日(月)曇り時々晴れ

 朝食のとき、南さんと一緒になる。6時半頃女将に見送られて出発。寒いくらい。

 第34番種間寺あたりまでは快調に進む。第35番清滝寺の間近になって遍路道に入ったが、相当の急坂。しかし、距離が短かったせいか、あるいは身体が慣れてきたせいか、それほどしんどいとは思わなかった。

 塚地当たりまでは南さんと前後する。南さんは堂尻から遍路道に入ると言ったが、私たちは近道の塚地トンネル経由、宇佐大橋への道を選んだ。
 宇佐大橋は高所恐怖症の人にとってはおそらく恐怖を感じるであろうと思うほど、海面から高いところを通っている。海面には釣りをしているらしい小船が散見できた。

 今日は歩行距離が長く、第36番青龍寺の手前の「三陽荘」に予約を入れていた。美智子の足のマメが良くならず、青息吐息の状態で3時半頃に宿に到着したが、宿のフロントで高い階段があるが山門までは10分くらいで行けると聞いた。美智子は歩けるというので荷物を預け最後の一ふん張りで青龍寺を打ち終えた。

 今日の歩行距離は30キロを超えたが、これ以上美智子の足が悪くなると歩けなくなる恐れがある。美智子も25キロくらいならなんとか頑張れそうというので、少しペースダウンしなくてはならないと思っている。

 歩行距離 32.1キロ

18日目
1999年10月19日(火)晴れ

 三陽荘は値段もよかったがその分内容も良かった。7時過ぎに宿を出た。
 今日の予定歩行距離は24.8キロ。お寺もなく、特に立ち寄る所もなかったので、強行軍とは思っていなかった。それが気のゆるみを生んでしまったのか、道を間違えるというミスをやってしまった。
 横波の分岐点で旧遍路道を選んだ。岩不動の分岐点で地図上の直進を選んで進んだが、例の遍路マークの目印がない。途中の民家に人がいたので尋ねたが、自信がなさそうだった。丁度軽トラックで通りかかった人がこの道でよいというのを信じた。その人ももちろん悪気があった訳ではなく、事実その人の言った通りに行ったら、なんとか23号線に出られたが、望んでいた道とは全然違っていた。

 マークを見失ったときには元の所に帰るべきだったが、歩いていて引き返すというのは大変な勇気がいると思う。

 足を痛めている美智子にはかわいそうなことをしてしまった。私自身もしばらくは落ち込んでしまった。地図の見誤りのため5キロほどは迂回したと思う。これも修行だったのだろうか。
 やっとの思いで4時40分頃新荘川のほとりの「民宿 ひかり」に到着できた。今夜の宿泊客は私たちだけで、夕食のとき、女将と女将のお母さんが自分たちは食事もせずにいろいろな話を聞かせてくれた。
 昔の遍路の哀れさに比べて、今の遍路がいかに恵まれているか、しかも歩き遍路は暇と金と体力の内どれが欠けてもできない一番ぜいたくな旅で、しかも夫婦で歩けることに感謝しなければいけませんよ、と言われた。本当にそう思う。
 足のマメの話をするとくれぐれも身体をいといながら歩きなさい、急ぐことはないんだから、と注意された。
 女将も高野山にバスでお参りし昨日帰ってきたらしい。足が痛い、と言っていた。

 道を間違えて落ち込んでいたが、女将の話を聞いていると何かほのぼのとした温かさを感じた。

 歩行距離 24.8キロ

19日目
1999年10月20日(水)曇りのち晴れ

 宿代をお支払いするときに歩き遍路の人にはお接待として五百円おまけしていると言って二人で千円値引いてくれた。
 6時過ぎに女将に見送られて宿を出た。焼坂峠越えは道が荒れているかもしれないから避けた方がいい、との女将の忠告に従い止めにした。大川橋以降は奥大阪越えで行きたかったが、旧遍路道を歩いて見たいという美智子のたっての願を入れて、そえみみず遍路道を行くことにした。

