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 草庵先生日々の暮らし 提供 朝日新聞
     草庵先生紹介
日記  35               宇都宮藩からの招きの手紙を読む草庵 宮崎和夫さん作

青谿書院を建てから5年ほど経った時だった。池田草庵に宇都宮藩(現・栃木県)から藩主の指導者として来てくれないかという招きがあった。

「宇都宮藩の岡田氏から手紙が来る。妻八鹿より帰る。夜、片山(実家・兄の家)に行く。しばらくして帰る」嘉永5(1852〉年9月26日 使者の持ってきた岡田からの手紙は、現在の宇都宮藩主戸田忠明はまだ若く、その指導者として草庵にぜひ宇都宮藩に来てほしいというものであった。そして、その待遇は禄(給料)は200石、身分は用人格、子孫にも相応の禄を出すなどと破格のものだった。

この時代、学問をしてどこかの藩に取り立ててもらうというのは、学問をするものの一つの目当てでもあった。例えば、草庵の師の相馬九方は、草庵より12歳年上であったが、51歳で岸和田藩の藩需にようやく取り立てられた。九方は藩校「講習館」で斬新な教育をして注目され始めていた。九方の禄は、将来は100石も約束されていたが最初は20石であった。(梅谷卓司著「渦潮の譜」から)草庵は師のそんな情報も十分知っていただろう。40歳近くなっていた草庵も、さらなる自分の可能性を求めて新しい道へ進んでも不思議ではなかった。招きの手紙を書いたのは宇都宮藩の役人を務めていた岡田真吾である。岡田はもともと草庵の友人の春日潜庵の門人であった。潜庵の紹介で、早くからたびたび草庵とは手紙のやりとりをしていた。また、青谿書院にもやってきて、数日間書院に泊まり、草庵と対話したり講義を聴いたりするうちにますます草庵の人柄や学に敬服していた。その岡田が藩の重心たちと相談して、草庵に手紙を書いたのだった。草庵は岡田からの手紙を受け取ってから、3日後に手紙の返事を書いている。「岡田真吾氏からの手紙に返事を書いた」(嘉永5年9月29日)日記にはそれだけしか書かれていないが、迷いはなかった。返事は宇都宮藩からの招きを断るものだった。

 草庵は身分や生活の安定、名声などは求めず、青谿書院で今まで通りの道を歩むことを改めて決心していた。

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日記  34               春日潜庵とはこんな楽しいひとときもあった。潜庵と京都の渡月橋付近を散歩する草庵(右)

草庵の日記には、見た夢のことはほとんど書かれていない。しかし、友人の春日潜庵の夢を見たときは、書いている。「夜中、春日潜庵としばらく話をしている夢を見た」(文久2(1862)年8月23日)「明け方、潜庵と遊んでいる夢をみた。しばらくして目覚め、自分にあった迷いが無くなって明るい気分になった」(文久3〈1863〉年1月2日)

「この日寝ていて、潜庵と出会っている夢を見た。目覚めてからもうっとりとしていた。」(明治9(1876)年1月23日)夢にまで出てくる潜庵は、草庵の生涯にわたっての友人であった。潜庵が出てくる夢はいつも明るい。目覚めてからも、前向きな気分にしてくれる。

 故郷を出て京都の相馬九方の塾で苦学をしているとき、潜庵は草庵の唯一の友人だった。生活のことも学問のことも教えられることが多かった。潜庵は公家につながる出身で、草庵より2歳ほど年上だ。質素な生活をしている草庵をいろいろ援助してくれた。九方の塾を出て、京都松尾の山中に1人住んで修行したときには、その住まいの世話や生活の援助をそれとなくしてくれた。また、京都の名所である渡月橋や嵐山に誘ってくれて、いっしょに歩いたり風景を楽しんだりしたこともあった。

京都から故郷に帰った草庵は、翌年においの池田盛之助を潜庵の元に数カ月派遣した。「潜庵の学問からおまえが学ぶだけではなく、潜庵から学んだことを私にも教えてほしいのだ」(贈姪盛游京師別言)から)と盛之助を送り出している。

 幕末、潜庵は尊皇攘夷(じょうい)の活動をして、安政の大獄で捕らえられた。そして、岸和田藩別邸の一室に幽閉された。草庵はその状況に心を痛め、自分の部屋に潜庵の閉じ込められている部屋の見取り図を掲げてその苦痛を思いやっていた。

生涯にわたっての友人である潜庵は、草庵の夢の中にまで出てきて励ましてくれる。潜庵は明治なってから奈良県初代県知事などを務め、明治11(1878)年3月、草庵の亡くなる半年ほど前に亡くなった。

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日記  33                草庵が林良斎に宛てた手紙。巻紙を伸ばせば10mは越す。現在の400字詰め原稿用紙に書き写せば20枚程。この手紙は良斎の死後に届いた。

いつもは妻に優しい言葉をかけている池田草庵。だが、この時は思わず、「あっちに行ってくれ。これはあなたの知るところのことではない」(「祭林良斎文」から)と大声で言った。友人の一人、讃岐(現・香川県)の林良斎の亡くなった知らせを、手紙で知ったときのことだ。その日の日記。「讃岐の多度津から手紙が届いた。林良斎が先月の4日に亡くなった。と知らせてきた。良斎の子、求馬の手紙もあった。激しく慟哭(どうこく)する」(嘉永2〈1849〉年6月14日)

良斎の亡くなったことを知り、草庵は声をあげて泣いた。その声を聞いて妻、久さんが心配して部屋に入ってきたのだ。草庵にしてはめずらしく大声を出してしまった。「妻は、どういうことかはわかっているだろう。この広い宇宙で私の痛苦を知る者があるだろうか」と、「祭林良斎文」に書いている。それほど良斎の死は、草庵にとっては衝撃的なことだった。1カ月ほど前には、良斎たち友人の手紙をまとめて往復書簡集「鳴鶴相和集」を作って良斎にも送ったばかりだった。また、良斎の亡くなったのは5月4日だが、草庵は4月30日付で良斎宛てに長い手紙を出していた。 

草庵が林良斎と実際に出会ったのは1度だけである。立誠舎(養父市八鹿町)にいた時代、池田盛之助ら数人の門人らと師や友を訪ねて四国、山陽などを旅したときだった。良斎は多度津藩の家老職を務めた人で、草庵より6歳ほど年上の儒学者でもあった。他国の者とは簡単には面会を許さない藩だったが、仲介をする人があり面会がかなった。面会は2時間ほどだったが、草庵が「千古(=永遠)の心友に出会った」と言うほど意義のあるものだった。これ以後2人は、互いに尊敬と信頼で結ばれていった。

 出会ってから3年後には、草庵はおいの池田盛之助を良斎の元に送り、1カ月間学ばせた。良斎の死後、良斎の子の林求馬は青谿書院に来て学んだ。草庵は、良斎の生前の著作などを数カ月かけて書き写して「自明軒遺稿」と題してまとめた。自明軒とは良斎の号だ。千古の心友であった良斎は、いつまでも草庵の中で生き続けた。
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日記  32               「鳴鶴相和集」。草庵が4人の手紙を書き写し、和綴じにしてまとめた 濱篤さん作

讃岐(現・香川県)の友人の林良斎が2月に出した手紙を、池田草庵は5月に受け取っている。「林良斎が2月15日と19日に書いた手紙が2通、一緒に届いた。繰り返し何度も読む。喜びで慰められる」(嘉永元〈1848〉年5月28日)今から考えるとずいぶん日数がかかっている。しかし、かかる日数などには関係なく内容はいつも新鮮なのだ。友人からの手紙には、読書のこと、学問のこと、疑問に思うことなどが書かれており、喜びがあると同時に刺激を受けるのだった。草庵は友人からこうした手紙をいつでも手元に置き繰り返し読みたいと考えた。それで自分からの手紙も付け加えて往復書簡集としてまとめることにした。それを「(めい)(かく)相和集」と名づけた。「鶴」を題名に使っているが、草庵は鶴に親しんでいた。「鶴」という漢詩も書いているほどだ。ただし、これらの鶴はコウノトリだと思われる。青谿書院の周辺には、コウノトリが時折、飛んで来ていて、それを鶴と呼んでいた。嘉永2(1849)年4月19日の日記に「今日、『鳴鶴相和集』のあとがきを書き、それを清書する」と書き、そのあとがきには次のように書いている。

「吉林春池の4人の往復の書簡合計11編、私が順序立てて配列した」

吉林春池の4人とは、広島の吉村秋陽と讃岐の林良斎、京都の春日潜庵、それに但馬の池田草庵自身である。いずれも著名な儒学者であった。これらの手紙を草庵が筆写してまとめ、「鳴鶴相和集」として友人たちの手元にも送った。あとがきでさらに、次のように言う。「日陰にいる鶴は、群れを離れて1人で住んでいるように見える。しかし、志があればみんなと心が通じるものが必ずある。山陽と山陰、南海と京都とは、道は遠く数千里も隔たっているが、志や精神は通じあい、1人が唱えれば別の人が応えるだろう。この書簡集をそれぞれの座右に置いてほしい。また、群れを離れて1人 寂しく住む者のこころの慰めにもなるだろう」現在のように瞬時につながるネットワークではないが、山陽と山陰、四国、京都とを結ぶ志を同じくする者のネットワークが山間の青谿書院を中心にして作られていた。
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日記  31                   草庵は早朝や深夜、線香で時間を計りながら黙座をした 宮崎和夫さん作

線香が1本燃え尽きるには、少なくとも20~30分かかるのではないか。池田草庵は線香を立て、それが燃え尽きるのを目安にしながら静かに座った。黙座である。草庵にとって黙座は、読書とともに日々の自己の修養のために大切なことであった。読書ほどではないが、ほぼ毎日のようにしている。日記には「黙坐香1(ちゅう)」というような書き方をしている。これは「黙座を線香1本燃え尽きるまでした。」という意味である。香1、2炷のことが多かったが、時には次のように連日長い時間黙座をしていた。嘉永元〈1848〉年12月の日記から。

「19日。黙坐、香3炷。夜間心持ちはややよくなる」「20日。黙坐、香2炷。就寝12時頃」「21日。黙坐、香4炷。就寝12時ごろ」「23日。黙坐、香6炷。就寝12時ごろ」外は雪の降るような12月の深夜である。「香4炷、6炷」とはずいぶん長い時間1人で座っていることになる。

