菩提の道場 (愛媛県)

表紙に戻る

26日目
1999年10月27日(水)雨のち曇り

 朝、5時ごろに目が覚めたが、雨が強く降っており、おまけに雷まで鳴っている。気が滅入ってしまうが仕方がない。
 6時に食事の用意ができたとの知らせに、部屋へ行ってみると、Yさんがもう食べていた。今日は私たちより10キロほど先まで行く予定らしい。
 食事をしている間に雷は止み、雨も小降りになってくれた。昨日の二人連れの女性が食事にきて、雨だからと再度同乗するようお誘いを受けた。ありがたいと思ったが、お断りした。

 基本的には遍路道を歩きたいし、ある程度こだわってきたが、今日は雨。山の中の遍路道で道が沢にでもなっていると困るし、そのような危険を避けるために、国道56号線を歩くことにした。

 幸いにも9時半頃には雨も上がった。昼前だったか、高知県から愛媛県に入った。県境の大きな看板に日本語でどう書いていたのか忘れたが、「Please come again to Kouti」と書かれていたのが何故か印象に残っている。

 昼過ぎから、雨の心配はなくなったが、風が強くなり菅笠も飛ばされそうで歩きにくい。笠を脱いで手に持ったが、風に煽られ、あちこちと方向を変えて実に扱いにくかった。そうこうしている内に3時半頃、第40番観自在寺に到着した。
 本堂の前でまたまた南さんに会った。南さんの今夜の宿は「山代屋」の由。お参りを済ませて予約していた「きのくにや旅館」に入った。今夜の客は私たちだけのようだったが、夕食の料理は手が込んでいて美味しかった。

 歩行距離 30.0キロ

27日目
1999年10月28日(木)曇り

 美味しい朝食をいただいて、6時20分に宿を出た。八百坂を経由して柏までは順調に歩くことができた。途中タバコの自動販売機にタバコを補充していたお年寄りが「タバコを吸うか」と聞いてきた。「吸わない」と答えると「吸うならお接待しようと思ったのに」とのこと。「やっと、止められたのに」と言ったら笑っていた。

 御荘町だっただろうか、美しい海を見ることができたが、緋扇貝か真珠貝の養殖をしているのだろうかブイが沢山浮いていて興をそがれた。

 柏郵便局で預金を引き出した。柏から柳水大師、清水大師と経由して大門へ向かったのだがこの柏坂越え遍路道は私にとって最悪だった。まず、地図に柏から大門への所要時間が約3時間と書いていたが、この道を3時間で歩けるとは思わない。私たちは歩くのが早い方ではないが、4時間半を要した。上りがきつく、しかも長い。

 それにこんな時期だというのにやたらにヘビの多い道だった。6匹までは数えたが、もうすぐ車道に出られる直前の石垣が続くわずか20メートルくらいの草の生えた細い道で、ヘビの巣に足を踏み入れたのではないか、と思うほど数匹のヘビが出てきた。山中の6匹を加えると10匹くらいは見ただろうか、山中の1匹はマムシだった。ヘビが好きだという人はそうはいないだろうが、特にヘビが嫌いだと言う人にはおすすめできる道ではない。ただ一つだけ良かったことは、つわな奥展望台から見た景色が素晴らしかったことだった。

 大門の手前だったか、渓流でカワセミの美しい飛翔を見た。またこの川の随所で鯉が泳ぐ優雅な姿を見て遍路道の嫌な思いを忘れることができた。生まれて初めて、山の中で落ちていたアケビを拾って食べた。いままでは落ちているアケビの中身はきれいになくなっていたが、これは無傷だった。

 後はひたすら歩き、今夜の宿「よしのや旅館」に3時過ぎに到着した。
 今、テレビが福岡ダイエーホークスの日本シリーズ優勝を伝え、王監督のインタビューが行われている。涙をやっとこらえているような顔をしている。