 登山口を入ってしばらくして先行していた美智子がマムシがいると言ってしきりに杖で逃がそうとしているが、気温が低く体温が上昇していないのか動こうとしない。死んではいない生きている。しかし、マムシではなく見たこともない小さなヘビだった。恐る恐るこちらが尻尾の方をう回してことなきを得た。こんな時期にヘビがいるのは、やはり気温が高いせいかと思う。

 この遍路道は一人通るのがやっとの狭い道で歩きにくいことこの上なく、またヘビでも出てこないかと気になるし、しかも、かなりの急な上りが続く。やっとの思いで国道に出たあとは迷うこともなく4時半頃に第37番岩本寺に無事到着することができた。

 途中のそえみみず遍路道がこたえたのか29.4キロはきつかった。足の裏がほてっている。

 今日、そえみみず遍路道を歩いていて、本当の遍路道を歩いてみたい人には格好の道だと思った。しかし、山越えに相当の時間を要するし、女性で独り歩きの人は避けた方がいいように思う。ヘビやハチも怖いが情けないことに一番怖いのは人間ですから。

 今夜の宿は「岩本寺宿坊」。10日に歩き出して初めてテレビのない夜だった。
 第38番金剛福寺へは中3泊することにした。明日は内田屋旅館に予約した。

 歩行距離 29.4キロ

20日目
1999年10月21日(木)晴れ

 6時から勤行、6時半から朝食。7時過ぎに出発した。今日の予定歩行距離は20.2キロで、しごく気楽な行程となった。

 片坂第2トンネルの手前で、遍路道を見つけた。ヘアピンカーブの長い国道を避けて分け入ったが昨日のそえみみず遍路道よりきつい道で足元が悪く、多少危険を感じた。距離はそれほどなく、ほどなく市野瀬に着いた。

 山を分け入るような遍路道は男女を問わず、避けた方が良いように思う。転落したりして動けなくなると命にかかわる。

 2時過ぎに今夜の宿「内田屋旅館」に無事到着した。部屋のすぐ下から浜で景色のいい海が見える。目の前の小島の前で工事用のクレーン船が作業をしていたのが目障りで興をそがれたのが残念だった。

 歩行距離 20.2キロ

21日目
1999年10月22日(金)曇り

 宿を6時45分に出発した。左に太平洋を見ながらただひたすら歩く。

 途中、場所は忘れたが小さな川を渡るとき、いつものように魚を見るつもりで下を見たら、魚ではなく、ヘビが2匹いた。朝方は寒いくらいなのに冬眠の準備をしなくて大丈夫なのだろうか。

 入野の分岐点から海岸の道をしばらく行く。このままずっと海岸沿いの道を行き、四万十川大橋を渡る道を取りたかったが、地図で見る限り適当なところに宿がなく、止む無く中村駅の近くの「民宿 さくら」に昨夜予約しておいた。止む無くと書いたが結果的にこの宿はいい思い出を作ってくれた。

 予約するとき目じるしを聞いたら、女将が中村大橋を渡ってすぐの階段を降りたらいい、と教えてくれた。橋から「民宿 さくら」の看板が見えて安心して橋を渡った。渡りきると階段ではなく普通の道が中村駅の方へ降りている。教えられた通り階段を降りれば良かったのに、何の気なしにこの道を降りてしまった。
 「民宿 さくら」は駅の前。ところがこの道は駅の構内に入りホームからしか駅前に出られない。列車にも乗らず、切符も持たずに駅の改札口から出るわけにもいかず、橋の方へ戻ろうとしたら、堤防の上を歩いていた二人連れのご婦人が駅の外れの陸橋を渡るように教えてくれた。これでなんとか3時少し前に「民宿 さくら」に到着できた。

 手持ちの地図は詳細だが、今、四国のどのあたりでいるのか、全体的な位置関係が分からない。また、第38番金剛福寺から第39番延光寺へはいろいろなルートがあるようで、今後のために中村駅の売店で四国全体が入った観光地図を購入した。