 黙座について、草庵は塾生たちに次のようなことを語っている。「人はまず自分を知らなければならない。自分を知らなければ努力もできない。私たちは、日々忙しさにまぎれて、自分はどういうものかということを見失っている。1人で静かに黙座してみると、自分を見つめることができる。そして、自分がいかに愚かでつまらないことを考えている人間かがわかる。そんな自分をごまかさないで、自分でそれを正していくのだ。それが独りを慎む、慎独ということ。そういう生き方を大事にしていこう」(「肄業餘稿」

135条~143条意訳)

草庵は黙座のやり方や作法についてはあまり説明していない。とにかく感情を静め、心を落ち着かせて、黙ってしばらく座る。これを継続してやっていくことが大事なのだ、と草庵自身の姿で言っている。
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日記  30                  草庵の本箱の一部。本箱には読んだ本、塾生に読ませた本など2千冊余りが保存されている。 濱篤さん作

池田草庵の日記には「今日の読書は『近思録』2ページ半。『論語』2ページ半。『通議』13ページ
(元治元〈1864〉年2月21日)というように、その日読んだ書物名、読んだページ数などが毎日のように書かれている。雑用や、体調不良で読書できなかったときは、「書物を読むことができず、空しく一日が過ぎる」などと書いた。読書は、草庵にとっては日々修養していくために欠かせないものであり、その日の大切な仕事でもあった。「唐書」という歴史書を読み終わったときには、日記に次のように書いた。
「今日は『唐書』5,6ページ読む。これでこの書物は読み終わった。昨年の9月20日にこの書物を初めて開いてからおよそ14カ月かかった。ようやく全部読み終わることができ、読み終わった後は、いつものことだが喜びにたえない。『唐書』のページを最初から開き直して見ている」(慶応3〈1867〉年11月7日)何カ月もかけて読み終えた草庵の喜びが伝わってくる。草庵はこれはと思う書物については、こうして何カ月もかけて読んでいた。草庵の読書の仕方について、友人や塾生たちは次のように語っている。「低い声で何度も断続して声を出して読む。その間に書物から何かを見つけ出そうとじっと考えることもあった。1冊読み終えた後、その本について一文をまとめていた」(「但馬聖人」より)
 草庵は読書の方法について、塾生に多くのことを語っている。「肄業餘稿」の中から抜き出して意訳して紹介する。
 「読書しながら疑問を持て」(27条)。「書物の中に住む虫のように。それだけの世界に住むな」(52条)。「聖賢の教えを知っているだけではだめだ。自分のこととして考えよ」(56条)。「読書と体を動かして実践していくこと、この二つを大事に」(172条)。「一生の間に読める書物はかぎられている。書物を選ぼう」(265条)
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日記  29                  2段になって水が落ちてくる猿尾滝 濱篤さん作

香美町村岡区にある猿尾滝は、この時期は雪が降り積もり訪れる人が少なくなっているが、滝の近くまで除雪され雪の中の滝が見られる。猿尾滝は、国道9号の村岡区日影から作山という集落に向かって1キロほど入った所にある。「日本の滝百選」にも選ばれ、県指定文化財(名勝)にもなっている。

 池田草庵は雪が解けた春になってからだが、猿尾滝を見に行って楽しんだ。草庵はこの滝のことを、日記や自分の文章の中では「猿王瀑布(ばくふ)」と書いている。これについては、「滝の立派さに敬意を込めて『猿の尾の滝』ではなく『猿の王の瀑布』としたようだ」と、当地で滝のガイドをしている西村寿さんは話す。草庵は日記に次のように書いた。「塾生3名連れて、村岡に行く。猿王瀑布を見る。夜は村岡の小谷氏の

家に泊まる」万延元〈1860〉年(うるう)3月4日)これは草庵が七美郡(現・香美町の村岡区と小代区など)や二方郡(現・新温泉町と香美町村岡区柤岡など)の人たちからの招きを受けて旅しているときのことだ。草庵は猿尾滝がよほど気にいったのか、翌日にもまた見に行った。そして、この旅から帰ってから「観猿王瀑布記」を書いた。「高さおよそ数十メートル、水しぶきが激しく落ちている。中間辺りに池のようになっているところがある。崖に沿って上り、これを見る。3メートル余りの広さがある。試しに石を投げて見ると、その深さはわからないくらい深い。滝は真っすぐに地に落ちている。地は皆平坦(へいたん)砥石(といし)のようだ。その上を水が光ながら流れていく(後略)」(「観猿王瀑布記」より)

草庵たちは猿尾滝を見てから旅を続けた。その後の日記には日付と泊まった家の名前だけが記されている。「閏3月5日、観猿王瀑布、宿小谷氏。6,7日小谷氏。8日山根氏。9日中井氏。10日山本氏、

11日丸上氏。12日夏川氏。13日丸上氏。14日夏川氏。15,16日丸上氏。17日小谷氏。

18日帰院」と。
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日記  28                  宿南の村の中を新年のあいさつに回る草庵 宮崎和夫さん作

池田草庵は正月をどのように過ごしていたのだろうか。青谿書院に移って半年後に迎えた正月の日記を読んでみる。 
「朝片山(実家)に行く。池口家に寄って帰院。年賀の客2,3人来る。塾生と対話する。午後しばらく横になる。夜、片山に行き風呂。10時ごろ帰院。読書は『畜徳録』20ページ。12時ごろ就寝」
(弘化5〈1848〉年1月1日)
  正月の4日間、講義は休みにしているが塾生は何人か書院にいた。その塾生たちと話したり、やって来る年賀の客を迎えたりしている。客はほとんど村の人たちだ。草庵はいつものように訪問してくる人を心温かく迎えた。そして、夜には正月でも読書。
 「年賀の客が終日次々と来る。夕方より兄嫁や2,3人の女の人が来て、夜遅く退去する。この日の
読書は『畜徳録』20ページ余り」(同年1月2日)
年賀の客は次々と来る。この日は女性の客も来た。この時期まだ結婚していない草庵にとって、華やかな正月の一日になったのではないか。「年賀の客、次々と来る。しばらく弄(ろう)筆(ひつ)を用紙1,2枚にする。夜は塾生と酒宴をして対話。この日の読書は『畜徳録』18ページ余り」(同年1月3日)3日目も年賀の客は次々と来た。その間に書き初めということだろうか、弄筆(揮毫(きごう)のこと)をしている。そして夜には塾生と酒宴もして、いつになくにぎやかだったことだろう。「検読を塾生3人に。村中をあいさつに回る。夕方帰院。夜は塾生と対話。少し疲れて横になる。読書はほんのわずかしかできなかった。(同年1月4日)新年の4日目、この日は草庵が村の中に出てあいさつに回った。帰院後、さすがに正月の応対で疲れたのか少し横になって休んだ。今まで3日間とも読書はよくできていたのに、この日はわずかだ。
草庵は、この年以降も毎年、村人を迎えたり村の中に出たりして正月を過ごしている。宿南の村の中で村の人々と生きていこうとする草庵の姿がある。

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日記  27                  岩滝寺境内にある草庵の漢詩の石碑 濱 篤さん作

池田草庵は、天滝から帰ってから10日ほどして、今度は丹波に出かけた。草庵の母は丹波の佐治村(現在の丹波市青垣町佐治)から嫁いで来ているので、草庵にとっては親しみやすい所でもあった。それに丹波には、草庵の友人や門人たちもいた。「頭痛は治ってきて気分はよくなった。塾生2人連れて書院を出発し八鹿を経て夜に丹波佐治村の小島伯輿を訪ね、対話する。夜が更けて就寝」(嘉永元〈1848〉年4月19日)

ここに出てくる小島伯輿(省斎)は儒学者で、草庵より9歳ほど年上だが草庵の古くからの友人である。後に柏原藩の藩需となり、藩の政治の一翼を担う役にもついた。

 丹波に出かけた草庵は、2日間は小島たちと過ごしていた。3日目彼らと「独鈷(どっこ)の滝」(現在の丹波市氷上町香良)のある山に入っている。「小島伯輿や塾生、そして佐治村や芦田村の人たち十数人で香良の山中に入る。切り立っている岩など存分に見る。(後略)」(同年4月21日)

 ここには「独鈷の滝」の言葉はないが、草庵は香良の山に入れば、当然独鈷の滝も見たはずである。4年前、まだ立誠舎にいる時代、同じように香良の山中に入り、独鈷の滝を見て、その感慨を文章にまでまとめているのだ。それほどの所だから、草庵は今回も独鈷の滝を見たに違いない。4年前、独鈷の滝を見て、そのことをまとめた文章は次のようなものだ。「天保15(1844)年9月。私は友人たちと丹波の香良山に遊んだ。林を通り抜け、石の狭い(みち)を上り、谷を渡り、空洞を見て、絶壁から落ちる滝を見た。崖に立つ松を眺め、険しい岩を踏み歩き、谷に下りてごつごつした岩の間を歩いた。(中略)体をかがめうつむいていると、哀れに猿が鳴くのが聞こえた。何ともいえない気分で、この世のこととは思えなかった。この夜は山中にある岩滝寺に泊まった」(「静養館記」から)

 草庵はこの時見た滝の感慨を漢詩にも書いた。その漢詩は、その夜泊まった岩滝寺(現在の丹波市氷上町香良)の境内に石碑として建てられている。次のような内容だ。

「弘化元(1844)年丹波香良山に来て作る。人生三十年俗世間の中で過ぎた。今朝初めてこのすばらしい山に入った。険しい岩は高くそびえ、(あお)い松は古木。一筋の滝は岩々の間を落ちていく

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日記  26                 今はよく整備されている天滝への道 濱篤さん作