 夕食前に「二宮旅館」に電話して30日の宿の予約をした。夕食後地図を見ながら再度検討したが、29日の宿「民宿 稲荷」を出てから第42番仏木寺、第43番明石寺をお参りして「二宮旅館」までの35キロを歩くには、今の私たちの足の状態から考えて無理だと思った。
 ところが「民宿 稲荷」から25キロ前後のところには宿がない。少し距離的にはもったいないが17.5キロのところにある「宇和パークビジネスホテル」に電話を入れたら、ツインはないがシングルなら二部屋あると言うことで予約を取った。

歩行距離 24.0キロ

28日目
1999年10月29日(金)曇りのち晴れ

 「よしのや旅館」を出てしばらく歩き公衆電話から「二宮旅館」にキャンセルの電話を入れた。

 地図には国道56号線の松尾トンネルは全長1,710メートルあり排気ガスが充満状態になることがある、と書いている。それに恐れをなして旧国道を歩いたが、こちらはトンネル内の照明が不十分で見えにくいところがあった。

 宇和島の明倫小学校の近くで美智子がミカン2個のお接待を受けた。これは早速昼食のときにいただいた。県道57号線を歩いているとき、美智子がなかなか登って来ない。よく見ると大分後で誰かと話している。その人からまた大きなミカン4個のお接待を受けた。

 3時過ぎに無事第41番龍光寺に到着し、お参りを済ませて今夜の宿「民宿 稲荷」に入った。
 ノートに書いた宿帳を見ると昨夜、南さんが泊まっていた。やはり若い。一日差ができてしまった。もうお会いすることはないと思う。

 夕食前にお接待のミカンを食べてしまった。
 それなのに夕食のおかずの品数の多さに驚いた。12品もある。美智子は魚の煮付けに手をつけずに残してしまった。今夜は私たちを含めて5人の泊り客がいる。この料理を2階の各部屋に運び上げるのは大変だと思う。1階の部屋にテーブルを置きそこに並べて全員集合を掛ければよいと思うが、この方式がこの宿のこだわりなのかもしれない。しかし、お年寄りが運ぶのを見ていると何か気の毒に思えてしまった。
 私は料理全部を残すことなくいただいた。歩いて遍路をすると多少は体重が減ることを期待しているが、むしろ増えているのではないか。体重計に乗るのが怖い。

 夕食後、隣室の女性Aさん(後日お会いしたとき、ホームページにお名前を出していいか、とお聞きしたら名前はおろかどこから来たかも書かないで欲しい由。訳を話してくれたが納得してしまった。)が訪ねてきた。明日はどこに泊まるかというような話から、30分くらい話していただろうか。徳島県を歩いているときは初体験なのでゆっくりと歩いていたが、最近は40キロくらい歩いている様子。私たちより10歳くらい若いが、それでも驚いた。
 この女性Aさんとはこの後いろいろとご縁ができた。

 歩行距離 23.7キロ

29日目
1999年10月30日(土)晴れ

 地図によれば今日の予定歩行距離は17.5キロと今までで一番短い。朝食はゆっくりと取り、7時過ぎに宿を出た。

 道を教えてもらったにもかかわらず、出発してものの5分もしない内に間違えた。宿の女将からは、池に突き当たるから、わき道にそれることなく右へ右へ行くように、と教えられたのに、池の土手が目に入りそれを右に曲がってしまった。民家に入ってしまい、行き止まり。犬に散々吠えられて引き返した。
 地図を見ていると近所の家から車で出てこられ、これから出勤と思われる人が車を止め、親切に道を教えてくださった。その通りに行くと女将が言っていたように文字通り池に突き当たった。
 それからは迷うことなく第42番仏木寺に到着できた。仏木寺からは、一部遍路道を歩いたが、歯長トンネルの手前で車道に出てからはトンネル経由で車道を歩いた。つづらおりの長い下り坂にはいささか閉口した。
 
 皆田小学校の手前で車に乗ったお年寄りから、私たちが歩いているのを見て買ってきてくれたらしい温かい缶コーヒー2本のお接待を受けた。冷えない内に頂戴したが、その方の温かさが身にしみた。
 しばらくして今度は自転車に乗った女性からブドウ一房のお接待を受けた。お接待を受ける度に何かしら涙が出そうになる。