 「民宿 さくら」は女将の人当たりもよく、また、夕食は豪華で四万十川の天然鮎の塩焼きまで付いており感激した。

 金剛福寺から延光寺へのルートはいろいろあり、しかも歩行可能距離とその付近に宿が確保できるかどうかで、選択がクイズのようになってしまった。
 試行錯誤の末、24日は「民宿 つりの里」、25日は「安宿旅館」と考え、電話を入れた。どちらも予約が取れて安心して床に就いた。

 歩行距離 23.3キロ

22日目
1999年10月23日(土)晴れ時々曇り

 通常7時のところ、6時半に朝食をお願いしていた。少し早めにテーブルについたが、すでに用意はできていた。朝食を食べ終わり料金を聞いて驚いた。安い。夕食の料理は豪華で、朝食も十分に頂いた。それに支払いが終わってすぐに「お接待です。景色のいいところでお食べください。」とおにぎりを頂戴した。
 女将及び他の従業員の接客態度も抜群に気持ちがいい。中村駅周辺で宿泊するのなら是非「民宿 さくら」をお奨めする。

 女将に見送られて、7時前に宿を出た。昨日降りずに失敗した四万十川階段を上って中村大橋を渡り、後川の堤防の左岸を下流に向かって歩く。まもなく、あの有名な四万十川(写真)と合流。川幅も広く、しかも深い。水はとうとうと流れ、評判どおり美しい。この川なら幻の魚「赤目」が泳いでいても不思議ではないと思った。

 ほどなく1,620メートルの伊豆田トンネルを通って「小川通り」だと思われるバス停の手前に休憩するのにいい場所があった。縁石に座り、二人で今朝頂いたおむすびを食べて、出かけようとしていたとき、すぐ前の家のお年寄りから缶ジュースとローヤルトップをお接待されありがたく頂戴した。 しばらくしてこの飲み物は喉の渇きをいやしてくれた。
 25日の宿として予約している「旅館安宿」の横を通って、しばらく見え隠れする海を見ながら歩いて、3時過ぎに今夜の宿「民宿 海の幸」に到着した。
 宿の4キロほど手前で軽トラックが止まり、お年寄り(男性)から同乗しないか、と言われたが、丁重にお断りした。
 美智子の足の調子が良くなったせいか、あるいは、距離の算定を誤ったか、思っていたより早く着いた。

 歩行距離 29.1キロ

23日目
1999年10月24日(日)晴れ

 今日の予定歩行距離は22.5キロと楽なので、NHKの「四国八十八カ所」を見てから食事をして7時半頃出発した。
 遍路道があるところは遍路道を歩いた。時々きれいな海と空が見えるところがあり、景色を楽しみながら歩くことができた。
 途中3泊してやっと到着した四国最南端の足摺岬にある第38番金剛福寺を参拝したあと、昼食を取り、展望台まで行った。岬の灯台(写真)岬の灯台とその周辺は素晴らしい景観だった。駐車場で一服していたときに久しぶりに南さんに会った。南さんの明日の宿は私たちと同じ「旅館安宿」の由。

 岬の西側を周り、今夜の宿「民宿 つりの里」(ペンションと言った方がいいかもしれない)に3時半頃に到着した。感じの良い清潔なペンションで夕食のおかずが10品もついており久しぶりにビールを注文した。美智子は多すぎて食べられず、二品は手を付けずに残してしまった。

 美智子の足の調子は大分良くなってきた。変わって私の足が痛み出した。昨日あたりから右足の土踏まずが痛み出した。痛いと言っても激痛ではなく鈍痛だが、歩くスピードが落ちている。調子が出てきた美智子に負けそうなときがある。今後が心配。
 明日の朝食は何時でも用意すると言ってくれたが、明日もそう距離はないので6時と言うことでお願いした。