 池田草庵は天滝に行ってから約1ヶ月後、日記に次のように書いている。

 「(前略)午睡から目覚めてから、『游天瀧記』をおよそ3,4枚書く」(嘉永元〈1848〉年5月3日)
 天滝を見たことを「游天瀧記」として文章にまとめたのだ。それには草庵が天滝をどのように見たか、何に感激したのかなどを書いている。原文は漢文で、長くなるが意訳して紹介する。「嘉永元年夏4月7日、私は友人と塾生数人連れて、天滝の景色を見に行こうと書院を出発した。この日は夏梅村の鎌田氏宅に泊まる。翌日の8日は雨が激しかったが夜になって晴れてきた。この日は市場村の田村氏宅に泊まる。9日、天気は快晴、市場村や夏梅村の人に案内してもらう」「筏村の山中に入り、谷底を歩いたり、山の中腹をよじ登るように横切ったりして1キロほど歩いて、ついに目指す大きな滝、天滝に着いた。水は激しく流れ落ちている。

 天滝というのは、流れ落ちる水が雲の間から落ちてくるからだろう。首を上げて仰ぐと、水しぶきは高い断崖の見えないところから激しく落ちている。たくさんの小さな光る球が、まるで長い糸がもつれて落ちてくるように見える。日の光は輝き、風は大きく鳴って、滝の勢いは激しく襲ってくるようだ。そこにしばらくたたずんでいると、めまいがして魂を奪われそうだ」「その辺の石に座り、草をしいて食事にし、酒を酌み交わす。心は清められ、俗界の汚れは流されていく。胸の中はすがすがしくなり、身も軽くなって、別世界にいるようだ。喜びでいっぱいになる。今までも有名な山や素晴らしい水の流れの景色のことを聞くことがあったが、これほどのものはなかっただろう。帰りには、少し歩いては振り返り、立ち止まり、詩の一つも口ずさんでいた。帰りたくないという気持ちだ。この日は平素の私の志をさらに確かなものにしてくれた」(「游天瀧記」から)

 今も天滝は、草庵の見た時と少しも変わらず、雲の間から落ちるように流れ続けている。

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日記  25                 天滝には何度も架け橋を渡って行く 濱篤さん作


「日本の滝百選」にも選ばれている天滝は、養父市大屋町筏の山中にある。落差は100メートル近い雄大なものだ。池田草庵は泊まりがけでこの滝を見に行った。
まず、天滝の近くに住む人からの誘いがあった。

 「午後,夏(なつ)梅(め)村(現在の養父市大屋町夏梅)の人より便りが来る。天滝に遊びに来るように勧めてきた。返事を書く」(嘉永元〈1848〉年3月9日) 

 草庵には、塾生の家族や元塾生だった人から、「ぜひ来てくれ」というような招待がよくあった。草庵もそれに応じて時折、但馬地域のあちこちに出かけていた。この夏梅村の人の招待には、手紙を受け取ってから約1ヶ月後に出かけている。

 「昼食の後、保田順と塾生3,4人連れて夏梅村に行く。宿は鎌田平兵衛氏の家。八鹿の西村五兵衛も一緒に行く」(同年4月7日)
宿として泊まったのは夏梅村の鎌田氏の家とある。草庵の立誠舎時代の門人帳には「養父郡夏梅村人 鎌田吉太郎(改名・平兵衛)」と書かれている門人がいるが、その人の家だろう。

 そして翌日。あいにくの雨のため山に入るのは中止になっている。「この日は雨で、鎌田氏の家に留まっていた。近くの人が絵の掛け軸をもってきてみる。夜になって晴れる。この夜は市場村(現在の大屋町大屋市場)に行き、田村見藏氏の家を宿とする」(同年4月8日)

 そして3日目。いよいよ山に入り天滝を見た。「筏村(現在の養父市大屋町筏)の山中に入る。天滝の景観をみる。この日、一緒に行った者はみんなで15~16人」(同年4月9日)

 草庵は、青谿書院を塾生など、3,4人と出発したが、この日は大屋の人たちも加わり、天滝に行ったのは15人ほどにふくれあがっている。日記は以上のように簡潔だが、天滝を見た感慨などはおよそ1ヶ月後に書いた「游天瀧記」という文章にまとめられている。次回に紹介したい。  
                                     池田草庵先生に学ぶ会               
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日記  24                  鹿子(かご)の木」通称、(なんじやもんじゃの木)の中では兵庫県一の大木、とされる今滝寺の木 濱篤さん作

昨年6月、朝日新聞但馬版に「幻の滝 養父で確認」という記事が記載されていた。養父市八鹿町(こん)滝寺(りゅうじ)にある滝が、江戸時代中期の絵図に「名所」と書かれているが現在ではほとんど忘れられている。それに興味を持った人たちが、絵図を頼りに山中深く分け入ってその滝を確認した、というものであった。

 池田草庵も今滝寺には何度か行き、そこの山や滝の景色を見ているので、今は「幻の滝」と言われる滝も見ていたかもしれない。

 今滝寺は、国道9号沿いの八木地区から山道を1キロほど登った所にある集落だ。ちょうど国史跡の八木城跡の背後にあり、八木城主の菩提寺(ぼだいじ)の今滝寺とともにあった。地名に「滝」という字が使われているだけあって、大小の滝があちこちにある。

 草庵は京都から帰郷して八鹿の立誠舎で塾を開いて1年余り経ったころ、今滝寺に行っている。

「9月9日(弘化元〈1844〉年)、重陽の節句。今滝の山に入り、僧の神宗を訪ねる。神宗の案内で、咲いている花、大きな岩、そして滝、紅葉、それらをみながら歩き回った。そして、谷に下りて絶壁の下から峰を見上げる。そこにござを敷いて、夕日が迫っていることも忘れて、詩や学問のことを議論した(後略)」(「游今滝山記」)から)

 このころの草庵は、八鹿に帰って京都時代の友人と別れた寂しさ、それに雑用や心遣いなどで心身ともに疲れていたようだ。しかし、ここの景色を見ていると、「普段の不満や心の寂しさは一度に消えて、意欲も出てきた」とこの文章を結んでいる。、草庵の見た滝が、先の「幻の滝」だったのかどうかは確認できないが、今滝寺の山や滝の景観に心が癒されている。

 以上のことは、日記「山窓功課」を書き始める前の八鹿の立誠舎時代のことだが、「山窓功課」にも今滝寺に行ったことが書かれている。

 「(前略)午睡から目覚めてお茶。にわかに今滝山に行く。僧の神宗を訪問する。夜になって、月が昇ってきて下山。高柳に向かい(福田氏宅に泊」(弘化4〈1847〉年4月16日)

 急に思い立って行きたくなる魅力が、今滝寺にはあったのだろう。

                                     池田草庵先生に学ぶ会

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日記  23                  赤ん坊から二十歳までの2男3女の子どもたちと草庵夫妻 宮崎和夫さん作

長女蘿子(つたこ)の誕生後、妻の久はしばらく病を患ったが、それも5ヶ月ほどで元気になり、池田草庵もまた普段の生活に戻った。そして長女の誕生後、約5年経って、次の子が誕生した。しかし、この子は不幸にして誕生後26日で亡くなった。草庵の悲しみは大きかったが、それから3年ほどして女児が誕生した。

「今日の夜、女の子産まれるなり」(安政4〈1857〉年2月24日)

「今日は妻の産後、6日経った。親戚の者集まってきてお祝いする。終日にぎやか。この日、また読書せず」(同年2月29日)

草庵の喜びが伝わってくる。この女の子は竹乃(竹野の表記もある)と命名されて、順調に育っていった。そして竹乃の誕生から5年後、長男が誕生した。「今日の夜中12時ごろ、妻は男児を出産。女性数人来て事に当たってくれる」(文久2〈1862〉年1月6日)

「今日は小児に命名する。甥の妻来てくれる。小酌して横になる」(同年1月8日)

この子は徹蔵と命名された。、翌年1月6日には「今日は徹蔵の誕生日なり。女性たちお祝いのために集まる」と、みんなで誕生日を祝い、その成長を喜んでいる。「今日徹蔵に初めて『三字経』を授ける」(慶応3〈1867〉年8月16日)とある。まだ幼い徹蔵に本を読む手ほどきを始めているのだ。徹蔵が5歳7カ月のころである。

「三字経」というのは、漢文の初心者用の書物で、「父子恩、夫婦従、兄則友」など字を一句として、それを学習しながら人の生き方の基本を学ぶようになっている。徹蔵は、草庵の手ほどきを受けて、期待に応えながら成長していった。

その後元治元(1864)年には男児の修藏、明治2(1871)年には女児の藤枝が誕生した。明治4(1871)年に長女の蘿子が八鹿村の國谷氏に嫁ぐが、それまでは2男3女の子どもたちがいてにぎやか       な草庵一家であったと想像できる。しかし、日記には家族の様子などはほとんど書かれていない。

池田草庵先生に学ぶ会

     草庵先生紹介
日記  22                  長女を抱く草庵。妻の病も回復してきた 宮崎和夫さん作

妻の久は6月22日に長女の蘿子(つたこ)を出産してから、体調があまりよくなかった。5日後には、状態がひどく悪くなった。

「妻の病、大変重くなっている。親戚者みな集まる。混乱している。國屋松軒も来て、泊まる。片山(実家)に行き、霊位を拝する」(嘉永2〈1849〉年6月27日)

妻は、いわゆる産後の肥立ちがよくないという状態になったようだ。このような状況で6月は終わる。

7月1日の日記には、「朝、松軒は帰る。読書は『王子小伝』8ページ。病の妻の看護を終日終夜」とある。この後の7月の日記は空白で、最後次のようにまとめて書かれている。「この月は、妻の病の看護をして日を送る。その間、学問や修養は進んでいない。読書は雑書を少しばかりだ。ほとんどこのような状態で、夜も起きたり座ったりだ」

日記は8月に入って、「妻やや回復」と書かれ、続いて短い記述が7日間だけある。しかし、9月と10月の日記は全く書かれていなくて空白。日記「山窓功課」が32年間続けて書かれた中で、このように空白があるのは、他には旅にでている期間だけだ。それほど妻の看護に全精力を使っていたのだろう。その間も塾生への講義などは怠らずなんとかやっていたようだ。

それが11月の半ばに、今まで空白だった日記が突然次のように書かれている。

「早起。黙座。検読2人。午後、講義は『史略』。夜間も講義する。また夜間、黙座を線香1本半する。三更(12時前後)就寝(後略)」(同年11月14日)

池田草庵の終日終夜の看護のおかげか、妻は約5カ月かかってやっと回復してきたようだ。この日以後、また今までと同じように日記は書かれていく。妻も元気になり、草庵も日々努力していく今までの生活に戻ったのだ。