 間もなく第43番明石寺に到着した。ゆっくりと参拝し、常楽苑で昼食を取った。その後遍路道を歩き宇和町へ出て今夜の宿「宇和パークビジネスホテル」に3時過ぎに到着した。予約の時にはシングル二部屋ということだったが、フロントでツインが用意できたと言ってくれたのはありがたかった。

 地図によれば明石寺から宿まで3.9キロとなっていたが、この間がずいぶん長く感じた。疲れているのだろうか。宿に着いてから、お接待で頂いたブドウを食べたが、甘くて美味しかった。また、元気が出そう。

 夕食はホテルのレストランも利用できたが、宿の前の国道を挟んで向かい側にコンビニ サンクスがあったのでそこで弁当を購入し夕食とした。

 歩行郷里 17.5キロ

30日目
1999年10月31日(日)曇り

 今日の予定歩行距離は大したことはない。日曜日なので、朝6時半からNHKの「四国八十八カ所」を見てからゆっくり出発した。宿を出てみると朝もやが濃くかかり墨絵のような雰囲気だった。

 鳥坂トンネル以降の長い下り坂でスピードが出せたせいか、距離が稼げた。できることなら予約している「ふるさと旅館」をお断りしてもう少し歩きたくなった。しかし、当日のしかもこの時刻に電話でお願いするのではあまりにも失礼と思い、旅館まで行った。時に1時過ぎ。旅館の方も早いので驚いていた。キャンセルをお願いしたら承知してくれたが、迷惑を掛けてしまった。
 次は今夜の宿の手配だが幸いにも「松乃屋旅館」に予約を取ることができた。

 有名な「十夜が橋」を過ぎたあたりで前方に軽トラックが止まっている。横を通り過ぎようとしたとき、60歳過ぎと思われる男性が降りてきて「私も10回ほど周ったが、歩いたことはない。頑張ってください。」と現金千円のお接待を受けた。お接待は受けるものと聞いていたが、多額の現金をいただくのには躊躇する。この現金をどのように有効に使わせてもらうか考えなければいけない。
 しばらく歩いて地図を見ていると、親切にも車を降りて来てくれた方がいる。見ると先程お接待していただいた方で、用事を済ませて帰るときに地図を見ていたので心配になり見に来てくれた由。涙が出るほど嬉しかった。ありがとうございました。

 内子スポーツセンターに向かう遍路道で、また、ヘビを見た。早く冬眠に入らないと死んでしまうのにと思った。

 4時ごろに「松乃屋旅館」に到着した。夕食は手の込んだ豪華なもので、美味しくいただいた。
 明日の予定歩行距離は長く、しかも雨の予報。無理を言って朝食におにぎりをお願いした。おにぎりでは十分な朝食とは言えないとのことで、その分宿代を安くしてくれた。重ね重ね申し訳ないと思った。

 歩行距離 30.1キロ

31日目
1999年11月 1日(月)曇り時々雨

 昨夜のテレビの天気予報では、今日の午前中は相当強く降るようなことを言っていた。夜半に目を覚ますと、雨の音が聞こえる。予定歩行距離も長いのに、大変なことだと思ったが、また、眠ってしまった。
 朝早く出ようと、昨夜の内におにぎりを作ってもらっていたが、それを食べてまだ暗いうちに出発した。出かけたときには雨はほとんど上がっており、合羽の上着だけで十分雨をしのげた。その後もたまにぱらつく程度で午前中に脱いだ合羽はその後着ることはなかった。

 小田高校の手前で地図を見て道を確認していると、向かい側から来た60歳過ぎと思われるご婦人が道を教えてくれた上に五百円ものお接待をしてくれた。お接待でいただいた現金はどう有効に使わせていただくか考えなくてはならない。