 歩行距離 22.5キロ

24日目
1999年10月25日(月)晴れ

 きれいに掃除が行き届き料理が豪華で、しかも安い「民宿 つりの里」を6時半頃に出発した。すぐに遍路道に入ったが、かなりの急坂にもかかわらず朝の空気がすがすがしい。
 足摺岬を一周した所で、第2、第1と続く以布利トンネルがある。この2つのトンネルは距離は短いが幅員が狭く、入り口に「大型車同士は中で交わせない」と書いている。歩道もない。多少の危険を感じながら通り抜けた。
 ここから今夜の宿「旅館安宿」までは、先日通った道。同じ道を歩くのは嫌だったが、進む方向が違うと趣も変わることが分かった。太平洋にお別れして、「旅館安宿」に2時過ぎに到着した。

 途中で昼の食事をするところがなくて困ったが、先日宿泊したときには気付かなかったが「民宿 海の幸」の右隣に小さなお店がありパンと飲み物を購入できた。支払いのときこの店の女の方からローヤルトップ2本のお接待を受けた。ありがたく頂戴して、昼食のときに飲ませて頂いた。

 今までの宿は女将が取り仕切っていたが、ここ「安宿」はご主人が仕切っていた。この宿は第38番金剛福寺と第39番延光寺の分岐点にあり、夕食のときに明日金剛福寺へ向かう人と延光寺へ向かう人それぞれに手際よく説明していた。延光寺へ向かう人が昼食の心配をしていたが、ご主人の話では、地図には載っていないが、16キロほど行ったところに食堂とか売店もあるらしい。安心した。

 第40番観自在寺の宿坊に予約しようとしたが、このところ寺の行事がありやっていない由。「きのくにや旅館」に予約した。
 明日は久しぶりに32キロ以上歩かなければならない。もう寝よう。現在7時25分。

 歩行距離 23.5キロ

25日目
1999年10月26日(火)曇り時々晴れ

 6時半頃「旅館安宿」を出発した。宿のご主人の言う通り、川をさかのぼって二つ目の橋を渡たり、それからはひたすら三原村へ向かって、渓流沿いを歩いた。
 珍しくあの美しいコバルトブルーの羽を持つカワセミを見た。めったに見られない鳥、感動した。

 喉が渇いて仕方がないのに自動販売機がない。武内商店まで行き、やっとお茶、牛乳、パンを仕入れることができ、店先のベンチをお借りしてパンをかじった。この休憩のとき南さんと一緒になった。

 それからも、ただ、黙々とひたすら歩くのみ。美智子がまた足の調子を崩してしまった。歩行は完全にペースダウンしている。やっとの思いで予約していた「民宿 嶋屋」に到着した。
 そこで荷物をおろさせてもらい第39番延光寺まで行き無事参拝することができた。宿に帰り着いたのは4時頃だったろうか、風呂に入りくつろいだ。

 夕食のとき今夜は「修行の道場」(高知県)最後の延光寺を打ち終えたので、ビールでも飲もうと思っていた。
 大正生まれと言っておられたが、それにしてはお若いご主人が、歩き遍路にはビールでもなんでもお接待するを言ってくれた。
 同席のYさん(高知県の方 歩き遍路)が焼酎を飲んでおりすすめられたので、焼酎にしご主人のかけてくれるカラオケ演歌を聞きながら随分よばれた。私たちが播州赤穂から来た、と言うと「刃傷松の廊下」をかけてくれ、歌ってしまった。遍路に来てカラオケを歌うとは思ってもいなかった。
 同席の二人連れの女性のお遍路さん、Yさん、それに宿のご夫婦と楽しい一時を過ごさせて頂いた。

 雨が降り出した。春は別にして今回は大した雨に降られたことはなかったが、明日は覚悟した。
 二人連れの女性が、美智子の足を気遣ってくれてのことか、しきりに明日は雨のようだし、と自分たちの車に同乗するようにすすめてくれたが、一度甘えてしまうとまた甘えたくなるので、と丁重にお断りした。

 28日は「よしのや旅館」29日は「民宿 稲荷」を予約した。

 雨が早く上がってくれることを願いながら床に就いた。

 歩行距離 32.1キロ


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