(池田草庵先生に学ぶ会)

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日記  21                  草庵の長女の誕生した光景 宮崎和夫さん作

結婚からちょうど1年ほどして、池田草庵のはじめての子が誕生した。その前日から、誕生に関係する文を抜き出してみる。

「兄が来て、しばらく話してから帰る。夜、兄嫁や村の女の人が数人来る。混雑が続く。盛之助と芳太郎が来る」(嘉永2〈1849〉年6月21日)

「夜、村の女性数人来る。また親戚も集まる。医者が来る。國屋松軒来る。いろいろなことあり。家中混乱。夜明け近く4時ごろ妻、女の子生む。一晩中眠らず、明け方少しだけ寝る」(同22日)

草庵の長女の誕生である。前日からの日記に書かれていることは、お産という大きな出来事を前に、人の出入りが次々とある。親戚が集まったり、医者が来たり、何か妻の身に尋常でないことが何か起こっている雰 囲気である。

「今日は一日中、妻のいる部屋は騒がしい。婦女の出入りでごたごたしている」(同23日)

そして、ようやく3日目。

「この日、女子に命名する。女の人数名集まる。この日一日中ごたごたしていた。この夜は兄嫁が泊まってくれる。夜更けに就寝」(同25日)

女の子は元気に育っているいるようで、命名もされた。日記には書かれていないが、名前は「蘿子(つたこ)(「蘿」と表記されることも)」だった。命名はされたが、女の人たちが来たり、兄嫁が泊まったり、妻の周りは相変わらずごたごたしている。

それでも翌26日の日記は、今までのような普段の生活のことが書かれている。

「講義は『孟子』。検読4人。授読5人。三方氏が見舞いに来る。昼寝後、『畜徳録』を盛之助と読む。結髪。夜間は弟と話す。この日、いろんなことが終日ある(後略)」

しかし、翌27日になって、妻の体調がひどく悪くなったのだ。日記も妻の体調のことが中心になっていく。

(提供 朝日新聞社)


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日記  20                  妻に「心学道話」を読み聞かせる草庵 宮崎和夫さん作


35歳を過ぎた池田草庵から見れば、20歳前後の妻は社会的な経験も浅い。それに、やがて最初の子どもも生まれてくる予定だ。草庵は何かと心配することもあったのだろう。また、妻に人としてのさらなる成長を願っていたはずだ。草庵は妻と話し合いをしながら、あれこれと教えている。

結婚してから半年ほど経った頃の日記 

「講義は『伝習録』5ページ。また講義は『小学』1ページ。検読は1人、授読は5人。午後、一眠りする。目覚めてお茶。(中略)午後の講義は『十八史略』。この日の読書は『論語学案』6ページ。黙座を香3本分する。妻と話し、あれこれとしばらく教える。それから就寝」(嘉永2〈1849〉年3月19日)

そして、この日の翌日には、妻に本を読み聞かせている。

「検読1人。授読5人。講義は『十八史略』1ページ。午後頭痛がして、横になったり、お茶にしたりして休む。この日『心学道話』を3冊読み、妻にこれを聴かせる。10時ごろ就寝」(同年3月20日)

この日の後も、たびたび妻に「心学道話」を読み聴かせている。

「心学」というのは、江戸時代に儒学や仏教、神道などを融合させて人の生き方、あり方などをわかりやすく説いた教えだ。青谿書院に移る前に、草庵が借りて塾を開いていた八鹿の立誠舎はもともとは心学を勉強する所であった。

「心学道話」というのは、その心学の内容を、物語やたとえ話などでわかりやすく書いた書物。

草庵と妻とのこのような時間は、子どもたちの誕生とともに少なくなっているが、草庵が晩年になってまた、「妻たちの(ため)に『心学道話』を読む」(明治10〈1877〉年3月19日)とある。草庵の亡くなる1年半ほど前だ。草庵は生涯にわたって、妻にも人の生き方を教え、妻もそれを受けとめて聞き、学んでいたのだろう。                                 (提供 朝日新聞社)                  
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日記  19                   草庵の肩をもむ妻の久 宮崎和夫さん作

 池田草庵は、妻ともよく話す時間を持っていた。

 「検読5人。授読1人。片山(実家)に行ってから、しばらくして帰る。講義は『小学』。1人の塾生の質問を受ける。夜、読書をしばらくしてから、盛之助や妻と話す。この日の読書は『龍渓集』5ページ。二更(午後10時ころ)就寝」(嘉永元〈1848〉年8月21日)

 講義や読書で忙しい草庵であったが、妻の久とはよく話した。それは今までにない楽しい時間だったのだろう。久が書院にやって来た翌月の日記の中から抜き出してみる。

 「夕方から妻とだんらん、対話する」(同年9月3日)「夜、妻と話す」(同年9月7日)、「午前、妻とだんらん、対話する」(中略)。夜、また、雑話する」(同年9月9日)などと続いている。

 対話だけではない。これは翌年の日記だが、「夜、妻に肩たたきをしてもらう」(嘉永2〈1849〉年4月3日)というような日もある。今まで、「幼い塾生に肩たたきをさせる」ということはあったが、今度は妻がやってくれるのだ。

 しかし、妻とは楽しい対話ばかりではない。結婚から5年ほど経ってからのことである。

 「妻と対話する。深く反省させられる所があった。普段のいろいろな思いやりのない自分の言動に気づく。改めていかなければならない」(嘉永6(1853)年1月21日)

 妻との対話を通して、平素の自分の言動に思いやりのなかったことに気づいているのだ。

こういう草庵について、草庵亡き後、久は次のように語っている。

 「(夫は)普段の行いに裏表や陰日なたのない人だった。私に対しても、大事なお客様に接するのと同じような態度だった」(豊田小八郎『但馬聖人』より)

 草庵は自分の生き方として、「(しん)(どく)」(独りを慎む=どんな時でも自分の身を慎み、間違ったことをしない、の意)を常に心がけていた。妻との間でも草庵は「慎独」の生き方を大事にしていたのだ。

                                (提供 朝日新聞社)
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日記  18                  実家での草庵の結婚式 宮崎和夫さん作

池田草庵は35歳の時に結婚した。青谿書院を開いた翌年である。このことには若い塾生たちが気をもんで成立させたようだ。それは、草庵の(おい)であり、門人でもあった池田盛之助が亡くなった時、彼を送る祭文を読んだつぎの草庵の言葉で分かる。「(盛之助は)私のために妻を選んでくれた。また、私のために青谿書院を建てるためにがんばってくれた」。草庵は感謝を述べているのだ。

結婚式当日の日記。「検読 4人。大石牧と話をする。すぐに片山(実家)に行く。この日、婚娶(こんしゅ)。夜遅く書院に帰る」(嘉永元〈1848〉年8月11日)

婚娶とは、嫁をめとること。新婦は、八鹿村の医師國屋松軒の妹の久(久子の表記もある)である。久はこの時20歳前後であったと思われる。松軒は草庵の立誠舎時代からの門人で、盛之助らとともに草庵を支え続けていた人だ。日記によると、その日は新婦を草庵の実家にのこしたまま、自分だけ書院に帰っている。

そして、その後もしばらく草庵の実家に留まったままである。その間、草庵は書院で塾生に講義をしたり、新婦のいる実家に行って泊まったり、体調が悪くなって寝込んだりもしている。

そして、結婚式から4日目。「指導3人に1人ずつ。結髪。木築五郎右衛門が来て、しばらく対話。一緒に池口家に行き食事。しばらくして、書院に帰る。兄嫁が新婦を連れて書院に来る」(同年8月15日)

ようやく新婦が青谿書院にやってきたのだ。そして、その翌日。「検読5人。授読1人。講義は『人譜』。今日は、お茶にしたり、だんらんしたりした。夜、兄がきて、しばらくして帰った。身の回りの雑事も楽しくできる。読書はわずか2,3ページ。祝いの客も来る。盛之助は来て居る」(同8月16日)

塾生たちがいるというものの、今まで1人で生きてきた草庵に生活を共にしていっしょに歩む人ができたのだ。                              (提供 朝日新聞社)

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日記  17                  雪の日の朝の青谿書院への訪問者 宮崎和夫さん作

池田草庵の書肄業餘稿(いぎょうよこう)に草庵が青谿書院を訪れた人たちに心を痛める一節があった。

「慶応2(1866)年冬11月12日、雪が降る寒空のなか、一婦人が子どもを背負い、夫と一緒に来た。その夫は失明し、生計を立てることができなくなっている。それで、人から食べ物を求めては日を過ごしている。妻が起きて、食べ物を手渡すと、背負われた子どもは大変喜び、夫婦もそろって拝むように何度も礼を言った。私はこのことを聞き、思わず悲しい思いで心が痛んだ」

 日記のように日付と、その日ことが書かれているが、日記「山窓功課」の中にはなく、塾生たちに話したことをまとめた「肄業餘稿」の第300条に書かれている。ちなみにこの日の日記はつぎのように書かれている。「早起き。講義は『人譜』をする。検読は3人。午後、塾生に肄業をする(後略)」(慶応2〈1866〉年11月12日)

日記には朝、心を痛めた出来事について何も書かれていない。草庵の日記は、あくまでその日自分がどんなに努力したかなどを反省するために書いているのだから当然とも言える。

しかし、ここで草庵について考えるために、この日の朝の出来事を書いた「肄業餘稿」の中の続きの文章を紹介する。

「あの人たちは、雪の中を歩き、食べ物があるわけでもなく、家もない。手足は凍え、倒れてそのまま死んでしまうこともある。なんと言うことだ」

雪の中を、食べものを求めて歩く人に草庵は心を痛めている。そして,「私たちは、貧しさやひどい災難、肉体的精神的苦しみにある人のことを、察することができるような人になることが大切だ。それができるようになった上で、世の中のために大きな仕事をしなければならない」と結んでいる。

草庵の人柄や生き方を考える上で、多くの示唆を与えてくれる文章だ。

                          (提供 朝日新聞社)

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日記  16                  養老会では養蚕のことなども話題になった。 宮崎和夫さん作

 お年寄りを招いて開く養老会は、安政2(1855)年からはほとんど毎年開かれていった。

「本日は、休講にする。朝、塾生に掃除をさせる。この日は、養老会をして村人が集まり一日にぎやかに過ぎる(後略)(安政3年3月22日)