 段々と紅葉が目立ち始めた。イチョウの黄色が特に目立つ。

 今日の予定歩行距離は35.4キロ。30キロを越えるとやはり足にこたえる。美智子の足のマメは大分良くなっているようだが、長距離になると時々針で刺したような痛みを感じるときがあるように言っていた。真弓トンネルまでの上りが長く、いつもは通り過ぎるのが嫌なトンネルにたどり着くのが待たれた。

 大分しんどかったが今夜の宿「リバーサイド富士」に着くことができた。「リバーサイド富士」は文字通リバーサイドで建物自体が渓流のすぐ横に建っており、部屋からの眺めは素晴らしかった。

 歩行距離 35.4キロ

32日目
1999年11月 2日(火)雨のち曇り

 今日の予定歩行距離は30キロを切るし、雨も降らないだろう、とたかをくくっていた。
 「リバーサイド富士」の朝食が7時ということでゆっくり起きだし、食事をして出発した。ところがしばらくして雨が降り出し、一時本降りとなった。昨日は覚悟していたが、今日は降るとは思っていなかったので気が滅入ってしまった。

 初めて逆打ちをした。第45番岩屋寺から第44番太宝寺へのルートを選んだ。「リバーサイド富士」の人のすすめで遍路道は通らず車道を選んだ。岩屋寺を参拝して、ここまで建築資材を運べ上げて、お寺を建立した人たちがどんなに苦労しただろうか、と頭が下がる思いがした。昔の人は本当に大したことをしたものだ。

 参拝を済ませて、麓の茶屋で抹茶蒸しパンと草餅を買い椅子を借りて食べた。これが今日の昼食。蒸しパンが特に美味しかった。
 そこのおやじさんのすすめで太宝寺へは遍路道は通らずにすべて車道にした。美しい渓谷車道を歩いていて岩屋寺から「国民宿舎古岩屋荘」付近の渓谷(写真)と奇岩の景観には圧倒された。紅葉にはまだ少し早かったが、それでも目を十分楽しませてくれた。季節がもう少し先に進んでおればその美しさはどんなにか素晴らしかっただろうと少し残念だった。
 紅葉の季節なら少し時間をロスするか、あるいは少し頑張って歩くかしてでもこの国民宿舎にお泊りになることをお奨めしたい。
 太宝寺では納経所で団体のお遍路の後になり、ずいぶん待たされたが、その間に明日の宿の予約をすることができた。
 岩屋寺を出てからは再び雨に降られることはなかった。雨は止んだが時折木枯らしかと思うような冷たい風が吹いたが、歩いているために、背中にはうっすらと汗をかいている。しかし、素手では杖を持つ手が冷たく感じるようになった。
 今夜の宿「民宿 一里木」に着いた時は暗くなっており5時を少し過ぎていた。部屋に案内してくれたご主人が石油ストーブに点火してくれた。

 歩行距離 28.8キロ

33日目
1999年11月 3日(水)晴れ

 7時前に宿を出た。三坂峠まで国道33号線を歩いたが、ゆるい傾斜の上りが続く。峠からは、遍路道に入ったが、これが急な下り坂。足元が悪く、石が動いたり、滑ったりしないかと細心の注意を払いながら、下りたから距離が稼げない。やっとのことで里の道に出られたが、この間で相当時間を使い、足に疲労が残ったような気がする。

 里の道に出て間もなく、ミカンを収穫していたご婦人からミカン4個のお接待を受けた。

 今日は第46番浄瑠璃寺、第47番八坂寺、第48番西林寺、第49番浄土寺、第50番繁多寺、第51番石手寺までお参りしたが、石手寺に到着したのは5時少し前で、なんとか納経所で記帳してもらうことができた。

 もう少しゆっくりしたい雰囲気のお寺だったが、暗くなりかけたので、今夜の宿「松山郵便貯金会館」(メルパルク)へ急いだ。
 道後温泉にゆっくりつかり、贅沢すぎるくらいの豪華な夕食をいただき、久しぶりにビールまで飲んだ。

 今日は「文化の日」で祭日なのに一日歩いていても国旗が掲揚されているのを一度も見ることがなかった。こんなことでいいのだろうか、と美智子に言ったら、家で国旗を掲揚したことがあるか、と冷たい目で見られた。そういえば、家に国旗はない。

 朝から寒く、昼まで手袋を使った。今日は朝の上りと山中の下りで疲れてしまった。明日のためにもう寝よう。

 歩行距離 27.2キロ

34日目
1999年11月 4日(木)晴れ

 今日は予定歩行距離は少ないし、参拝する予定のお寺も二か寺なので、宿の7時からの朝食をゆっくりと頂いて出発した。
 気がゆるんでいたのか、朝から道を間違えてばかりだった。宿を出てすぐに遍路マークを見失ってしまい、道後温泉の町中で道が分からなくなってしまった。
 おかげでというのも変だが、道後温泉本館を見ることが出来たし、写真も撮れた。それにこの本館の前で観光客から写真を撮らせて欲しいと言われてモデルになってしまった。
 うろうろしていると親切な人から道を教えられ、本来のルートに乗ることができた。

 ところがしばらく歩いていてまた分からなくなり、地図を見ていると車を止めて若い男性がわざわざ下りてこられて丁寧に教えてくれた。この人はすぐ先の実家のお母さんに用事があって来たらしい。
 しばらく行くとこの方が待っていた。車を実家に置いてきたらしく、道がよく分かるようになるまで親切にも10分ほど一緒に歩いてくれた。本当に親切な方がおられる。このような親切な方々に助けられて今日まで歩けた、と改めて感謝した。

 コンビニで買ったパンを野池のほとりで座り込んで二人で食べた。食べ終わって車道に出てしばらく歩いていると、後から車のクラクションが聞こえた。見ると先程、歩いて一緒に道案内してくれた方だった。少しタイミングが違うとお会いすることもなかっただろう。美智子にこれがご縁と言うものかなあ、と話しながら歩いた。

 第52番太山寺を打ち、第53番円明寺も打ち終えて国道196号へ。
 久しぶりに海を見た。しばらく海のすぐ横の歩道を歩く。瀬戸内海は太平洋とは雰囲気が全く違う。北条市に入ると歩道が海からそれてしまった。

 今夜の宿「門田旅館」まであと5キロほどの所で、何とか5時には着けると思っていたころ、後から自転車で追いかけてきたご老人が、お茶を接待したいから是非自宅に寄って欲しいと言われる。先を急いでいるので、とお断りしたが、どうしてもと言うことで断りきれずに100メートルほど後戻りした。
 お茶をいただきながらいろいろなお話をお聞きしたが、尽きることがない。大方一時間ほどお邪魔したが、先が心配になりおいとました。このとき、道後温泉のお土産として売られている、というご自分で彫り、刷られた版画の葉書を沢山いただいた。家から出てこられ見えなくなるまで手を振り、見送ってくれた。また、涙が出そうになる。

 美智子の足は大分良くなったのに、今日は私の右足が痛み早く歩けない。6時前に宿に入ることができたが、足が痛いのも手伝って、宿までがずいぶん遠く感じた。

 歩行距離 22.3キロ

35日目
1999年11月 5日(金)晴れ

 朝、「門田旅館」を出てから国道196号線をひたすら歩く。左手に瀬戸内海が見えたり隠れたりする。海が見えるところでは多島美(写真)美しい瀬戸内海を満喫することができた。
 歩いているといろいろな方と出会える。菊間町で反対方向から来る歩き遍路の方と出会った。その方は宮崎県から来られて71歳の由。元気でかくしゃくとしている。
 予科錬の同期会に参加するために松山へ向かっているとか。その方は「今までの人生で一番嬉しかったことは戦争から生還できたこと、一番悲しかったことは10年前に妻に先立たれたこと」と話をされた。
 また、「どちらが先に逝くにしろ、先立たれると辛い。男は特に立ち直るのに時間がかかる。奥さんを大事にしなさい」と言われて、すっと背を向け歩き出された。その方の目がかすかに潤んでいるように見えた。私もなんだか身につまされる思いがした。ほんの数分間の立ち話だったが、この方とはもうお会いすることもないであろう。これが一期一会と言うものだろうか。
 歩きながら、もうすぐ結婚して34年になるが、私は美智子を大事にしただろうかと考えた。大事にされたとは思うが、大事にしたとは公言できない。これからは心しなければとしみじみ反省した。