 これは、2回目の養老会を催した日の日記である。この年の養老会は、書院の講義は休講にして、塾生に掃除をさせて村人を迎え入れている。この日は3月22日だが、現在の太陽暦でいえば4月下旬で、気候の良い時である。養老会はこの気候のよい時期を選んで開かれ、時には書院の周りに咲く桜をめでながら行われたこともあった。

 宴会の後、みんなで心置きなく語り合うことも養老会の楽しみの一つであった。どんなことが、お年寄りの間で話題になったのか。

 「それは自分の仕事、今までやって来た仕事のことなどで、桑や麻、それに機織りの事などがよく話題になっていた。それを側で聞いていると、本当に純朴で誠実なお年寄りの人柄が出てくる話で、今の若い人にはとても及ばないようなものであった。こういうことを聞いて、若い人がお年寄りに学ぶ風習が広まっていくことを願う」(「養老会記」より)

 お年寄りを敬い、いたわり、その人柄、知恵に学んでいこうとする池田草庵の願いがよくわかる。現在の国民の祝日である「敬老の日」は、「老人を敬愛し長寿を祝う」ことを趣旨として昭和41(1966)年に制定された。しかし、ここ青谿書院では、江戸時代末期に、すでにお年寄りを敬い、お年寄りに学ぶ集いが開かれていたのだ。

 その後も養老会は続けられていった。次のようなこともあった。
 「今日、村人相集まって養老会をする。一日中にぎやか。村人が、入門していた横田君兄弟(生野代官の子弟)を呼んで酒食を勧めた。そんなこともあって大酔いして早く就寝。この日も読書できなかった」(慶応2〈1866〉年4月4日)
 幕府の役人の息子たちと飲食を共にして、老人たちも大いに盛り上がったのだろう。

                                      (提供 朝日新聞社)
                   
    草庵先生紹介
日記  15                    養老会には工夫された食事が出された。 宮崎和夫さん作

青谿書院(養父市八鹿町宿南)には、村の人たちが訪ねてくるだけではなかった。池田草庵自身が書院に積極的に村の人たちを招くことがあった。年1回ではあるが地元、宿南村の老人たちを招いている。これは草庵が発案し、草庵が中心になって、村の人と相談しながら進めている。「養老会」と名付けていた。

 「今日は村人相集い養老会をする。老人80歳以上のもの12人集まる。一日中忙しくあれこれ雑事。この日、また読書できず。この日、國屋松軒来てしばらくして帰る」(安政2〈1855〉年3月22日)

 これは、養老会を初めて開いた日の日記で、草庵が青谿書院に来てから9年目のこと。草庵はこの会が終わった後、「養老会記」という文章を書いている。約480字からなる漢文で、会のねらいや意義、第1回の様子などが書かれている。

 その「養老会記」のねらいの部分を要約すると

 「年寄りを大事にする養老の教えは、中国には孔子のいた時代からあった。徳川の時代になって、落ち着いた生活ができるようになったが、人々の間に徳が十分いきわたっているとは言えない。そこで私は、思いやりの心などの『徳の気持ち』を村の人たちの間に広めるため、万分の一の助にでもなればと願って、昔の中国の教えにならい養老会を開くことにした」養老会では宴会も大事なことであった。

 「養老会記」には「会は決して堅苦しくならないようにして、老人が楽しく過ごせるように心づかいをした。会の中心である宴会は、食べ物は豪華なものではないが、老人の口に合うようなものを工夫し、酒は気分よくなるぐらいにした」との記述も。お年寄を慰労する草庵の配慮がよく伝わってくる。

         (提供 朝日新聞社)
    草庵先生紹介
日記  14                    村の女性たちも青谿書院にやって来て,草庵と話した。 宮崎和夫さん作

 村人にも開かれていた青谿書院は、男の人だけがやって来たのではない。村の女の人たちもやって来るようになった。 池田草庵が宿南地区の青谿書院に移ってから一か月余り過ぎたころの日記。

 「池口家の老母(兄嫁の母)が前夜より泊まっている。いろいろと話をする。緑の山を眺望する。昼食後、お茶。しばらくして兄嫁が近所の婦女十数人連れてくる。にぎやかに楽しく過ごす。この日は読書できず。夜がふけてから寝る」(弘化4〈1847〉年7月16日)草庵の実家である兄たちの家は、書院からは1キロも離れていない。この日は、兄嫁が隣近所の女性たちを十数人も連れて書院にやって来て、にぎやかに過ごしているのだ。これをきっかけにして村の女性たちも書院にやって来るようになった。

 なお、この日の前々日の7月14日から3日間は講義も休みとなっている。日記には書かれていないが「盂蘭盆(うらぼん)」の期間ではないか。この間は、村人たちのにぎやかな交流の期間でもあったようだ。

「兄嫁といっしょに某婦人来る。日暮れ前まで対話して帰る」(嘉永元〈1848〉年8月1日)
「午後、某婦女ら数人来る。雑話する」(嘉永元年11月9日)
「兄嫁と村の女性数人集まり、にぎやかに過ごす」(嘉永2年2月11日)
「一老婆が来る。しばらくいろんな話をして、お茶にする」(嘉永6年11月9日)

 このように村の女性たちが書院にやって来ている。これら村の人たちの訪問について、日本の儒学を研究している吉田公平・東洋大学名誉教授は「村の人たちがこんなにしばしば儒学者の元を訪ねていることは珍しい。草庵は、村の人たちのカウンセラー的な役割をしていたのではないか」(平成27年度「夏の青谿書院塾」での講演より)と話されていた。                         (提供 朝日新聞社)
    草庵先生紹介
日記  13                    青谿書院入り口 葵さん作

 青谿書院は池田草庵自身の勉学の場であり、若者の学びの場であった。しかし、それだけではない。村人がやってきて、ひとときを過ごす場でもあった。

 書院に引っ越して10日余り後の日記に次のようにある。

 「検読5人、授読2人。講義は『史略』をする。吉村重助に手紙を書く。午前中に高柳の福田佐右衛門が来た。午後4時ごろ帰った。(中略)後ろの山を越えて片山(実家)に風呂に行く。帰院して、食事をしてから読書。村人が来る。しばらく対話。村人が帰って、それから就寝」(弘化4〈1847〉年6月21日)

 書院に村人が来たことが書かれているのは、この日が最初である。この日以後、しばしば村人とか,一農夫とかと書かれている人たちがやってきて、草庵と対話したり、和やかな時を過ごしたりしている。

 「村人が来てしばらく対話する」(弘化4年9月2日)「村人、絵の軸物を持ってきて一緒に愉(たの)しみ、しばらく話してから帰る」(嘉永5〈 1852〉年12月8日)
 「村人が来てだんらんし、夜通し小酌する。読書せず」(嘉永7〈1854〉年2月22日)

 「村の客、数人ずつ次々とやってくる。昼時、少し酔って横になる。村人また目覚めた頃にやって来る」 (嘉永7年3月3日)

 書院が完成したとき、草庵はその感慨を「青谿書院遇題」という長い詩に書いている。その文末の方に、「(中国の)昔のすぐれた人たちは、世の中にあわないようだと、山に入り門を閉じて暮らした」と書いている。「門を閉じた暮らし」、それは世間から離れ、隠遁(いんとん)的な生活をすることだ。草庵はそういう生き方にもひかれていた。

 しかし、青谿書院の門は閉じられていたのではなく、開かれていた。村人をはじめとして、書院には次々と訪問者があった。草庵は日記に「来客があって、今日は読書が2,3ページしかできなかった」などと嘆きながらも、書院にやってくる人たちを迎えていた。
                 (提供 朝日新聞社)
    草庵先生紹介
日記  12                        青谿書院の庭から青山方面を見た風景。書院の屋根とモミの木
                                                         の間に建設中の北近畿豊岡自動車道が見える   葵さん作


  池田草庵は青谿書院のある養父市八鹿町宿南近く、青山という山に囲まれた集落に時折、出かけている。

 「昼食後、午後の講義『小学』。その後、塾生十数人と青山に登り、周りの景色を見る。薄暮に帰院」(弘化4〈1847〉年8月6日)

  塾生十数人連れて青山に行き、周りの景色を楽しんでいる。
青山は小さな集落で青谿書院の前の道を数十分、山の方に登っていくとある。山の斜面を切り開いて道ができ、家々が建っていた。今も十数軒の家がある。青谿書院という名前は、この青山付近を源流として流れてくる青山川から名づけられた。
草庵はこの青山について「青谿書院記」に次のように書いている。

  「谷に沿って登ると、2里ばかりの所に青山村がある。山仕事や農業している家が 10軒ほど山の木々に囲まれてあり、わずかに家の屋根が見える。書院の窓からこれを見ると、静かな味わいのある雰囲気だ」

 青山の「静かな味わいのある」雰囲気に、草庵はひかれていたのだろう。

 「午後、青山に行き遊覧。晩までいて帰院」(嘉永元〈1848〉年9月8日)

 「午後、塾生を連れて青山に登り茱(ぐみ)を採る。ゆったりとしてから帰る」(嘉永4〈1851〉年10月15日)

  その青山で火事が起きたことがある。「早起き。明け方前、青山で火事がある。それで塾生を連れて青山にいく。夜が明けてから書院に帰る。(中略)青山の8.9軒慰問する」(慶応元〈1865〉年7月16日)

 明け方の青山の火事は、書院からも見えたはずだ。驚いた草庵は、急いで塾生たちとともに駆けつけたのだ。そして書院に戻り、一仕事終えてからまた慰問している。草庵は青山の自然の風景と共に、そこに住む人たちにも心を寄せていたのだ。
                 (提供 朝日新聞社)
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    草庵先生紹介
日記  11                       上流から社殿が流れてきたという寄宮神社

 池田草庵が川にでかけるのは、魚釣りだけではなかった。川に船を浮かべて楽しむこともあった。
「夜、寄宮に行って舟を浮かべて、楽しんだ。いっしょに行った者は数人。深夜に帰る」(嘉永4〈1851〉年7月5日)

 草庵たちは寄宮で舟を浮かべ、それに乗っている。川面や周りの景色を見て楽しんでいたのだろう。寄宮は、養父市八鹿町宿南地区内にある集落の名前で、円山川に近い所にあり、青谿書院からは2キロ足らず。円山川はこのあたりから川幅がずいぶん広くなっている。そこには用水路のための井堰(いせき)も作られていたので、川はある程度の深さや広さがあった。また、江戸時代の後半、円山川は舟運が盛んになり津居山(豊岡市)までの舟が行き来していたが、この地には、船着き場もあった。草庵はここにたびたび来ている。

 「今日は、西村氏の招きに応じて塾生十数人を連れて寄宮の下に船を浮かべる。深夜に書院に帰る」(嘉永6〈1853〉年6月24日)

 円山川は但馬の南端、朝来市生野町から北端の津居山まで、但馬を南北に縦断する川だ。
円山川の延長は68キロ、宿南はそのほぼ中間にある。この地域は、円山川の恩恵をたくさん受けて発展してきたが、また一方では洪水などの災害で苦しめられてもきた。

 寄宮地区に残る言い伝えによると、昔洪水があったとき、上流から神社の社殿が流れ寄ってきて岩場の背に止まり、それを祀(まつ)って神社にして、寄宮神社ができたという。地名の「寄宮」もそこから来たそうだ。円山川の歴史と共にある地区だ。

 「(前略)夜、塾生等を連れて寄宮で舟を浮かべて遊ぶ。しばらくして帰院(後略)」(明治10〈1877〉年8月25日)この明治10年8月の頃は、草庵は自分の体の変調を自覚するようになっていた。11月末には治療のため半年ほど東京にでかけている。草庵が、円山川で船を浮かべて楽しんだのはこの夜が最後であった。                                                    (提供 朝日新聞社)
    草庵先生紹介
日記  10                        青谿書院周辺にも見られるドクダミ 宮崎和夫さん作

 池田草庵の日記には、青谿書院近くの円山川で魚釣りをしたことが書かれている。
 「(前略)夜、若い塾生を連れて蓼川に釣りに出かける。この日の読書は『書経』5ページ。語録のまとめ半ページ。京都の春日潜庵から手紙が来る。また、満福寺から使いの僧が来る」嘉永5〈1852〉年6月18日)

 川に釣りに出かけたのだ。蓼川というのは円山川のこと。蓼川という呼び方は、今でも豊岡市内の蓼川大橋や蓼川用水、蓼川堰堤(えんてい)などと使われている。

 書院から円山川までは、田畑の間を歩いて十数分ほど。手軽に行ける。この日は、塾生を連れて魚釣りに出かけた。そして、翌日もまた講義の後に出かけている。

 「(前略)、夕方、蓼川に釣りにいき暮れ前に帰る」(嘉永5〈1852〉年6月19日)
 残念ながら何を釣り上げたのか、釣り上げた魚をどうするのかなどは書かれていない。しかし、楽しかったのだろう、2日も続けて釣りに出かけている。

 次の日記は、休講の日に釣りに行ったこと。「休講。朝片山(実家)に行って、しばらくしてから池口家に寄って帰院。昼寝後、塾生を連れて川に行き釣りを終日する(後略)」(安政3〈1856〉年5月5日)  
この日は端午の節句の日、それで休講だったようだ。釣りに行った川の名前は書かれていないが、午後からずっと釣りをしている。釣りについて、草庵は次のような文を書いている。「幼い塾生を連れ、長い竿(さお)を持って、前の谷川に沿って魚を釣る。ほとんど俗世間から離れたようなゆったりとした気分になる」(『肄業餘稿』112条)。「前の谷川」というのは書院の前を流れる青山川だろう。草庵の釣りは日常の煩雑な事から離れ、静かに落ち着ける時間でもあったようだ。
                                    (提供 朝日新聞社)
    草庵先生紹介
日記  9                         宿南の野に咲くホタルブクロ 宮崎和夫さん作          
  池田草庵の過ごした宿南(養父市八鹿町宿南)の里はその時期になると蛍がよく飛んでいた。宿南には青山川と三谷川の二つの谷川が流れ、円山川の水が用水路となり田畑の間を縦横に走っている。蛍の発生しやすいところだ。

「夜、塾生数人連れて里から外れた所を散策し、蛍を観る」(安政2〈1855〉年4月27日
「夜、塾生7,8人連れて蛍を観る」(安政4〈1857〉年5月28日
 蛍を観る楽しみは、子どもたちだけのものではない。草庵も楽しみにしており、塾生たちと蛍を見に出かけている。
 草庵は、蛍を見たことを漢詩に書いたことがある。その詩は、草庵が青谿書院に移る数年前、八鹿(養父市八鹿町八鹿)の立誠舎の時代に書いたものだ。

「八鹿の山中で、谷川の流れる音が遠くから聞こえ、山の蛍が暗闇の雨中を飛んでいく。心を静かにして、この静けさにひたる。この妙味を知っている人は昔から少ない」(「八鹿山中漫吟」意訳)

 聞こえてくるのは遠くで流れる谷川の音だけ。そして、見えるものは暗闇を明滅しながら飛んでいく蛍だけ。静かな世界だ。草庵は、こんな静けさを好んだ。

「夜、妻と若い塾生とを連れて、へちまと蛍を観てから書院に帰る。また、書院の庭で木の枝陰に入った月を観て楽しむ。みんなで座って蛍をしばらく観る。心から楽しめた」(安政6〈1859〉年5月6日)

 塾生といっしょに、ついには奥さんまで連れ出して、蛍や月を見て楽しんでいる。この時、草庵は結婚して10年ほど経っている。暗闇を飛び交う蛍を見ることは、草庵の夜の楽しみの一つだった。
                                    (提供 朝日新聞社)
    草庵先生紹介
日記  8                          養父市八鹿町宿南から見た進美山

 「進(すす)美山(みやま)」は、国土地理院の地図によると、正式には進(しん)美(めい)寺山(じさん)という名前で、標高360・5メートルある。池田草庵はこの山を「進美山」と書き、地元でも多くの人がこの名で親しんでいるので、ここでは進美山と書く。豊岡市日高町赤崎にある山だが、その山の立ち姿がより美しく見えるのは青谿書院のある宿南地区(養父市八鹿町)からだ。高い山とは言えないが、かつては山上からの眺めがすばらしかった。だから草庵もこの山のことを文章に書いたり、実際に登ったりしている。「中山吉二郎と塾生十数人連れて、進美山に登る。暮れに帰る。夜は疲れが出た。動きにくく、足が腫れて座ると痛い。不安になって早く寝る」(弘化4〈1847〉年8月17日)進美山の頂上には、白山権現を祀(まつ)る祠(ほこら)が建てられている。頂上を少し下った所には、進美寺という由緒ある天台宗のお寺がある。お寺の観音堂に通じるところには仁王門があり、仁王像が今もにらみをきかせている。

 「午後、林、岡田の2人と塾生数人連れて進美山登山。暮れに帰る」(嘉永3〈1850〉年9月24日)
林、岡田というのは、多度津藩(現、香川県多度津町)から入門した塾生だ。遠来の塾生を進美山登山で歓迎している。「午後、若い塾生十数人連れて進美山に上る。日置(現、豊岡市日高町)に下山。暮れ帰る」(安政5〈1858〉年10月15日)
進美山に登るには、二つの道がある。赤崎地区から登ると距離は短いが急坂だ。「足が腫れて痛い」と書いているのは、このルートだったのだろう。もう一つは、ここに出てくる日置からだ。ここからは、比較的なだらかな道を登って頂上に行ける。

 草庵は「学ぶということは登山のようなものだ。苦労して山上に達すれば、視界は広がり、今まで見えなかったものが見えてくる」(「肄業餘稿」36条)と言っている。学ぶとはどういうことかを、進美山登山を通しても教えていたのだろう。                                             (提供 朝日新聞社)
                    草庵先生紹介
日記  7                           草庵のふるさと宿南の里と山なみ
                                        宮崎和夫さん作

池田草庵は、青谿書院の中だけで講義や読書などをして過ごしていたのではない。周辺の山野にもよく出かけていた。塾生にまわりの自然に親しませるためであり、運動不足になりがちな草庵自身や塾生の健康のことを考えてのことでもあった。

「検読4人、授読1人。講義は『答張籍書』。昼寝後、幼い塾生を連れて前山に登る。夕方、村の客数名来る(後略)」(弘化4〈1847〉年6月13日)この日は、講義が終わってから、塾生を連れて書院の前にある山に登っている。

「(前略)講義は『孟子』。午後、後山に登る。ゆったりとして帰ってから風呂」(嘉永元〈1848〉年11月17日)
これは、ふもとに書院が建つ源氏山に登ったこと。前山、後山は共に書院の近くにあって、どちらもそんなに高くはない。書院を一歩でれば、もう山に続く道があり、散策はすぐにでもできる。

日記には、付近の山々だけでなく田畑の中、野原なども散策したことが多く記されている。これら田畑の中などを歩いたときには「逍遥(しょうよう)」という言葉をつかっていることが多い。自然に親しみながら、ゆっくりと散策しているのだろう。

「夜になって、幼い塾生を連れて田の間を逍遥して、桜の花を楽しむ」(嘉永6〈1853〉年3月1日
「夜、塾生4,5人連れて里から離れた野原を逍遥する」(安政6〈1859〉年8月2日)

これらのことについて、長年、草庵のことを研究されている木南卓一先生(手塚山大学名誉教授)は、室内での静座や読書は「静の修養」で、草庵の散策などは「動の修養」と表現する。そして、「(草庵は)動にしたがい、静にしたがい、修養に努められた」(「池田草庵先生」木南卓一著)と書いている。 
                                     (提供 朝日新聞社)
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                    草庵先生紹介
日記  6                     叱るときも草庵は塾生と向き合っていた
                                        宮崎和夫さん作

青谿書院で学ぶ者は若者が多かった。それだけに生活態度や行動で問題になるようなことも起こった。そんな時、池田草庵は若者たちをどう導いていたのだろうか。日記には、叱る、注意するという意味を表す言葉がよく出てくる。嘉永2(1849)年の日記から見る。

「2月16日 幼い塾生を呼んで責譲する。黙って向かい合ったまま、線香が4本燃え尽きるまで座る」  
「3月23日 塾生を呼んで、しばらく詰責する」
「9月2日 幼い塾生に督責訓戒する