 昼食を取りしばらく歩いていると50メートルほど先で軽トラックが停車し、ご婦人がミカンを持って降りてこられた。歩いているとのどが渇くでしょうから、とミカンのお接待を受けた。Uターンして私たちが来た方向へ帰られたので、私たちを見て車で追いかけてくれたのだろう。ありがたい。
 次は今治市に入ったあたりで乗用車が止まった。先を歩いていた私は通り過ぎたが、美智子に乗らないかと若いご婦人が言ってくれたらしいが、歩いているからとお断りした由。それを聞いて私も頭を下げお見送りした。

 第54番延命寺を打ち、市の墓地を下りきったところで、ご婦人から美智子がチョコレートクッキーのお接待を受けた。この方は地元だからいつでもお遍路に出かけられると思っている間に夫に先立たれた、と悔やんでいた。
 今日の最後のお接待はもうすぐ第55番南光坊だと思い地図を出し確認しようと思って見始めたら、どこで見ていたのか小さなお子さんを連れた若いお母さんが南光坊さんならそこを曲がってすぐですよ、と教えてくれた。

 お接待の気持ちは四国では今も綿々と生き続けているのだろう。それもごく自然に。私たちはいい旅をしている。

 南光坊を打ち、すぐ横の今夜の宿「松里旅館」に入った。

 歩行距離 27.6キロ

36日目
1999年11月 6日(土)晴れ

 6時半頃にとお願いしていた朝食をいただいた。お年寄りの男性一人できめ細かく夕食、朝食のお世話をしていただいた。このご主人のお見送りを受けて宿を出た。

 しばらくすると前を女性のお遍路が歩いている。美智子がリュックの色や形から「民宿 海の幸」で会った人だと言い出した。第56番泰山寺に着く前に、その人だと確認でき、お互い元気なことを喜び合った。

 次は10月29日に「民宿 稲荷」で夜しばらく話したAさんと再会した。この人は第57番栄福寺で見かけたときに、そうではないかと思ったが、日焼け防止のためタオルで顔を覆っているので確認できなかったが、第58番仙遊寺ではっきりした。やはりあのAさんだった。 足が速い人なのにどうして追い着いたのか不思議だったが、頑張りすぎて足を痛めて、松山市内で松山城を見学したりしてゆっくりしていたらしい。

 仙遊寺へは地図に標高が出ていなかったので分からなかったが、上り下りともに大変きつかった。
 仙遊寺の土産物売り場の前にいたご老人がいま、ミカンをもらったからおすそ分けすると2個いただいた。土産物屋の人が今年はミカンが豊作で山のミカンは勝手に取って食べてもいいよ、と冗談を言っていた。

 仙遊寺から第59番国分寺へ向かう途中、道しるべを見失って地図を調べていると、単車に乗ったご婦人が近づいてきて実に適確に教えてくれた。「そこの階段を上り、左へ行き、信号を右に曲がり、橋を渡って1キロほど行くと国分寺の看板がある」とのことだったが、寸分の違いもなく、国分寺に着くことができた。

 国分寺の入り口でタオルを売っている店の若い女性から、タオルのハンカチのお接待を受けた。国分寺でお参りを済ませて帰り際に先程の店から今度は若い男性が出てきて、歩き遍路の人にはアイスクリームを接待していると言って、美味しいアイスクリームをいただいた。しばらく話をし御礼を言って辞した。

 後はひたすら今夜の宿「ホテル ユニバース」へと歩くのみ。食堂で遅い昼食を食べているとき、国道を黙々とAさんが歩いていた。食事を終え、しばらく歩いてAさんに追い着いた。少し足を痛めているらしい。仙遊寺から一緒に歩いているときまだ今夜の宿を決めていないとのことだったが、決まりましたかと聞いたら、私たちの宿の近所の「ビジネスホテル 東予」に決めた由。到着してみたら道を挟んで隣同士の宿だった。

 歩行距離 27.2キロ

37日目
1999年11月 7日(日)晴れ

 「ホテル ユニバース」は宿泊料は安いし、ホテル内の割烹「道前」の料理は安くて素晴らしかった。

 第60番横峰寺をどう打つか散々迷ったあげく、今夜は第61番香園寺の宿坊で宿泊し、明日横峰寺を参拝し、また、香園寺に帰ってくるつもりだった。

 「ホテル ユニバース」から香園寺までは地図で計算すると大体12キロ前後になる。今日は休息日のつもりだった。朝、ゆっくり出ても、昼前後には着くだろうと思っていた。私たちはまだ着くとは思っていなかったが、道路の花壇の手入れしている方にお聞きしたらもうすぐですよ、と言われるし、しばらく歩いて確認のために散歩している方にお聞きすると、あの洋館みたいなのがお寺です、と教えられ余りにも近いのでびっくりした。何がおかしかったのか、今でも分からないが、9時前に今まで見たこともない鉄筋コンクリート造りの四角い建物、香園寺に着いてしまった。Aさんもすぐ後から着いて、おかしい、と言っていた。

 こんな時刻からお寺で寝るわけにもいかず、お寺の方にお聞きすると横峰寺まで往復7時間半くらいとのこと。荷物を預け、Aさんと三人で横峰寺を打つことにした。

 途中に店もなにもないとのことで、一旦国道まで出てコンビニで昼食用の食べ物を買い込み9時半頃から登り始めた。非常にきついアップ・ダウンがあったが、1時ごろには到着し、参拝を済ませることができた。三人で道端にあった丸太に座り食事をしたが、目の前を団体でお遍路さんが通り、少し恥ずかしい思いをした。

 一息入れて香園寺を目指しまた歩き出した。途中、奥の院を参拝し、5時ごろ無事に香園寺に戻ることができ改めてお参りをさせてもらった。少し疲れた。

 宿坊で食事のとき鯖大師でお会いしたKさんにお会いした。

 奥の院からの帰り道で、車道を這っている小さなヘビを見た。今年はどうなっているのだろうか。

 歩行距離 31.1キロ

38日目
1999年11月 8日(月)曇り一時小雨

 今朝は香園寺宿坊をゆっくりと出た。第62番宝寿寺、第63番吉祥寺はすぐ近くにある。第64番前神寺は少し離れているがそう苦にならない。

 宝寿寺では納経所でこの人からのお接待です、と祝儀袋に入ったお金を渡された。見ると裏に「29歳 女」と書いている。この女性は何を思いこのお接待を思いついたのだろうか。何を思い遍路に出たのだろうか。無事結願したのだろうか、などと考えた。今日までこのようなお接待の経験は初めてである。

 国道から前神寺の方に入ってしばらく歩いたところで、ご婦人から昨日ついたお餅だがまだ柔らかいので、よろしければお接待ですと渡された。3時に今夜の宿「ビジネスホテルMISORA」に着いたときにはもう硬くなり、このままでは食べられないので、宿の女将に食べてくれるようお願いした。

 前神寺を打ち終えて国道11号線を歩いていたが、西条市から新居浜市へ入ってしばらくして遍路道に入った。 (写真は前神寺 本堂)前神寺
 この遍路道を歩いているとき、前から来たお年寄りからおさい銭にして、と現金のお接待を受けた。結願のお寺第88番大窪寺まで、いただいたこのお金と一緒に歩こう。以前にも書いたと思うが、お年寄りから現金のお接待を受けると特に気にかかる。