ここには、責譲(責めとがめること)詰責(責め問い詰めること)、督責(責任を果たすように監督すること)、訓戒(戒め教えること)などの言葉が出てくる。草庵はそれぞれに使い分けているのだろうが、平たく言えば「叱る」「注意する」というようなことだったのだろう。具体的には、どのようにしていたのか。

幼い時から書院で学び、後に京都府知事などを歴任した北垣国道は、草庵の没後30年祭の祭文で、草庵に叱られたことの思い出を述べている。

「私に過失あるとき、先生は私の前に座られ、いっしょに数時間静座された。時には、夜中になっていることも忘れるぐらいであった。私は最初は座ることの苦しみに耐えられなかったが、だんだんと静座する精神が身についてきて、その後も静座を私の日課とするようになった」(豊田小八郎著「但馬聖人」)
草庵は、口先で一方的に注意したり叱ったりしていたのではない。長い時間がかかっても、塾生自身が自分を見つめ、自分で気づいて反省することを大事にしていたのだ。

また、草庵は「学んでもそれが身につかないのは教える者と学ぶ者に、等しくその責任がある」(「肄業餘稿」63条)とも言っている。これは勉学のことについて言っているのだが、塾生が問題を起こしても、「教える者と学ぶ者に、等しくその責任がある」との考えから、塾生のそばに草庵自身も座って、自分を見つめていたのではないだろうか。                                                                        (提供 朝日新聞社)
                    草庵先生紹介
 日記 5                    塾生と和やかに過ごす草庵(左) 宮崎和夫さん作

 池田草庵は塾生に規律ある生活を求めていた。「みなさんは、毎朝早く起き、顔を洗い口をすすぎ髪をとき、部屋を掃き、机の上をふき、衣服を整えて机に向かいなさい」(「肄業餘稿」10条)などと。このような規律ある生活が塾生の心身を育てることにつながると考えていたからだ。これを塾生に求めただけではない。草庵自身がそのような生活態度で過ごす努力をしていた。しかし、草庵は規律ある生活を厳しく求めるだけはなかった。塾生との和やかな心のふれあう時間も持っていた。

 青谿書院は草庵の住まいでもあったから、夜でも塾生と向き合うことが多かった。その中では、昼間の講義を中心とした生活態度とは違う、草庵の姿が見える。弘化4(1847)年、青谿書院に引っ越した年の日記

「6月17日 夜に入り肩がこり,歯も痛い。幼い塾生に肩をたたいてもらう」

 草庵はどちらかと言えば病弱な体質で、日記の中でも、体調が悪いという意味のことをよく書いている。この夜は肩こりと歯痛である。塾生に肩たたきを頼んだのだろう。草庵と塾生の間の雰囲気が伝わってくる。

 「7月12日 塾生と対話してしばらく過ごす。夜に入って、また塾生と対話する」
 「9月28日 塾生とお茶を飲む。夜にまた塾生とお茶を飲む」
 「10月17日 塾生数人を呼んで団欒(だんらん)」
 「10月18日 塾生4、5人集まり、少し酒を酌み交わす」
 数々の記述があり、年長の塾生とは時には少しの酒を酌み交わすこともあった。

 厳しく自分を律していく草庵であったが、塾生と和やかな時間持つことにも努めていた。
こんな草庵のまわりには、塾生だけではなく知人、村人、塾生の先輩などもよくやって来て、話したり相談したりお酒を酌み交わしたりして、楽しい時間を過ごしている。
                                                     (提供 朝日新聞社)
                    草庵先生紹介
 日記 4                            
池田草庵の著作に「肄業餘稿(いぎょうよこう)」がある。これは草庵の語録集とも言えるものだ。日記「山窓功課」は貴重な記録であるが、草庵理解のためには簡潔過ぎてわかりにくいところがある。

 「肄業餘稿」は、それを補って草庵理解を深めてくれる。例えば「志は高く大きく持ち、それを実現するための努力は身近なことからやっていく」(19条)、「書物を読んでも疑問に思うところがないのは、読んでいても心を集中させていないからだ」(27条)などの草庵の言葉(文)が集められている。これらは、草庵が塾生に語りかけた言葉なのだ。

 青谿書院に移って12年目、安政5(1858)年11月4日の日記に次のようにある。「(前略)午後、講義、塾生5、6人に肄業。(後略)」 この日初めて、「肄業」という言葉が出てくる。これ以後、月に2,3回は「塾生に肄業」と書いている。肄業とは、業(わざ)を肄(なら)わせるということで、技(わざ)を学習させること。ここでは漢文の書き方の技を習得させようとしていることだ。そのために、草庵は自分が塾生に話をして、それを塾生に漢文で書かせた。その塾生が書いたものを、添削して漢文の書き方を指導した。草庵はこれを「肄業」と言っているが、講義の一つの形と言えるだろう。

 塾生に語りかけた内容は、草庵の人生観、勉学や読書の進め方、日常の感慨など多種にわたっている。これらを一冊にまとめたものが「肄業餘稿」という書物になった。

 日記に肄業が出てくる最後は明治10(1877)年11月17日。次のように書かれている。
「早起。部屋を掃除する。(中略)午後、塾生に肄業をする。後で,録した語を清書し、少し書き加える,(後略)」
肄業は約20年間続けられ最終的には全部で490項目の言葉(文)が「肄業餘稿」としてまとめられた。                                                                  (提供 朝日新聞社)
                    草庵先生紹介
 日記 3
池田草庵は、塾生が「徳を養い、身を修め、世の中の出来事に対応できるように」(「肄業餘稿(いぎょうよこう)」62条)なることを願って講義していた。

 前回も書いたが、日記「山窓功課」によると、書院での講義は書院に移り住んだ翌日から始められている。内容は儒学の基本的な書物である「論語」「大学」「中庸」「小学」「易経」などを読み、解説していくことが中心であった。講義した項目は、その都度日記に記録されている。例えば、次のようにである。(以後、草庵の文章の引用は原則として意訳で紹介)
「(風邪気味のため)ゆっくり起床。検読4人。授読2人。講義は『論語』2章。また読書は『言行録』。昼時、山中散歩。午後、講義は『小学』。長兄来て、しばらく対話。京都の春日潜庵より手紙来る。何度も読み、慰められる。夜、講義は『天文成年譜』4,5ページ。検読1人。(後略)」(嘉永元(1848)年10月27日)
ここに出てくる「検読」「授読」というのは個別に、書物の読み方や考え方を塾生に指導していたものだ。講義というのが今の教室での授業の形に近い教え方のこと。

 明治40(1907)年に発行された伝記「但馬聖人」(豊田小八郎著)には、「(青谿書院では)学級というものは特になかった。ただ、学力のほぼ同じような者をまとめて、教えられた。だから、人数の多い組は、数十人になり、少ないのは数人であった」と、かつて門人だった人の体験が書かれている。この「但馬聖人」は、実際に書院で学んだ人たちから体験を聞いてまとめて書かれたところが多く、草庵や書院の姿が具体的に伝わってくる。また、その「但馬聖人」では、「草庵先生は、書物を講義するときは、少しも言葉を飾ることなく、極めて淡々と話された。しかし、その言葉の味わいは深いものがあり、しかも意味がとても分かりやすかった」と草庵の姿を伝えている。 講義は32年間熱心に続けられた。明治11(1878))年9月24日に草庵は亡くなるが、その数日前まで講義をしてことが、日記で知ることができる。            (提供 朝日新聞社)
                    草庵先生紹介

 日記 2
 八鹿(養父市八鹿町)の借り住まいであった立誠舎から、念願の青谿書院ができて移ったのは弘化4(1847)年6月8日である。「山窓功課」には引っ越した当日のことを次のように書いている。(意訳)

「6月8日 朝、又あれこれとある。祝いの客5、6人来る。午前西村家に行き食事。昼寝の後、八鹿の3、5軒の家に行く。宿南村に向かう。村中を村人送ってくれて、大森で別れる。(西村)庄兵衛、五平,(國屋)松軒は、まだ送ってくれて、宿南の山間の新居に来る。この日、塾生らは私のために先に宿南に来ていた。年長の塾生は前日から来ていた。また、その他豊岡などの門人達が、二十四、五人集まってきた。みんなで、お祝の宴を催す。この夜、八鹿の3人は帰った。夜遅く就寝」 
八鹿の立誠舎から宿南の青谿書院までは、5,6キロはあるだろう。多くの塾生たちの協力もあって引っ越しが完了した。みんなでそのことを喜び、お祝いの宴もあった。

翌9日には、終日疲れていた、と書いているが、もう講義を始めている。多くの村人たちが、お祝いに書院に来るのも受けている。

そして、引っ越してから10日後の日記。

「6月18日。検読5人。授読1人。講義は『韓公』について。午睡.結髪。午後の講義は『小学』。しばらくして兄が来て、夜に帰る。盛之助来る。少々疲れがあったので、盛之助に『象山文』を数編読んでもらい,それを聴く。今日の読書は『通鑑』、22ページ」   
講義も午前と午後1講ずつが定例化してきて、読書も本格的になってきた。いよいよ青谿書院で読書や講義中心の生活が始まった。                             (提供 朝日新聞社)
                    草庵先生紹介

日記 1
 池田草庵は弘化4(1847)年の正月から日記「山窓功課」(最初のころは「山房功課」)を書き始めた。満33歳、八鹿の立誠舎を借りて塾を開いて4年目であった。それから亡くなる明治11(1878)年9月までの32年間書き続けた。日記を書く動機を1月1日の冒頭に書いている。意訳すると「月日はまたたく間に過ぎている。今から10年前、私は京都松尾山中で修行していた。そのときの歳の暮れに、次のような漢詩を書いたことがある。

 天保9年 歳の暮れの感慨 光陰石化(年月は火花のようにすぐ消える)とは嘘の言葉ではなかった。私の今までの26年間は夢のうちに過ぎて行ってしまった。成人して相馬九方先生を訪ねて行ったが、今は年を重ねてきた。悠々と勉学していて何ができるというのか。

 この詩を書いてからも、私は何をしてきたと言えるのだろうか。そのことを思うと嘆かずにはおれない。それで今日からは、日々どんな努力をしてどんなに成果があったかを記録して自分の反省の材料にしていく」