 今日は途中小雨が降ってきたが傘をさすほどのことはなかった。四国の最高峰石鎚山の山頂は雨で霞んでいた。

 今日の宿は予約のとき、夕食がないと聞いていたので近くのコンビニで夕食を買い込み宿に入った。この宿は部屋、トイレ、浴室全部に掃除が行き届き気持ちよく過ごさせてもらった。
 もう風呂にも入ったし、今日は早めに寝て、足の疲れをいやさなければいけない。

 Aさんも同宿で私たちより少し遅れて到着した。

 歩行距離 23.5キロ

39日目
1999年11月 9日(火)曇り一時晴れ

 「ビジネスホテルMISORA」の朝食は7時から。朝食の内容は特に変わったところはなかったが、料理がきれいで作った人の人柄が分かるようで美味しくいただいた。

 今日は国道11号線と平行して通っている旧道の遍路道を歩いた。右手に山、左手に海を遠望することができた。
 遍路道を歩いたせいか四人の方からお接待を受けた。三人は年配のご婦人ですべて現金。その内のお一人の方は70年前に子どもを背負い、ご主人と一緒に八十八カ所を32日で歩き、余りにも早かったのでお寺の住職が驚いたらしい。最初はワラジ履きだったが、すぐに擦り切れ、地下足袋に替えたがかかとが破けて困った、と笑っていた。32日とは大変なスピードで今の健脚の方でもかなわないと思う。道は今より当然悪いだろうに、歩き慣れているとは言えすごい。
 残りの一方は通りがかりの男性で、遍路道から少し入った路傍の石を借り、コンビニで買ったパンを食べ終わり、出かけようとしていたときに、酸っぱいかもしれない、と言いながらミカンを差し出してくれた。今夜の宿「大成荘旅館」に着いてすぐにいただいたが甘くて美味しかった。

 4時過ぎだったか、Aさんが部屋を訪ねてきた。私たちが宿帳を先に書いていたので、同宿だと分かったのだろう。私が風呂に入っている間、美智子と話していた。

 夕食はいわゆる「お袋の味」で手の込んだ料理で美味しかった。客は私たち三人だけのようで、食事の後女将を交え四人で一時間ほど雑談をした。女将は苦労人らしかった。そのためか言葉使い、しぐさにどことなく品があるように思った。

 明日の道中には店舗も食堂もないとのことだったので、昼食のためにおにぎりをお願いしておいた。

 歩行距離 22.5キロ

40日目
1999年11月10日(水)晴れ

 朝食も何かほのぼのとするような手料理だった。女将の人柄がしのばれる。

 宿代をお支払いするとき、おにぎりはお接待です、と言われ恐縮してしまった。
 Aさんと三人で宿を出てからは女将が書いてくれたメモに沿って歩き、無事第65番三角寺に到着したが、上りが割合きつかった。
 「菩提の道場」最後のお寺の参拝を終え、今度は「涅槃の道場」最初のお寺第66番雲辺寺へ向かうのだが、一度下る。

 国道192号線に入る前に三人でおにぎりをいただいた。小春日和で空気も澄んでおり実に気持ちがいい。しばらく休憩してまた、歩き出した。国道192号線に入ってからはダラダラとした長い上りが続く。この坂道には車の排気ガスとともに閉口した。 
 長さ855メートルだったと思うが境目トンネルを歩いたが、側溝を少し広くした程度の歩道はあるが、トンネル全体の幅員が狭い。大型トラックが横をビュンビュン通過するので冷や冷やした。
 道路は歩く人のためには造っていないことが、歩いてみるとよく分かる。トンネルを出てしばらく歩き、女性たちが事務所でトイレをお借りしたが、男性から飲み物のお接待を受けた。トイレを借りるだけでも恐縮なのに申し訳なく思った。

 3時前に今夜の宿「民宿 岡田」に着いた。ここの女将は良く言えばキップが良い。悪く言えば柄が悪く、口も悪い。しかし、決して悪い人ではないみたい。

 第67番大興寺までは何もないので、明朝には、昼食用におにぎりをお接待するとか言ってくれた。客は全部で五人だったが、夕食の時は女将がつきっきりでご飯をよそったりしてくれた。

 歩行距離 19.9キロ


表紙に戻