 悠々、つまりのんびりと過ごしてはおれないという思いから、草庵は日々の反省を書き続けていくことにしたのである。この年の6月には、ふるさと宿南の地に建てている念願の青谿書院に移ることになるが、それへの期待も込められているのだろう。
 この冒頭の次に、最初の日記を次のように書いている。

 「1月1日 村中の賀客5、6人相見える。又塾生と団欒し話し相う。併(しか)し其(そ)の間『通鑑綱目』30帖(ページ)読む。夜半頃就寝」
 年の初めのこの時期、書院の完成も近く胸も膨らんでいたことだろう。日記の簡潔な記述の中にも、塾生とも楽しく話せ、読書もしっかりできた充実感がうかがえる。草庵の後半生、32年間の記録のスタートだ。
                          (提供:朝日新聞社)
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                    草庵先生紹介

三十余年の日記

 池田草庵は、弘化4(1847)年6月に青谿書院を八鹿町宿南に建てて移った。その年の1月1日
から亡くなる明治11年9月までの三十余年、日記「山窓功課」(初期のころは「山房功課」)を書き続けた。

 その日記の一日の記述はとても簡潔だ。例えば、青谿書院に引っ越した翌日と翌々日の日記は次のように書いている。(意訳)「6月9日 疲れていた。ゆっくりと日を過ごす。朝,開講。『論語』の講義。(中略)片山(実家の場所)の兄や兄嫁が来訪。村中の6、7人祝いに来る。夜深就寝」「6月10日 朝、塾生に検読4人、授読1人。結髪。昼寝の後、『史略』を講義。村中の6,7軒訪問。夕方帰院。蚊に責められて、大変困る。読書に集中できず。読書はわずか2,3ページだけ。早めに就寝」簡単な記述だが、行間からは儒学者としての草庵の願いや思い、村の人たちとの様子などを垣間見ることができるのだ。

 これらの日記の原文は、毛筆でほとんど漢字で書かれている。今の私たちが読むのはなかなか難しい。それを全部解読し、私たちにも読めるようにしてくださったのが現・朝来市山東町の故・西村英一氏である。西村氏は昭和18(1943)年に宿南小学校長として赴任されて以来この日記の解読に努められ、退職後も三十数年、心血を注いでこの解読に当たられた。そして、西村氏の自筆のまま、多くの人の協力で、上、中、下の3巻として出版された。

 この度、吉田公平先生(東洋大学名誉教授)のご指導を受けながら、西村氏の解読された「山窓功課」を「池田草庵先生に学ぶ会」と宿南地区有志のみなさんとで、誰でも読めるようにパソコンに入力する作業を続けている。
「草庵と青谿書院」については本稿で終わり次回から「本編」としてその日記を紹介しながら、ふるさとで人材を育て、全国に教育や文化を発信し続けた草庵に学んで行きたい。

                              (提供 朝日新聞社)
                 草庵先生紹介

青谿書院の役割

 池田草庵の青谿書院は、養父市八鹿町宿南の山あいに立っている。建物は木造で、屋根は主にかやぶきであるが、一部瓦ぶきのところもある。1階は講義する部屋と草庵一家の住まい,2階は物置や塾生の宿舎として使われていた。江戸時代の私塾が現存するのは、全国的に見ても珍しく昭和45(1970)年には県指定の史跡となっている。

 池田草庵が青谿書院について書いた「青谿書院記」という文章がある。

 その冒頭には、「青谿書院池田緝読書之處也」(青谿書院は池田緝の読書する処なり)とある、「青谿書院とは何をする所か」について草庵自身が答えていると言っていいだろう。「青谿書院は池田緝が読書すると所だ」ということだ。「緝」というのは草庵の名前で「草庵」というのは別名の「号」なのだ。

 ここでの「読書」は、単に書物を興味本位で読んだり、知識を広げていったりするためだけの読書ではない。草庵の読書は、それによって学問を深め、自らを高めていくことに大きなねらいがある。さらにその上に、書物を中心にして講義や対話などを通して若者を育成していくという意味も含まれている。実際、今後紹介していく草庵の日記である。「山窓功課」には、32年間にわたり、どんな書物をどれくらい読んだか、どんな講義をしていったかなどが毎日のように記されている。

 「青谿書院記」にはこの他に、書院を建てるまでの自分の半生やなぜこの地を選んだのか、ここで何をやりたいのかなども書かれている。明治11(1878)年、草庵が65歳で亡くなったとき、門人たちは先生の死を悼み,死の2年後にこの「青谿書院記」の文章を石碑に刻み、庭の端に建てた。石碑の文字は、明治時代の3大書家と言われる長三州が揮毫した。

                                   (提供 朝日新聞)
 

草庵先生紹介

 青谿書院が完成

 27歳で池田草庵は、京都市内で自分の塾を開いた。その草庵に、ふるさとの人たちは「帰郷してふるさとの若者たちに教えてほしい」と懇願してきた。それで29歳になったとき、ふるさとに帰り、八鹿村(現在の養父市八鹿町)の西村潜堂(庄兵衛)が所有していた山館「立誠舎」を借りて塾を開いた。立誠舎はもともと心学という学問を学ぶ所(講舎)だった。そこは、八鹿の街中の高台にあり落ち着いた場所だ。草庵は、「立誠」というのは、自分の目指している目標でもあると、立誠舎の名称をそのままにして塾を始めた。その建物は平成22(2010)年に、当時のままの姿に復元されている。

 立誠舎での4年間に、主に但馬地方中心にして60人余の若者が学びにやって来た。その中には、池田盛之助、池口芳太郎(共に旧養父郡宿南村)木築秀次(旧城崎郡福田村)、安積理一郎(旧朝来郡和田山村)、國屋松軒(旧養父郡八鹿村)、北垣晋太郎(旧養父郡能座村)など、その後の草庵を強力に支えた人たちがいた。

 その後草庵33歳の弘化4(1847)年、自分の出身地である宿南に青谿書院を建てることができた。建てた所は、村里からは少し離れた、山間の静かな所だ。すぐ近くを細い青山川が流れている。「青谿」という名前は、この川の名に由来すると草庵自身が書いている。

 念願の自分の住まいであり塾である青谿書院ができた喜びとこれからの決意を、後に「青谿書院記」という文章の中で、「吾終焉之図定矣」(「吾が終焉の図定まれり」=私の一生の拠点ができた)と書いている。実際それから65歳で亡くなるまでの生涯を、山あいの静かな青谿書院を離れることなく読書や思索、塾生の育成などで過ごした。

(提供 朝日新聞)

    草庵先生紹介

儒学との出会い

池田草庵は江戸後期の文化10(1813)年7月、現在の養父市八鹿町宿南に農家の4人兄弟の三男として生まれた。草庵は、8歳の時に慈愛深かった母を亡くし、病弱だった父もその2年後に亡くした。長兄が家を継ぎ、他の兄弟はそれぞれ離散して暮らすことになった。
草庵は母を亡くした翌年、弘法大師が開いた真言宗で、「但馬高野」とも呼ばれた満福寺(養父市十二所)に預けられた。ここで、立派な僧侶になるために仏道の修行をしながら、読み書きの勉強にも励んだ。

 一生懸命な草庵の姿を見て、住職の不虚上人はとても頼もしく思い、将来を期待していた。

 16歳のとき、たまたま近くの広谷に来ていた儒学者の相馬九方の講義を聞く機会があつた。

草庵は九方に出会い、講義を聞いて、自分の進む道は仏道よりも儒学の道だと思うようになった。
この思いは、草庵に期待していた不虚上人に許しをもらえることではなかった。しかしどうしても諦めることができなかった草庵は、とうとう17歳のとき無断で寺を出たのだ。

 そして京都の相馬九方の塾に身を寄せた。そこで、塾の雑用などもしながら勉学に励んだ。生涯励まし合う友人となった春日潜庵ともここで知り合った。

 なお、「青谿書院記」という文章の中で草庵は、この時の自身の学問の姿勢を,「尋師訪友」と書いている。「師を尋ね友を訪問して」勉学したということだ。この四文字熟語は今、養父市八鹿町の県立八鹿高校の玄関前に、校訓の一部として刻まれ、学ぶ若者への指針となっている。

 22歳で草庵は相馬九方の塾を去り、京都の西の松尾山付近に1人移り住んだ。貧しいくらしの中で、読書と思索を重ねていった。
そして再び京都の市中に出て、自分の塾を開いた。27歳の時だった。

            (提供 朝日新聞)
   草庵先生紹介

幕末 地域から文化発信

今、北近畿豊岡自動車道の工事が豊岡市に向かって急ピッチで進む。養父市八鹿町宿南の静かだった渓谷にも八鹿から日高に抜ける大きな橋梁ができつつある。その橋の近くに、江戸時代末期の弘化4(1847)年に建てられた青谿書院が、橋とは対照的に昔のままの姿で建っている。

 青谿書院は、満年齢で34歳の時に池田草庵が建てた私塾である。今からおおよそ170年前のこと。そのころ但馬には、出石藩の弘道館、豊岡藩の稽古堂、村岡藩の明倫館などの藩校はあったが、主にその藩の武士たちが学ぶ所だった。 草庵の青谿書院は、主に儒学に基づいた教えを中心にした漢学塾で、地域の農民や町人の子弟を初め、若い武士たちも学びにやってきた。この塾に来る者は、但馬各地からはもちろん、草庵の名が知られていくにつれ遠くは現在の宇都宮市、長崎県平戸市、香川県多度津町など全国から、やってくるようになった。

 明治11(1878)年に草庵がなくなるまでの約30年間に、門人帳に記載されているだけでも700人近い。地方創生が叫ばれている今、この狭い山あいを生涯の住まいと定め、自分の生き方を追求しながら地域の人材育成、さらには全国に教育や文化を発信した草庵に学ぶことは多い。草庵はこの青谿書院を建てた年の1月1日から、亡くなる年まで32年間の日記「山窓功課」(初期のころは「山房功課」)を残している。これを手がかりに、草庵の生き方を学んでいきたいと考え、私たちは今、この日記をだれにでも読むことができるように現代語訳して、パソコンに入力する作業を続けている。

               (提供 朝日新聞)
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